村上春樹の短編の「東京奇譚集」に『品川猿』というのがある。干支にふさわしい読み物として新年の最初に読んだ。東京で自動車販売店の事務員として働いている安藤みずきは、自分の名前を思い出せないことが、しばしば起きるようようになった。老人性の物忘れであればさほど珍しいことでもないが、彼女の場合、ほかのことでは忘れるということがないのだ。自分の名に限って、出てこない。電話で話して最後に、ところでお名前をお聞かせください、言われて記憶が飛んでしまう。デパートで買い物をして、寸法を書き入れたりして「お名前は」と聞かれても、やはり出てこない。
この奇譚では、下水道隠れて住んでいた猿が不思議を引き起こしている。みずきが秘密にしてしまっていた学生時代の後輩の名札と自分の名札を猿が盗んだために、名前を忘れるということが起きた。猿は人間の言葉を語り、みずきの心の闇さえを読み解いてしまう。後輩は名札をみずきに預けたまま自殺するのだが、その前日みずきに、「嫉妬の感情を経験したことがありますか」という問いかけをした。みずきは、そんな経験は一度もない、言っている。みずきは、人間であれば誰もが持つ感情を、心から消し去っていたのだ。品川猿は、その心の負の部分を言い当てる。「だからあなたは、誰かを真剣に、無条件で、愛することができなくなってしまった。」
猿から名札を取り返すことによって、みずきははじめて自分を取り戻した。それは名前を忘れるという現象にとどまらず、自分の存在さえも喪失していく危険から救われたのである。村上春樹の小説には動物がしばしば登場する。昔話や童話の世界では、動物は自由に人間の言葉を話している。この短編には、村上の小説世界が、鮮明に描き出されている。