常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

萩の花

2014年10月13日 | 万葉集


万葉集で、秋の七草を詠んだ山上憶良の有名な歌がある。

その一 秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花
その二 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花

この歌は天平2年のころ、山上憶良が筑前の国司として筑紫に赴任していたころの作である。この年憶良は72歳。野に遊ぶ筑紫のこどもたちをまえにして、七草の花の種類を教えていたものと推察できる。指折りは、ここではくだけて「および折り」と読む。

秋の野にいっぱい花が咲いているいるな。いいかこうやって指を折って数えると、七種の花、そら七種(ななくさ)の花があるんだぞ。(その一)

憶良は大勢の子どもたちを前に、両手を上げて、指を折りながら花を数えて見せた。

ひとつ萩の花、ふたつ尾花、みっつに葛の花、そうそういつつにはなでしこの花。ここで片手は拳になってしまう。もう一方の手で、むっつ藤袴、ななつ朝顔の花。そうだよ全部で七種の花なのさ。こうして満面の笑みを浮かべて子どもたちと語る好々爺の憶良の顔が浮かびあがる。
 
憶良には、子等を思ふ歌がある。これも子を憶良の愛する心情を吐露した歌として有名である。同じく筑前国司であったときの作である。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに
もとなかかりて 安寐し寝さぬ

反歌
銀(しろばね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

行き過ぎた子への愛着、愛執。それは仏教の戒めるところでもあった。それを突き抜けた憶良の絶唱である。


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台風接近

2014年10月13日 | 日記


台風が九州に上陸して速度を早めて四国、近畿に影響が出始めた。こちらはまだ風などの影響はないが、先触れの雨が降り始めた。列島を縦断する気配で気圧も衰えていないので、今年の台風としてしては最強ということになるのか。被害が少なく済むことを願う。この18号は、国際名でヴォンフォン(スズメバチ)と名づけられている。上陸する前に大きく気圧が下がり910hPaとなりスーパー台風とも呼ばれた。最大風速40m、雨も200mmから500mmと最大の警戒を要する。

今から60年前、1954年(昭和29)9月26日、洞爺丸台風があった。その年の台風15号、国際名マリー、青函連絡船がこの台風の風(風速50m)に煽られ転覆、沈没し、死者1132名を出したので洞爺丸台風とも呼ばれる。台風は北上中に勢力を弱め、北海道に接近する頃には温帯低気圧になっているので、珍しい台風である。北海道の各地で大風が吹き、岩内町で大火3000戸が消失した。全道の犠牲者は洞爺丸を含めて1362名に及ぶ大惨事となった。台風は九州から日本海に出て北上、時速100キロというスピードで北海道の西海岸に上陸した。

この台風の風が吹きすさぶ夜、深川西高校の生徒、森田科二が服毒自殺を遂げた。当時全道の教育界を揺るがせた「あゆみ会事件」である。森田が所属したクラブ活動「あゆみ会」の活動内容に疑問を感じた赴任間もない校長が、警察に相談して活動を注意させていたことが、北海日々新聞、北海道新聞にセンセーショナルな見出し報じられた。「日共の触手高校生へ、深川西高あゆみ会問題化」との見出しで、高校生のメーデー参加、非武装軍事教練参加などが報じられた。記事の内容が事実でなかったことが多かったので、あゆみ会では記事の撤回を求めて抗議した。しかし新聞社から誠意ある回答がなく、これに抗議しての自殺であった。

私が深川西高に入学する2年前のできごとである。この60年目の節目に『深川西高校「あゆみ会事件』森谷長能著が文理閣から上梓された。深川西高の教職員が、この事件にどう立ち向かい、事態をどのように解決したかが、詳細に記録されている。いじめ事件で、責任を回避する昨今の教育現場とはまったく異なる覚悟と決意が当時の教職員にはみなぎっている。一読をすすめたい。


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