常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

旅路

2014年05月17日 | 日記


苗が育ち始めた農地にぽつんと寂しげに咲いているアリウム。この花を見ながら、寺山修司の『ポケットに名言を』の書き出しを思い出した。

言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。

人生もまた旅路である。この不思議な旅路で私自身、たった一人であるということに度々気付かされる。畑にいて草取りをしながら発芽した野菜の新芽を観察するとき、自分が一人であることをより強く意識する。山登りをしながら美しい景観に我を忘れるとき、さらに強く自分が一人であることを意識する。多分その一瞬は、誰ともシェアすることができないからだ。

雨の日に読んだのは三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖5』。サブタイトルは「栞子さんと繋がりの時」である。栞子に愛を感じながらこの古書店のアルバイトをしている大輔が告白して付き合いを求め、ようやくその返事が語られる。この物語で鍵となるのは、寺山修司の『われに五月を』の初版本である。

「きらめく季節に、たれがあの帆をうたったか。つかのまの僕に、過ぎ行く時よ・・・」。寺山修司の自筆の「五月の詩」の鉛筆書きの原稿が無残に消しゴムで消されていた。高価でしかもコレクターには垂涎のものである。この事件が、収集家の妻や弟たちの人生に大きな影響を与えた。事件を次々に解き明かす栞子の活躍はこれからも新刊となって登場する。



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躑躅

2014年05月16日 | 日記


散歩をしていて気づいたことだが、古い農家などの大きな家には大きな花がある。古い家の歴史は、花木の成長がその長さを語っている。この写真の躑躅も大きく枝を伸ばし、家が隠れるほどである。朝日がさして、花の先端が光を受けて輝いている。躑躅は難しい漢字だがツツジだ。馬琴は俳諧歳時記に、「羊、この花をくらへば躑躅(てきちょく)して斃れ死す。故にしか云ふ」と解説している。

江戸の京都では東山ののべに、酒や弁当を携え、人々は誘い合って躑躅の花見にでかけた。
「賀茂の山辺にに日をくらして、白き赤き紫の、いろいろ手折りてかざせる」と北村季吟は京洛のツツジ見を『山乃井』に書き留めている。

裾山の虹吐くあとの夕つつじ 芭蕉



つつじ咲て片山里の飯白し 蕪村


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アマリリス

2014年05月16日 | 


室内にあるアマリリスの鉢に、赤ん坊の顔ほどの大きさの花が三輪咲いた。毎年、この時期になると、大きな花が微笑みかけてくる。もう5年も前に亡くなった玉ちゃんからいただいた鉢である。玉ちゃんは産婆さんとして、80歳まで産婦人科で働いていた。

産婦人科を辞めて時間ができて、我が家に遊びにくるようになった。若いころからずっと働き通しであったが、家庭的には恵まれなかった。1人息子を女手ひとつで育て上げたが、その息子から疎んじられた。母の生き方を認めなかったのである。自分が建てた家を出て、ひとり老人ホームで最後の時間を送った。そのホームには温泉があったので、妻と温泉にいきながら、老人ホームに入所している玉ちゃんに会った。

ホームの食堂からうどんを取ってご馳走してくれた。うどんを啜りながら、玉ちゃんの話を聞いた。胃に癌ができて手術したこと。教会の牧師さんの家へ話を聞きに毎週行くこと、息子夫婦と暮らしたころの、子どもたちの仕打ちなどなど。玉ちゃんは死を恐れる気配はなかった。淡々とホームの生活を楽しんでいる風であった。ひとりの女性の生き様を隠すことなく話した。私たちは聞き役であった。話をすることで、玉ちゃんは自分の生きていることを実感しているようであった。

ある年、玉ちゃんはそのホームを退所した。何も連絡がなく、どうしたのか気にしていたが、病院で静かに息を引き取っていた。彼女の残してくれたアマリリスが、今年も元気いっぱいに咲いている。

アマリリス月のなき夜をふかねむり 柴田白葉女


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鯉のぼり

2014年05月15日 | 日記


子どもの日が過ぎたが、山形の空にはまだ鯉のぼりが泳いでいる。この地方では旧暦の端午の節句まで鯉のぼりは降ろさない。だが、それにしても鯉のぼりはめっきり少なくなった。少子化のなせるわざなのか。孫が遊びに来たころには、あちこちの家で競うように鯉のぼりを青空を泳がせていた。まだ、2、3歳だった孫が、大きな鯉のぼりに気づいて、回らぬ舌で「こいのこり、こいのこり」と言っていたことを懐かしく思い出す。

鯉幟なき子ばかりが木に登る 殿村莵絲子

自分の子どものころには、子どもの日に鯉のぼりを揚げる家は少なかった。殿村の句ではないが、木に登る子ばかりが多かった。今は子の幟が二尾が標準のようだが、子の数だけ子の幟を揚げるとすれば、6尾、8尾も珍しくはなかった。そんな規模の大きなものであると、支柱の長さも半端ではない。家の土台に、幟の支柱を収める場所を作るのが立派な家のシンボルであった。

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桐の花

2014年05月14日 | 日記


桐材を商っていたIさんが亡くなった。膀胱にできた癌を繰り返し手術で取っていたが、先月入院してついに帰らぬ人となった。私が借りている農地の地主さんでもある。曲りなりに野菜作りができたのも実にIさんのお蔭であった。除草と水遣り、そして肥料をたっぷりと施さなければいけないことを実地で教えてくれた。Iさんは、私の名を君付けで呼んでくれた。

「I君、俺の畑を見てみろ。水遣りと肥料をやれば、里芋がこんなに大きくなる。I君のは肥料をケチっているんだよ。」少しでも畑を空けておくと、すぐに苗を持ってきて、「これを植えてみな。秋にはおいしい実がなるから」。炎天下に、しぼんだ野菜に水をやりに行くと、褒めてくれた。「頑張るなあ。I君ぐらい一所懸命な人はいない」梅雨時には、草の勢いに負けていると、「草取りしないと、野菜は育たないよ。」Iさんの言葉には、穴があれば入りたいほどなのだが、いつも愛情を感じていた。

近くの市営住宅の空き地に大きな桐の木がある。いつも山のなかで遠くに咲く桐の花を眺めていたが、こんなに近くで桐の花を見るのは初めてだ。Iさんの死を悼んで、桐が枝いっぱいに花を咲かせたような気がする。

墓濡れて桐咲くほどの地温あり 飯田 蛇笏

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