与謝蕪村
2015年04月28日 | 人
与謝蕪村は江戸で俳諧師夜半亭宋阿の門人であったが、夜半亭亡き後、盟友の砂岡雁宕のいる結城に移り、身を寄せた。寛保2年(1742)、蕪村27歳の時である。結城は織物の町で知られるが、市内には25もの寺院があり寺の町としても知られる。鬼怒川をはさんで栃木県と隣接する町の下館や結城を遊歴しつつ、足掛け10年の歳月をこの地で過ごした。この地には、砂岡雁宕をはじめ早見晋我(北寿)など名のある俳人も多く、それらの人々との交流を楽しんだ。
結城で蕪村にとって大きなできごとは、慈父のような存在であった早見晋我(北寿)が1745年に75歳で逝去したことであった。蕪村は自由体の追悼詩「北寿老仙をいたむ」を作り、その死を悲しんだ。
君あしたに去ぬゆふべのこヽろ千々に
何ぞはるかなる
君を思ふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河へだてヽ住にき
蕪村は北寿の死を悼むあまり、近くの寺に出かけて剃髪して法体となり、庵室に籠ってその菩提を弔った。北寿の死は正月28日、新暦でいえば2月28日になる。その日、蕪村の遊んだ岡のべにはタンポポの黄の花に混じってナズナの白い花が淋しく咲き、河の向こうから雉の鳴き声が聞こえていた。すでに花を愛でていた人の姿はなく、河むこうの雉は呼びかけても応えてはくれない。