今日、今年の重点練習の課題吟に本居宣長の和歌「山桜」を選んだ。西行法師が桜の花を愛したことは有名だが、本居宣長も桜を好んだことは西行に劣るものではない。課題の和歌は宣長が数多く詠んだ桜の歌でもその代表格だ。
敷島のやまとごころを人問はば朝日にひほふ山桜花
敷島はやまと、つまり大和にかかる枕詞とされている。敷島はそもそも磯城島(しきしま)という地名で、ここには崇神・欽明の両帝の宮が営まれた地である。安永元年(1772)3月、宣長は身近な人を伴って吉野へ桜の花を見る旅にでかけた。その旅には、宣長にとって重大な意味があった。宣長の父は長く子宝が得られなかったことに心を痛め、吉野の実水文神社に神前にぬかづいて子を授かることを祈願していた。そのお礼参りに行かねばと思いながら、父はそれを遂げずに死んでしまった。父はいないものの、自らお礼参りにこの地を訪れたのである。
国学者はこの歌を、やまとごごろを日本の国民精神であるかのように解釈し、国威発揚に結びつけられたこともあった。しかし、本居宣長がこの水分神社の地の心いきは、この吉野の山を覆い尽くす山桜の花であった。宣長は遺言に、自分の墓の周りに桜の木を植えることを指示している。宣長に命を与えたのは、この吉野に咲く桜の花であった。