常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

アボガド

2021年04月19日 | 日記

昨日、春の嵐が吹き荒れた。10分ほどの距離にあるスーパーまで、キュウリを買いに行ったのだが、強風が100円ショップの傘の骨を直撃し、バラバラになってしまった。道を歩いていて、何か風に吹かれたものが飛んでこないかと恐怖さえ感じた。幸い、山で着るフード付きのヤッケを着ていたので、フードで頭を包み、ほうほうの態で用をたした。

この頃、今の自分に大事なことに関心を寄せることが多くなった。一日ひとつでも、そのことを掘り下げて、記憶に刻んでいきたい。最近食べる機会が増えた果物にアボガドがある。行きつけの業務スーパーにお手頃の在庫があるせいかも知れない。果実にしては、珍しく脂肪を含んでいる。この脂肪は不飽和脂肪酸を主体とするもので、オメガ9と呼ばれるものだ。これは悪玉コレステロールを減らす働きがあることで知られている。アボガドの固い皮が、この脂肪を変質させることなく、フレッシュに保たれているのがうれしい。

食べ方としては、種を除いて切った果肉に、レモンを丸ごと一個絞って駆け回すだけで美味しく食べられる。サラダに加えることで、野菜が主役の一品が食卓に乗る。レモンは、皮の部分までしっかり絞ることで、おいしく栄養にすぐれたジュースになることを、最近NHKの「試してガッテン」で教わった。
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木瓜の花

2021年04月18日 | 
雨は上がったが、風が強い。その風をおして外に出かける理由がある。戸外に今日はどんな花が咲いているか、見ておきたいからだ。桜の花が散って、根方に花びらの吹だまりができていた。スズランの小さな花芽が出はじまっているなかで一輪だけが咲いている。スズランが咲き始めた、という事実を自分の足と目で確かめる。そんなことが、外を歩く些細な楽しみである。木瓜の花は、とっくに咲いたのだが、今日は一番形のいい花が見つかった。この花を見ると
脳裏に浮かぶのは漱石の句だ。

木瓜咲くや漱石拙を守るべく

拙を守るということは陶淵明の「拙を守りて田園に帰る」から来ている。有名な帰去来の辞である。世渡りに長けることを嫌い、勤めを辞して、郷里の田園の里へ帰り、悠々自適の日々を送った陶淵明の句だ。

漱石のなかで、木瓜の花と守拙がどのようにつながっているのだろうか。『草枕』にこんなことが書いてある。
「評してみると木瓜は花のうちで愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」

木瓜の花には、美しさを競うような華やかさはない。そんな地味で、こじんまりと咲く、木瓜の花に、自らの存在や陶淵明の生き方を重ねたのであろうか。世渡りの下手なことにかけては、人後に落ちない自分である。風に吹かれながら、こんな花を見つけるのも、意味のあることである。

その愚には及ぶべからず木瓜の花 漱石
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遅日

2021年04月17日 | 日記
四月も半ばを過ぎるとめっきりと日が長くなる。夜明けも早いが、日が沈むのが遅々としている。秋の夜長とは反対に、日永のことを漢語で遅日という。詩経に「春日は遅々たり」の句が起源である。この季節になると、西のベランダから西日が真直ぐに入るようになる。例年のことだが、日よけにゴーヤを植えたりするが、とりあえず簾をかけて日よけにした。

野山には、春が足早に進んでいる。コゴミが伸び、ワラビが姿を見せ始めた。ヤマザクラが咲き、山吹の黄色も鮮やかだ。コシアブラの新芽が出始めて、山菜採りの季節が始まった。深い山に入って山菜取りをする年寄りの遭難のニュースも聞こえてくる。

朝から雨になった。晴天と雨天が2、3日間隔で交代する。今年は春が早すぎてサクランボやリンゴの花に、霜害が出ている。春が早いと、寒がもどり咲いた花の上に雪が降り、霜が花を枯死させる。果樹農家にとっては、ひと夜で収穫に被害が出てしまう。せめて、今日明日の雨が木々の癒しになってくれればいいが。
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月山 雪景色

2021年04月15日 | 登山
この季節、月山の雪景色を見るのは、残り少ない人生の大きな喜びである。春の陽ざしのなか、桜が終りかけ、たくさんの花々が咲き始めた里から、僅か1時間余りの移動で、月山の雪のなかに立つことができる。そこは、凍てつく雪の別世界である。非日常の世界へ、一歩足を踏み入れて目にするのは、重畳として広がる雪山の佇まいだ。昨日までの低気圧が抜けて、移動性の高気圧に覆われると青空が広がり、雪景色が目の前に広がった。ただ、山頂にかかった雲がとれない。

南西に目を転ずれば、遠く朝日連峰の春の雪景色が迫ってくる。風が和らぎ、光はもう春のものだ。日の当たる場所では、夕べ凍った雪の表面が解け始めている。しかし一歩北斜面に足をいれと、固いアイスバーンの斜面だ。アイゼンの歯で氷った雪を踏みながら歩く。冬と春が同居している。春のスキーを楽しむ姿が三々五々、斜面を猛スピードで滑り降りていく。連休前の、春スキーを楽しむにはいい季節だが、コロナの影響か、人影は淋しいばかりだ。

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鯨伝説

2021年04月14日 | 神社
テレビとウェブの融合と言われて久しい。最近は、地上波テレビのパソコンへの同時配信が行われている。先週放映された「ダーウィンが来た」をもう一度見たくてNHKプラスを登録してみた。これが意外に便利であることが分かった。見たい番組を番組案内で見て、その時間を待って見るのがテレビを見る慣例である。だがその時間に何かの用事ができると、録画のような方法しかなかった。NHKプラスで見逃しを見れば、容易にその番組を見れるし、地域の放送はこの場所で全国のものが見られる。

先週の「ダーウィン」はオーストラリア沖の、小さな海域に、シャチ、鯨、ダイオウイカなどの巨大な生きものが夏の期間に集結する。深海への壁に秘密があった。アミなどの小生物が湧くように発生し、それを目当てにイカや多種類の魚がやってきて、豊富な魚群を求めて鯨やシャチが現れる。番組のライトをと餌をつけたカメラにダイオウイカが触腕を伸ばすシーンが撮られた。巨大な鯨がシャチに攻撃されて、食べられるのもこの番組で知った。

鯨といえば気仙沼の唐桑町に伝わる伝説がある。石巻の商人が仙台侯の米を運ぶため船に米俵を積み、16人の乗組員で石巻港を出帆した。翌日、船は時ならぬ春の暴風に襲われて、漂流し、1週間後には千葉の九十九里沖に来た。普通なら、暴風は収まるはずであったが、さらに吹き募りいよいよ沈没の危機が迫ってきた。その時、風の合間に海のなかから呼ぶ声が聞こえてきた。船乗りが恐る恐る船室の窓を開けてみると、船のまわりに白い大きな鯨が取り巻いて泳いでいる。やがて、鯨の長のような厳かな声が響いた。いわく、「船員は小舟に乗り移れ」。

船員たちはあの声、桑島の御崎明神の声だと思った。急いで小舟をだして皆が小舟に乗り移ると、鯨の群れが舟の周りを固め、力を合わせて北を目指して押しやった。小舟の後では、米を積んだ船はみるみる海中に没していった。一同の乗った船は神社に寄付され、その後ろに鯨塚が作られた。

鯨をエビスと呼ぶ地方がある。エビス様は、釣り竿と鯛を持って微笑んでいるが、漁村に漁師たちの信仰があつい。エビスは夷、胡、戎と書き、異国人や外から訪れる神である。鯨やシャチが、カツオやイワシ、ニシンなどの回遊魚を追い、逃げ惑う魚たちが漁師たちが網を張って待つ漁場へ追い込まれた。そのために漁村にもたらせる益は莫大であった。鯨がエビス様と呼ばれる由縁である。

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