平家物語の冒頭は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」という名文句で始まっている。学生時代に、この句を暗誦したものは、筆者ばかりではあるまい。「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし」と続くが、この春の夜の夢は、桜の花をシンボルとしていると言ってもいいのではないか。
ほんの先週まで固い蕾のなかにあった花は、時節を得て、すでに爛漫と咲き誇っている。平家が清盛という頭領を得て、極めて短時間に権力の座につき、平時忠をして、「此の一門にあらざる人は皆人なるべし」と言わしめるほど、栄華を極めたのは、歴史が示している通りである。
だが、清盛は平家の命運が、自らの病死の後、坂を転がるように滅んでいくことにいささかも気づかなかった。清盛は最後の「あっち死」といわれる熱病に冒され、戸板の上に臥しまろび、水をかけさながら悶え死んだが、その遺言が生前の性格を物語っている。
「忝くも帝祖太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望み、一事も残る所なし。但し思置く事とては、伊豆の国の流人前右兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。」と述べ、自分の墓に頼朝の首を、供えることを、子どもたちの孝養だとした。
だが、頼朝を棟梁とする武士の台頭は、清盛の思惑を超えて、平家はもとより、後白河法皇に代表される貴族の栄華をも葬り去ったのである。