常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

源実朝

2016年01月03日 | 百人一首


鎌倉幕府三代将軍源実朝の歌が、藤原定家により百人一首に採られている。詠み手とされているのは、鎌倉右大臣である。右大臣に叙せられるのは、実朝は弱冠28歳であった。しかもその年、鶴岡八幡宮で甥である公暁のために暗殺された。鎌倉の武家に育った実朝は、歌の道を志し14歳のとき、藤原定家の門に入り、貴重な歌書を送られて勉強に励んだ。

世の中は常にもがもななぎさ漕ぐ蜑の小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣

父の頼朝はすでにこの世になく、鎌倉の実権は北条時政らの手中へ移行しつつあった。2代将軍は北条氏により伊豆へ移され、実朝が3代将軍となるが、もはや孤立した存在であった。孤立が深まるほどに、歌や蹴鞠などの雅の道へのあこがれを強めていく。定家の教えは、「古きを慕い、新しきを求める」歌の道であった。

定家自身、時代の流れのなかで、「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事にあらず」と日記に記したように、世上の出来事と歌の道を切り離して追及した姿勢は、実朝の孤独な身に響くものがあったに違いない。

大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも 実朝

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ 実朝

すでに京都で行き詰まりを見せ、連歌が持て囃される時代に、若き実朝の歌は定家の胸に響く境地を開いていた。それ故にこそ、実朝の歌が百人一首の歌のなかに残り、今日誰もが接することのできる幸運がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする