今日の桜
突然の強風に満開の桜が大きく揺れている。しかし花はまだ散る様子はない。散り始めるのは花の芯の部分が赤くなってからと聞いた。
童謡に「つくし誰の子 スギナの子」と歌われている。子供たちが戸外で遊んでいたころは、広場の身近な存在であった。これが食用に供されるということを知ったのは、すっかり大人になってからである。もうかなり以前、20年も前のことだが、関西から親せきの友人が遊びにきたことがあった。山菜というものが珍しく、山でコシアブラを採って、天ぷらとお浸しで供したところ珍重されて、大喜びされたことがあった。そのとき、土筆が話題になった。関西では、誰もが土筆に目がないらしく、春になって土筆が出るとたちまち採り尽くされてしまう、と話されていた。
旅館に泊まってて、最上川の船下りに行くと、待合にいく広場に一面に土筆が出ていた。関西の人達は、船の出発時間を忘れて土筆採りに夢中になった。調理法を聞くとハカマを取って、3等分くらいに切って、水にとって一晩あく抜きしたものを醤油、味醂、砂糖、みりんを適量に汁けがなくまに詰めるとのこと。簡単なので、作ってみると、これが意外においしい。それから春には一度は食べたものだが、しばらく続けたがそのうちに忘れてしまった。食べ物とは、子供のころに身につけたものが、生涯のものになるというが、その通りである。
くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 正岡子規
この歌に詠まれている土筆摘みも、夕餉の食卓にのせるために、子どもたちが摘んだものであろう。先端の穂のような部分は花で、ハカマは葉が変形したものだ。一本の土筆にはハカマが二つ付いているので、手で取るのに意外と手間取る。これは考える人がいるもので、ハカマの根本をハサミで切り、ハカマをづらせば簡単に取れると教える人がいた。
春山、言い換えれば残雪期の登山。この時期県内で一級の山へ登るには、体力、技術ともに及ばない。前衛の山から、朝日連峰や月山の景観を眺望するのが、おのずとこの時期の登山の目指すところとなる。石見堂岳、標高1286m。山形百名山にも選ばれていない山だが、これに続く赤見堂を周回するのは、かくれたファンの多い穴場である。ここから、月山、鳥海の眺望、大朝日連峰の大パノラマは、好事家の見逃せない景観があるからだ。我が会は昨年も、石見堂岳を企画したが、時間切れで980m地点から撤退している。この度は、いわば昨年のリベンジとして山頂を目指した。登山開始時間も6時30からとし、余裕をもたせた。
生涯の思い出になるようなすばらしい山行。それを実現するには、さまざま条件が満たさなければならない。第一は天候、晴れて、しかも雪が固まる冷え込み。第二は尾根に歩きやすい雪があること。第三にパーティのチームワーク、体力が均衡していることが望ましい。第四に上手なコースとり、危険を避ける配慮。適度な休憩と水分補給などなど。この条件に加えて、一昨日の降雪が30㌢ほどあり、青空の景観に雪のまぶしいような雪の白さが目立った。
今回の参加人数6名。内女性2名。最初に書いておくのは、リベンジが見事に果たされ、頂上からの朝日連峰の大パノラマを十分に堪能することができた。いわばすばらしい山行の条件が満たされいたからである。
大井沢道路に車を置いて、道脇から林の中を歩くと、すぐに尾根にとりつく。尾根道は写真にように歩きやすいところもあるが、多くは痩せ尾根。左右は深い沢へと落ち込む斜面である。所々、陽当りのよいところで雪が消え、イワウチワの花が咲き始めていた。一人の若い青年が赤見堂を目指す、とのことでトレースを残してくれたので、道を取り違えることもない。しばらく行くと、木や岩が尾根上にあって、そこを迂回するように、斜面に出て慎重に通過する。アイゼンは必須である。一昨日に降った新雪に、日があたって美しい。
雪山に白雲揉み合いひつつ流れ 石原 栄子
この年になって、眼前に広がる光景はを再見することは、もはやないであろうと了解している。カメラに収めることも意識するが、眼底に焼きつけておきたい、という気が起きてくる。自然のなかで生きるブナの力強さが印象的だ。中には、直径が2mを超えるような大木が、幹に苔をまとって聳える。芽吹き前の山は静寂である。
800ⅿ付近の標高になって、尾根にも次第に雪が多くなる。去年より日程を一週早めたため、全体の雪は少ないのだが、残雪の光景がきれいだ。新雪の量も多くなっていくような感じだ。
このあたりから、姥ケ岳、湯殿山、品倉山の出羽の霊山が間近に見えてくる。実に絵に描いたような景色だ。次週は姥ケ岳から湯殿山へ。雪の石跳沢を渡る。そのコースが見えるような近さである。大井沢の集落から見る月山、湯殿山の景観も捨てがたい。予報で連日出てくるのは、雪崩注意報だ。この尾根道からも雪崩の跡のある、斜面が所々に見える。音をさせて崩れていく雪崩とともに、山には駆け足で春がやってくる。木は深い雪を、その周りをホール状に溶かし、芽吹きを始める。雪の中で見えるているのは、黒い雪虫。カモシカや熊の足跡がくっきりとついていた。
木々伏して渕も瀬もなき雪崩跡 福田 早苗
朝、6時30分に登山口を出発して、昨年の撤退地点(標高1000m)付近に着いたのは、10時。ここまで3時間30分を擁している。ここまで来ると、昨年のことが思い出される。昨年の写真で見ると、その日も快晴で、暑くタオルを被って写っている人もいる。今年は、昨年ほどの暑いという感じはなく、疲労感もさほどではない。ここで、一休みして、石見堂の頂上を目指す。気温が上がり、雪がやや重くなる。右手に奥に頂上。左手の奥には、朝日連峰の一部が見えている。月山ダム、国道112号線も真下に見えている。
あまりの絶景に写真を撮る間隔があいている。家に帰って、写真を見て、見た感動のどれほが映像として残ったか、はなはだ疑問である。登りながら撮る、という作業は難しい。ちょっとした片手間で、この自然の美しを写し取ることなどできないのかも知れない。
前方に1200mのピークが見えてきた。この肩を巻くようにして過ぎれば、いよいよ頂上が見えてくる。肩のあたりで11時10分。登山口から5時間近くになっている。一歩高度を上げるだけで、辺りの景色は違いを見せる。見えなった部分が少しづつその全貌を現していく。今年の山行では、初めて味わう感動である。空の色も、山の白さも、ここでしか見ることのできない色、そして形だ。高いところから俯瞰することによって、その奥行きは一層の深みを見せる。
振り返れば、新雪のなかに、一本の道ができている。雪が少しづつ融けてきて、その道もくっきりと見え始めた。風もなく、背中には汗がにじんできた。30分に一度くらい、水分補給の休憩をとる。さすがに、足に疲労がたまってきた。
ついに石見堂の頂上が姿を見せた。すっぽりと雪をまとって丸い形状だ。木は雪から少し先端をのぞかせているだけ。頂上につくと、標識があるわけでない。JPSが示す現在地が、石見堂岳を示している。それほど大きくはない石が、その標識の代わりなっている。背後には、月山の雄姿、その傍らに湯殿山が控えている。南の方角には、朝日連峰の大パノラマがくっきりと見える。
「忘れてはならじと、思い出の山の映像を、その奥に焼きつけるように、わたくしは瞳をかたくとじるのでした」日本女性としてはじめてモンブラン、マッターホルンに登頂した川森左智子は、「モンブラン登頂記」をこの文章でしめくくっている。私には、この春の石見堂岳が、忘れえぬ山となるであろう。
頂上で記念写真を撮ったあと、1200mのピークとの鞍部で昼食をとる。なお、山の光景を見ながら、雪を食卓がわりにしてカップラーメン。
下山は一気である。1000m地点1時30分。700m地点2時20分、登山口3時30分。2時間30分の下山である。1100ⅿ地点で、二人の登山者に出会う。福島から来たとのことであったが、かなり疲労している様子が見てとれる。頂上まで行くと、かなり遅い時間になるような気がする。痩せ尾根は朝より雪が柔らかくなって、黄を引き締めながらの下山であった。大井沢の日帰り温泉で汗を流す。下山して、やはり筋肉疲労を感じたが、温泉で癒される気分。
春の雪もはかなく融けて、桜の花がひときわ瑞々しい。この桜を目にするたびに、ここに桜を植えた生前の佐藤小太郎さんの姿を思い出す。佐藤小太郎さんは平成18年、自らの生涯を振り返る自伝を上梓された。私は、その構成に多少ではあったが、お手伝いをさせていただいた。自伝の文章を読みながら、直に小太郎さんのお話を聞き、文を整えるという作業であった。この本は、本棚に並べてあるが、その一文、一文に小太郎さんの人柄がにじみ出ている。
坂巻川は一級河川であるため、何人もこの敷地に植樹をすることは法律で禁じられていた。小太郎さんは地区の美化を説き、巻紙に毛筆で請願書を認め、建設省支庁へ提出した。この請願には、県議をはじめ多くの人々への根気強い根回しがあった。山形大学医学部ができ、近辺の商店を医学部周辺商店会として組織し、小太郎さんはその会長として、桜の植樹を進めた。昭和62年のことである。いまでは、その樹々は大きく成長し、堤にある道路を覆うばかりになっている。花が咲くと、近隣の人達が、この花を愛でて三々五々集ってくる。
散る桜残る桜も散る桜 良寛
この句は良寛の辞世の句であるが、今は亡き佐藤小太郎さんの心境でもあろう。小太郎さんが遺してくれた桜は、春になるたびに咲いて散り、また新しい春に咲き続ける。