17年一緒に暮らした愛猫を亡くしましたが、日々のささやかな幸せを、
手のひらで温めて暮らしています。
週末、父のところに行ってきました。
無精ひげがのびかかっていたので
それを綺麗に剃って、
絞ったタオルで顔を拭くと
気持ち良さそうにして。
元気だった頃には
無精ひげ生やしてるところなんて
見たことなかったから。
父はさっぱりしてる方が
やっぱり、いいみたい。
殆ど言葉も話さなくなったけれど
帰る頃、椅子もないので床に膝をつきながら
父の枕元の掛け布団にあごをのっけて、
「お父さんの顔見られて、うれしかったよ」って言ったら
父はわたしの目をじーっと見て、
「父さんも、お前の顔、見られて、うれしかった」
と回らない舌で、ゆっくりゆっくり言ってくれた。
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その日父が話した、殆ど唯一の
ちゃんとした文章になった、言葉。
それが、本当に、うれしかった。
「うれしい」という言葉は
周りの人までも、うれしくさせる力があるみたい。
父の言葉でそんなことを思いながら
コスモス揺れる田舎道を帰って来ました。
2日連続のノーベル賞受賞の知らせは
暗いニュースが多い中で本当に喜ばしいニュース。
この世の中には、本当にすごい人たちが
こんなにいっぱいいるんだなあ。
しかも受賞対象となった研究が
20年も30年も前のものだというから、更に驚く。
彼らが何十年年も前に蒔いた種が
本人すら思わぬところに枝葉を伸ばし
人類全体の福音となるような大樹に成長する---
まるで「木を植えた男」を地で行くようなお話。
この方々はたまたま生きていらっしゃるうちに
ノーベル賞が間に合ったけれど、
間に合わない場合も、きっとたくさんあるはず。
でも、真の研究者にとっては
それはどうでもいいことなのかもしれないな。
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「木を植えた男」も、何十年もの間
ただただ、木の実を人の住まない荒地に蒔き続け、
それが木立になり、小川を生み、村を育み、
人々の賑わいが戻ってもそこに留まることなく、
そこから更に何十キロも離れた木立の果ての荒地に、
相変わらず木の実を植え続けた
不器用にして、何か尊いものを感じさせる人生。
その姿が、受賞された方々に重ねて見えてしまって。
「明日世界が終わりになっても
わたしは林檎の木を植える」
わたしがずっと前から、大切にしてる言葉。
これにも通じるものがある気がして。
それが理解されようとされまいと
報いがあろうとなかろうと
信じることを続けることの尊さを思うニュースでした。
ここしばらく続いた秋の長雨は
降るでも止むでもないような小雨。
木々や草花は毎日のように、
水晶の玉のような露に濡れていました。
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でもそんな雨もやっと上がり、
久しぶりに日差しがもどってきた朝。
いつの間にか、こんなに色づいた実も。
もう随分、鳥に食べられてしまったみたい。
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上司のいない状態にも少しずつ馴れ、
職場も何とか、平常を取り戻しつつあるところ。
フランス語も11月の試験を前に、
今日から秋期が開講。
父もそれなりに状態は落ち着いてはいるようで、
第九のレッスンも、なんとか半ば。
いろんなことを抱えながらも
少しずつ、少しずつ、流れていく、
わたしのささやかな秋。
6月28日に初めて出会い、
8月11日に成長した姿を確認したカモの親子ですが、
この週末、更に丸々した彼らに、再び再会。
全部で7羽いたから、
あの時のヒナ鳥は全員無事に成長してたみたい。
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自転車で通りかかってふと見つけ、
急いで自転車から飛び降りて、
たまたま持っていたコンパクトカメラで
7羽の動きを追いながら夢中で撮っていたら、
道行く人々も何組も足を止め、
一緒になって見守っていました。
みんな大きくなれてよかった。
いじめられたり、
食べられたりしなくてよかった。
元気な姿と出会えて、
何だかとてもうれしい午後でした。
肌寒い小雨の中、
兵庫県立美術館のシャガール展へ。
道すがら、この秋初めてのきんもくせいの香りが
風に乗って漂ってきていました。
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これまでにもシャガールの作品を
直に見たことは何点かあったけれど
150点も一度に見たのは初めて。
音楽的な色彩や
重力にとらわれない浮遊感、
独特の夢想的な幸福感。
シャガールの大壁画で埋め尽くされた
ユダヤ劇場の作品群も圧巻でしたが、
今回わたしが何より気に入ったのは、
メトロポリタン歌劇場の壁画として描かれた
「魔笛の思い出」という2mもある作品。
わたしの大好きな大好きなモーツァルトの「魔笛」と
わたしの大好きなシャガールにこんな接点があって、
こんなにも素敵な作品を生み出していたなんて。
しかも舞台装置や衣装デザインまで手がけていたなんて。
なんて素敵な結びつきなんでしょう。
「魔笛」の心躍るメロディーが絵になったような
見ているだけで幸福感で満たされるような作品でした。
でもそんなシャガールが
実はユダヤ人の労働者階級の出身で、
第二次大戦の時には住居を転々とし、
アメリカに亡命したりもしたということは
不勉強なわたしが、今回初めて知ったこと。
人は必ずしも自分が幸福だから、
幸福なものを生み出すのではなく、
苦難の中にあっても、
幸福なものを生み出し得るものなのだなあ。
そんなことを思いながら帰って来ました。