石川啄木
2015年04月09日 | 人
石川啄木は郷里の渋民村を、村人から追われるようにして離れ、北海道に渡り札幌、小樽、釧路と新聞社の創業に関わった。明治40年から41年にかけてのことで、啄木22歳のときであった。すでに歌人として認められていた啄木は、北海道での生活に見切りをつけ、妻子を函館に残して、東京に出て作家になる決意をして上京した。この時、啄木を支援したのは金田一京助であった。書きためた原稿を出版社の持ち込んだが、どこの出版社からも採用されることはなかった。
東京での啄木の生活は、朝日新聞へ入社し、朝日歌壇を担当した。あわせて、毎日新聞に小説「鳥影」を連載、少しばかり生活の安定を見て、妻子を東京へ呼び寄せた。長男真一が誕生したが、育ちが悪く死去。啄木自身も病を得るという凶事が相次いで起こっている。東京にいて啄木は、郷里の自然を懐かしく思い出す日々であった。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
かにかくに渋民村は恋ひしかり
おもひでの山
おもひでの川
この啄木の歌には郷里を懐かしむだけでなく、郷里を失くした悲しみがこめられている。そのことは、東京での生活が安定したものでなく、ふるさとにあったころの幸福と対比されている。柳が芽吹く季節になると、この啄木の歌を思い出し、その時の啄木の心情に思いを馳せる。