ラインのグループに、家族というのを作ったと、前に書いた。ベランダで仙人掌の花が咲いた。この花は、もう20年も前、娘が仙人掌に凝っていて、余った鉢を貰ってきたものだ。そこで、ラインに20年前の仙人掌がまた今年も咲いたと書き込んだ。しばらくして、孫からキレイ、娘からいいね、の書き込みがあった。小さな鉢のためか、仙人掌の大きさに変化がない。冬を越すと、肥料も水も与えないのに、いい花を咲かせてくれる。
例年、恒例となっているサクランボの季節だ。一年の挨拶に、遠くの親せきにサクランボを送っている。依頼している農園から電話で、今日発送が完了した旨の電話が入る。これも、ラインの家族へ、書き込んで知らせる。先方でも心待ちにしているのか、ありがとうの書き込みがすぐに返ってくる。思えば、通信が便利になったのを実感する。6月19日は桜桃忌、太宰治が玉川上水に投身自殺して、その遺体が見つかった日を忌日としている。昭和23年のことであった。
昭和16年12月、太宰は「私信」と題する短文を都新聞に書いている。叔母あての手紙の形式をとっている。
「朝めざめて、きょう一日を、充分に生きること、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算でない勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くようなことも今はなくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。決して虚無では、ありません。」
昭和16年といえば、私が生まれた年だが、2年前に美智子と再婚を果たし、長女園子が誕生した年である。文学の方面では、佳作を次々と生み、安定した時でもあった。前年、『女生徒』が北村透谷賞の副賞、『女の決闘』、『駆け込み訴え』『走れメロス』で定評を得、原稿依頼が増えていった。この年には、『東京八景』、中編の『新ハムレット』を書いている。生母たね、病気見舞いに帰省するなど、私生活面でも平安な時代であったと言えよう。しかし、時局は次第に緊迫して太宰が書くものに、変更や削除を求める時代がそこまでやってきていた。