満月のころ夕陽もまたうつくしい。ちょうど日没のころ、遊創の丘に行く機会があった。日没が早く、4時半には写真のような夕焼けの景色が広がっていた。ベンチに腰を掛けて、この風景にじっと見入っている若いカップルの姿もあった。あちこちにカメラを持って、この風景を写真に収めようとする人たちもいた。このやさしい風景に接すると、青春の記憶がよみがえってくる。晩唐の詩人・李商隠の詩「楽遊」が思い出される。落日を詠じた絶唱である。
楽遊 李商隠
晚に向んとして意適わず
車を駆りて古原に登る
夕陽 無限に好し
只だ是れ黄昏に近し
盛唐の詩人が天下国家を詠ずるのに対して、晩唐の李商隠は唯美主義的な傾向がつよい。恋愛詩が多いのもひとつの特色である。彼は老いを嘆いたり、青春を懐古することもなく、あくまでも現在進行形の恋愛を見つめる詩を作った。
「楽遊」の詩にもどると、夕暮れに近づいて心に鬱積した思いを解き放なとうと楽遊原に向かう。そこで見た落日の風景を、あれこれ説明することもなく、単純に「好し」と表現する。やがて日は地平に没し、間もなく夕やみに閉ざされていくことを知りながら、刻々と変化する夕陽に心を奪われている。