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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

2日連続、三休橋筋界隈の食事処を巡回②

2020年10月31日 11時12分40秒 | もっと遠くへ(大阪編)
前日の治療を終えた際に伝えられた歯科医院の言葉。

消毒しないと、いうからこの日も診療に向かった大阪・中央区の伏見町。

消毒くらいなら短くて30分。

長くても1時間以内に終わるだろうと高をくくっていたが、見事に外れて1時間半。

抜糸はまだまだ。他にも治療してもらいたい痛みのある個所。

奥歯も前歯もあるから時間がかかる。

この日は午後2時に介護スタッフは買物サービスをしにやってくる。

当初想定を大幅に越えるとわかって介護サービス事業所にお願いしたら2時間も遅らせてくれた。

この日も大阪府公安委員会のパーキングチケット購入利用。

超過の30分はまたまた三休橋筋界隈の巡回。

前日は雨天で寒かったが、この日は快晴。

気温も順調に上昇し、最高気温は16度。

軽い上着も要らない心地よい街中にビジネスマンたちは颯爽と歩いていた。

店舗前に設営を済ませた焼肉屋の牛丼。

よくよく見れば、ビュッフェスタイル弁当バイキング王国のようだ。

看板にワンコインの五百円玉をあしらった図案がある。

どうやら地下店舗のようだ。

販売はこちらで、弁当・支払はあちらと「→」表示。

気づくのだろうか。

次に見つけた店舗はカレーライス店。



旗の印しからおそらくスリランカカレーを提供するフルバリ店。

目を凝らしてみれば持ち帰りもできるらしい。

歯科医院に行くまでに聞いたおふくろの好み。

弁当はあまり食べることはないから食べる気持ちが湧かないようだ。

カレーなら食べてみたいというから探し出したフルバリ店。

持ち帰りは2品。

カレーライス若しくはナンカレーである。

以前、我が家近くにあるスリランカカレー店のミランで食事をしたことがある。

美味しいと云っていたから大丈夫だと思うが・・・。

黄色地テント屋根が目立つ「らーめん兆北浜にんにく元祖辛口」。



隣の食事処は人気店のよう、次から次へと入店していた。

初めて入る北向き1本筋にもさまざまな食事処があった。

1軒はオールワンコイン。



500円定食がいっぱいある和食のやぐら。

鮪の刺身定食でさえ500円。

味わってみたい欲が出る。

もう1軒はうどん屋。



屋号はきりん屋。

朝の7時から午前10時までのタイムサービス。

いなり寿司1個がついてたったの400円のおはよううどんの味が気にかかる。

(H31. 3. 5 SB932SH撮影)

雨天の三休橋筋辺りの食事処を巡回①

2020年10月29日 10時17分20秒 | もっと遠くへ(大阪編)
おふくろが50年以上に亘って通院してきた歯科医院がある。

場所は大阪・中央区の伏見町。

介護の身になったおふくろが独りで出歩くことは不可能になった。

そこでアッシーを務める我が家の軽バン。

この日は雨天。

たまたまの巡り合わせで我が家から出発して第二名阪国道。

近々において西日本ネクスコに経営移転するとニュースが報じていた。

利便性が高まるのか、それとも・・。

期待したい経営移転であるが、この日は旧来通り。

生駒山トンネルを越えた瞬間に阪神高速道に切り替わる。

高速道の途中に下って伏見町。

堺筋に入って北上する。

ここら辺りを左折すればすぐ近くにある歯科医院であるが、ご指定の駐車場は高さ制限に引っかかって利用できない。

青空駐車できる付近のタイムパーキンは安いところで30分が400円。

それより少し高い駐車場は20分で400円。

1時間利用で1200円にもなる。

そこで考えたもっと格安なパーキングは・・・大阪府公安委員会のパーキングチケット購入利用である。

歯の治療時間は予想を越えて2時間20分。

パーキング利用は1時間で300円だが、それ以上になれば他の人にも利用できるよう明け渡して行先のない巡回周遊。

尤も一時的に歯科医院の待合室に滞在する。

その行き帰りに拝見する往復道にある店舗である。

付近のビル街に勤務するサラリーマンの人たちが圧倒的に利用する店頭販売の弁当買い求め。

いっときの時間帯は行列ができるほどの人気店もある。

店頭販売をしていない食事処もある。

この日は雨降り。

降る日の客サービスに割り引く上等カレー店。



すべてかどうかわからないが100円引きのキャッシュバックサービスで客を引き込んでいた。

もう1軒はラーメン屋さん。

黄色いテント生地の柄に書いてある「らーめん兆北浜にんにく元祖辛口」文字でわかるラーメン店。



一人で当地に来たなら食べてみたい韓国風汁なし油そばがメニューにある。

「只今100えん引き」とあったが、翌日の晴天日も立てていたので雨天サービスではなさそうだ。

往復路にある食事処は数多い。

ついつい目移りするメニューに価格帯。

この看板は1店舗でなくよく見りゃ2店舗。

定食屋の万寿に吟酒海楽だ。



その店の横に路地にも4店舗。

雨に濡れた石畳の様相。



お酒を飲みたくなる路地裏感雰囲気に浸りたい。

少し歩けばまたもやラーメン店。

見た目でわかる辛目派だがサービスはないような麺屋ガテン。



ヤフー、最強の次世代ラーメンの日本一決定戦に優勝したとある。

停めた府公安委員会のパーキングはビフテキのスエヒロ店近く。



昔からある有名店らしいが味わったことはない。

地鶏が売りのお店の名は知らないが、看板メニューを見ていたら喉の奥からジュワ。



第一に味わってみたいメニューは地鶏もも炭火焼き定食か、地鶏の炙り親子丼だ。

隣の店舗もまた名は知らぬ。



オール700円も近隣食事処よりかは少し安い和食店だ。

遠くに見かけた焼肉屋の牛丼は小盛で380円。

テント内で店員さんが白飯をよそった椀に牛汁を垂らしていた。

できたて、作りたてが味わえるようだ。

もう1軒は最近になって見かけるようになった出汁のオアシス。



出汁が売り物のお店の売りは格安食。

そば、肉そば、中華そばなどなどがワンコイン若しくはプラス100円で。

サイドメニューにミニカレーもあるようだ。

最後にもう1軒。

これも新しくできたお店だとおもう麺屋。

手打ちうどんのがんちゃんこそ私の本命。



メニューにある210円のかけうどんで決まり。

ぶっかけうどんでも250円。

これにも喰いつく。

それだけでは物足りないから300円の親子丼。

牛丼で300円の店は京都最南部の木津川駅近くにあるう・どんとえー勝負であるが、親子丼は珍しい。

べたべたの牛丼よりもあっさり系の親子丼を食べたいときもあるから、第一希望に揚げた。

(H31. 3. 4 SB932SH撮影)

住吉大社の初辰さん

2020年09月25日 09時32分51秒 | もっと遠くへ(大阪編)
所用で出かけた大阪・住之江。

区役所はおいていないというから税務署。

距離はそんなに遠くない。

目的地は住吉大社近くにあるという住吉税務署。

税金の支払いでなく確定申告書類。

棚に所定の用紙が山のように積んでいた。

所用を終えて署を出た向かい側。

おっと、ここにあったか。



住吉大社の南側にある立て看板に掲示してあった「二月十二日」の初辰まいり

商売繁盛に家内安全のご利益求める人だかりよりも気になる「はったつさん」の可愛い姿

招福猫であるが、私はねずみにしか見えない。

そうだ、「亥」年の次の年の十二支は「子」・・・。

窮鼠猫を噛む。というか、どうして「辰」なのに「」なのか・・。

(H31. 1.22 SB932SH撮影)

陽気にも動じないパントマイム

2020年09月22日 09時45分21秒 | もっと遠くへ(大阪編)
今回で29回目になる日本写真作家協会会員展(JPA展)・第16回日本写真作家協会公募展が大阪市立美術館で開催されると知人のM(さんからのお誘いの葉書が届いた。

なんせ、この写真展に拡がる作品点数がむちゃ多い。

じっくりと1枚、1枚を拝見するだけで1時間半もかかる。

立ったままでの拝観に途中で休憩もしたくなる。

大阪市立美術館へ行くには降車した天王寺駅から歩いて10分ほど。

通天閣も見える丘に建つ大阪市立美術館。

公園の一角にあった銅像がある。

向こうに見える高い建物はあべのハルカス。

目の前に拡がる公園は天しば。

2年前はひっそりしていた。

工事中だったのかどうかしらないが、同じ時期だというのにえらい変わりようの盛況ぶり。

この日のにぎわい要因はぽかぽか陽気・・・。

笛吹きゃ(※天気良けりゃ)踊りだすって、このことか・・。

(H31. 1.19 SB932SH撮影)

大阪・住吉大社の卯之葉神事

2020年06月05日 11時25分37秒 | もっと遠くへ(大阪編)
昨日、一昨日の両日は気温(※奈良県は20度/19度)も上がらない肌寒さを感じる日だった。

奈良県の気象予報によれば、朝に遅霜になると・・。

翌日の11日はうってかわって3度も上昇し、気温は23度にも。

昼前にはぐんぐん上昇していたが、それ以上は望めそうにもない。

湿度は高くなく、気持ち良いほどのさらさら風が頬を撫でる。

それは大阪の気温であり、奈良県では昼間の気温が26度にも上昇していたというから驚きだ。

この日に行われる神事は卯之葉神事。

生まれ故郷のすぐ隣の区になる大阪市住吉区に鎮座する住吉大社行事を拝見したく、わざわざ生まれ故郷の西住之江に車を停め、南海電車に乗ってやってきた。

住吉大社行事に卯之葉神事があると知ったのは、Mさんが贈ってくださった招待券にある。

Mさんが所属する天王寺楽所(がくそ)・雅亮会の演奏会鑑賞券は「海神への供物Ⅰ~住吉大社と天王寺楽所(がくそ)」。

初めて拝聴・拝見する舞台は大阪の都市部。

中央区にある中之島フェスティバルタワーホールである。

演目は、第一部に卯の葉神事。

第二部が観月祭だった。

舞台から一番遠い位置の指定席から拝見したが、肉眼ゆえ細かい所作などはまったく見えない。

舞台を神事の場に置き替えての造りだけに、違和感ももった。

本物を観たい。

そう思ってやってきた住吉大社。

実に8年ぶりの訪問である。

江戸時代のころ、商いの都と称された大坂。

現在行政区域の大阪市住吉区住吉に鎮座する住吉大社。

私の生まれ故郷の住吉区に坐います。

高校を卒業してから4年後の昭和49年7月22日、行政区分替えがあった。

住吉区から分区した住之江区北島であるが、分区前は住吉区北島が現住所であった。

生まれも育ちも住吉区。

住吉大社は、親しみを込めて今でも「すみよっさん」と呼んでいる。

下町の風情が色濃く残る町。

街中を行き交う、昔懐かしい路面電車が南北に走る。

阪堺電気軌道鉄道が正式な会社名であるが、路面電車が走る際にチンチンと・・。

その音からチンチン電車と呼んでいた。

尤も私が住まいする北島から歩いて乗ったチンチン電車。

乗り降りする駅が我孫子道駅名だったことから、あびこ電車と呼ぶこともあった。

子どものころから高校を卒業するまで乗車していたチンチン電車である。

路面電車が行き交う軌道の辺り、西の方角は平安時代のころまで松並木が続く海岸線だった。

墨江ノ津(すみのえのつ)と呼ばれていた港。

行き交っていたのは舟である。

《古事記》の仁徳天皇条に“墨江之津”を定める、とある。

遣唐使も当地を利用した由緒ある地名は、今でも残る大阪市住吉区墨江町名・・・。

住吉大社に伝わる古絵図があるそうだ。

境内近くまで押し寄せる海岸線の向こうは大きく広がる大阪湾であった。

チンチン電車が走る西が海だったとは、現代人には想像しがたいだろう。

絵図に描かれている高灯籠(たかどうろう)。

今も健在であるが、現在はもっと西寄り。

旧国道26号線のすぐ南に移設している。



明治時代のころまでは、すぐ傍が海だったチンチン電車の乗降場。

降りた目の前に建つ住吉大社の一ノ鳥居。

朱塗りの鳥居は、西大鳥居と呼ぶ。

ここからが東に向かう参拝の道。

太鼓橋の名で親しまれている反橋(そりばし)。



長さはおよそ20mで、高さが3.6mの反橋。

建之されたころは、海辺を跨ぎ、境内と向こう岸を結ぶ橋であった。



手水舎で清めてから参拝。

すぐそこにも鳥居がある。

珍しい四角柱の角鳥居を潜れば御門である。

この年の卯之葉神事には明治維新150祭も併せて行うとアナウンスされていた。

今年の花つきは数週間も早い年。

奈良県内の桜もそうだったが、例年より一週間、いや2週間も早くに咲いた地域もある。

おふくろとともに大阪・住之江で桜見をしたのは4月に入る手前の3月27日だった。

花見の地は住吉川の桜堤。

えー具合に桜が咲いていたことを考えれば、例年よりたしかに早いのである。

神事に献納される卯の葉。



奉奠される玉串は卯の葉。

それもびっしりと白い花をつけていた。

一般的に玉串といえば榊であるが、神事名が卯の葉神事というだけに珍しい在り方だと思う。



その有難い卯の葉玉串を奉奠させていただく神事です、と伝えていた。

神事が始まるまでに撮っていた卯の葉玉串。

参拝される人たちは、予め調えていた卯の葉にはあまり関心を寄せていなかったようだ。



やがて太鼓が打たれると、宮司、神職に神楽女が参進する。



テントを設営した御席は招待者席。

一般の人は座ることのできない御席。



ほぼ満席になっていた。

その周りを囲むのが一般参賀の人たち。

何事がはじまるかのような雰囲気に外国の人たちも。

私といえば築塀に一番近いところで拝見していた。

そこには台湾の国から来たと思われる女性たちもいる。

スマホで録画を撮っているようだ。

神事が始まってアナウンスの声に合わせて立っていたものの座り込む姿も。

この場はどういう場であるのか理解の乏しい人たち。

やむなしと思いたいところだが・・。



神事は祓の詞、宮司拝、禰宜による祓の儀。

なぜかオオオォー、警蹕もなく行われる開扉であった。



住吉大社の在り方がそうなのであろうか。

それとも耳鳴り症状が酷くなった私の耳のせいだろうか・・。

次のアナウンスに聞こえた“せんをきょうす”・・・。

“せんをきょうす”とはなんであろうか。

次は“けんこう”に、家元のご奉仕。

さて、“けんこう”とは・・。

“けんちゃ”に茶道の奉納とアナウンスされて理解できた。

“せんをきょうす”は、私の聞き誤りかもしれない。

“せんをきょうす”ではなく、“けんをきょうす”ではなかろうか。

そうであれば、「献を供す」となる。はて、である。

元春日大社権宮司(※現奈良県立大学客員教授)の岡本彰夫氏にご享受いただいた、それは“饌を供す”であろう、という。

なるほど、である

「けんこう」とは「献香」である。

この日に配られた「住吉大社 卯の葉神事」の栞表紙に書いてあった「献香」に「献茶」される方々の団体名。

献香は福井北勝洞社中の家元。

献茶は茶道裏千家八木社中の人たちだった。



テント手前側に居られた着物姿の二人の男女。

男性が家元であろう。

何やら道具を用いて動作をしているが、遠くからでは作法がわからない。

香を立てていたのか、それとも茶を点てていたのか。

次は楽曲が流れるなか執り行われる作法であった。

次は宮司の祝詞奏上。

頭を垂れてくださいとアナウンス。

これも従う参賀の人たち。

四人の神楽女(巫女)が舞う神楽。



神座に神を迎えて行う鎮魂の神事であるといわれる。

白衣に緋の差貫(さしぬき)、舞衣(まいきぬ)を身につけた神楽女。

髪には、松に鷺のかざしを挿した神楽女が舞う。

立ち位置、移動できずに柱の陰になった神楽女の所作姿をとらえるのは難しい。

宮司による玉串奉奠、そして招待者の人たちの奉奠が続く。



禰宜から恭しく受け取った卯の葉玉串を奉奠する。

最後に一般参賀の代表指名された住吉踊りのお師匠さんだった。

祝電披露の際に場を離れて舞楽を奉納される石舞台に移動する。

撮影できそうな位置決めはもはや遅い。

石舞台を拝見できる場所にはスチール椅子が用意されていた。

そこは招待者席。

それより後方からが一般の人たちが見られる場であるが、細部はもちろん見えない。

しばらくして宮司、神職、神楽女が移動され五所御前(ごしょごぜん)に就く。

五所御前の玉垣内部に植わる杉の木があり、その木に3羽の鷺がとまったことから社地に定められ、この地に住吉大神が鎮座された。

その日は、神功皇后摂政十一年(211)辛卯(しんぼう)年の卯月の卯日。

卯の葉神事は、御鎮座を祝す行事。

現在は、卯の花が咲く、5月最初の卯月卯日に卯之葉神事を斎行される。

この年の卯月卯日は、5月11日。

旧暦の卯月卯日に斎行される卯の葉神事である。



舞楽奉納に先立って行われる五所御前での祭式行事作法。

宮司の玉串拝礼に続いて参列者の玉串拝礼。

以下、退下されてから始まる舞楽演奏である。

舞人が舞う石舞台は、四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台と称され、今から凡そ400年前の慶長十二年(1067)、豊臣秀頼公によって寄進・奉納されたもので、国の重要文化財に指定されている。

また、正面南門脇に建つ東西楽所の前に設えた火焔太鼓こと大太鼓(だだいこ)もまた同時に奉納されとも。



舞楽の上演に先立ち、舞台を清め邪気を払う儀式的要素の強い、まずは振鉾(えんぶ)。

舞は、三節からなり、第一節は新楽(しんがく)乱声によって左方舞人が。

第二節は高麗(こま)乱声(らんじょう)によって右方舞人が奏舞し、第三節に新楽、高麗両乱声を奏す中、左右の舞人が揃って奏舞。



この三節を特に「合鉾(あわせぼこ)」という。

伴奏は、龍笛、高麗笛を主に打楽器の太鼓と鉦鼓の編成。

楽曲は洋楽のカノン風に笛の各奏者が追復的に吹奏していく特殊な演奏形式の乱声である。

次の演目は桃李花(とうりか)。

赤白桃李花(せきはつとうりか)という別称をもつ。



桃の花が咲く3月3日の上巳の日に、曲水の宴で多く演奏された曲であるといわれている。

中国系の左方の舞。

艶やかな紫色地に、獅子の縫い取りがほどこされた袍(ほう)の袖を翻す。



舞の特徴である指手(さすて)を幾度となく繰り返しながら美しく舞う態である。

次に右方の舞の仁和楽(にんならく)



高麗楽壱越調に属する楽曲であるが、外来の曲ではなく日本製の楽曲。

仁和年間、光孝天皇の勅令によって百済の貞雄(ていゆう)が作り、年号をとって曲名にしたと云われている日本で初めて作曲・作舞された、楽曲。



舞人は、鳥兜をかぶり、襲装束を身に着けて右方を袒いで舞う四人舞である。

そして、最後に舞う抜頭(ばとう)。

長い髪が前に垂れ、鼻の高い独特の面で舞う一人舞。



天平年間(729-749)に、林邑僧の仏哲が伝えたという。

左方の舞楽の他、右方の舞楽の伴奏用にも用いられる。



特徴ある赤顔・深目で釣顎(つりあご)の仮面を着け、1尺1寸の桴(ばち)を持ち、舞台に置かれた金色の木製の蛇を持って歓喜跳躍する。

退出音声に長慶子(ちょうげいし)、そして撤饌。



午後1時から始まった卯の葉神事および舞楽奉納は2時間

立ち見であるが、樹木下での鑑賞に暑さを凌がせてもらった。

ちなみに、住吉武道館を挟んで反対側に13品種、凡そ500株の卯の花を植えている“卯の花苑”がある。

見ごろは5月初旬から月末まで。

卯の葉神事に合わせて、一般公開されている。

(H30. 5.11 SB932SH撮影)
(H30. 5.11 EOS7D撮影)

大阪・住吉大社の五大力石守運拾い

2020年06月04日 10時12分43秒 | もっと遠くへ(大阪編)
初辰さんの幟がたくさん並ぶ大阪・住吉大社。

市内住吉区に鎮座する住吉大社から数km離れた住之江区の北島が我が故郷。

生まれも育ちも北島であるが、初詣は地元北島の高砂神社に住吉大社だった。

育った地だけに、「すみよっさん」と今でもそう呼んでしまう。

この日は初詣でなく初めて拝見する卯の葉神事である。

祭場はご本宮の第一本宮のすぐ近く。

南側にある若宮八幡宮との間。五所御前(ごしょごぜん)の玉垣の区画である。

神功皇后が住吉大神をお祀りする地を探していたときである。

杉の木に3羽の白鷺がとまったこの地に、住吉大社を祀ることを決めた。

それがこの玉垣の区画。



参拝を済ませた人たちのうち数人が、砂利石を敷いた玉垣内部を覗いていた。

そのとき、動いた腕。

玉垣の間から手を伸ばして何かを掴んでいた。

なにをされているのか、聞いてみたご婦人は手のひらを広げて見せてくれた。



文字を書いていた小石が2個。

一つは「五」にもう一つは「力」。願わくば、「五」、「大」、「力」の小石を集めること。

五大力に願いを叶えてもらう運拾い。

手前にあれば、また見つかるが、向こうの方なら手は届かない。

願掛けは何であるかは聞くことないが、運試しのような3種の小石集め。

その場に表示してあった案内。



「心願成就の五大力石守は、墨書の五・大・力をご自身で拾ってください。寿力、福力、体力、智力、財力、などの“運力“を授かる」という。

へぇーそうだったんだ。もう一つ、見つかればいいですね、と話したら、大阪・八尾から来られたその婦人。

見つかりましたわ、と笑みの顔で広げてくれた手のひら。



運拾いの小石は一つ増えて、「五」、「大」、「力」。願掛けが叶いますね、といえば、そうでなく、まだ続きがある、という。

隣で運を拾っていた婦人もまた運拾いの三つが見つかった。

なんでもこの日は、遠方から参られたツアー客。

単独行動したおかげで見つかったと喜ぶ婦人。



次の参拝社は、楠珺社(なんくんしゃ)。

五大力専用の小石袋を求めに行かれたのか、それとも初辰参りであるのか・・・。

楠珺社に種賃社、浅澤社、大蔵社の四社を巡拝する初辰参りであるが、本来は1日参り。

ツアーだけに、日にちは合わなくとも五大力石守の五所御前から巡拝するのだろうか。

ところで、「五」、「大」、「力」が3種揃ったところで、どうすれば“運”を授けてくれるの?である。

これもまた案内にあった御礼参りである。

「願いが叶えば、ご自身が住むご近所で3個の小石を拾い、それぞれ「五」、「大」、「力」を墨書する。

そして、授かった運拾いの「五」、「大」、「力」とともに、合計6個の小石を、ここ玉垣に投げ入れる。

願い事が叶ったら、お返しにお礼参り。

つまりは運の“倍返し”である。

(H30. 5.11 SB932SH撮影)
(H30. 5.11 EOS7D撮影)

大阪四天王寺・聖霊会舞楽大法要

2020年04月19日 13時04分14秒 | もっと遠くへ(大阪編)
聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要が営まれる主な場は、国の重要文化財に指定されている石舞台の場で披露される。

赤く、大きな飾り物を立てている場だからすぐにわかるその場で披露される。

ひと際大きい球体はとても鮮やかな紅い色。

深紅の色に心が惹かれる。

巨大な球体飾り物は天上に咲く仏花の曼珠沙華を表現しているそうだ。

その曼珠沙華の周りをぷらぷら飛行するものが見える。

よくよく見れば燕の形。

では、球体の中心に赤く染めた太い棒や四方に拡がる竿は何を表現しているのだろうか。

ここは大阪・天王寺区にある四天王寺(※平成30年現在、中心伽藍は工事中)。

今では林立するビルに囲まれる都会の大寺である。

遥か昔のこと。

北の御崎に伸びる上町台地(※洪積台地)。

北端は大坂城と考えられ、古代の都である難波京があった地。

現在の法円坂辺りが都の中心地だった。

台地西に今では想像しがたい大阪湾が拡がっていた。

一方、東側から見ても河内湾。

つまり古代の上町台地は半島状のように突き出た砂嘴であった。

縄文期から土砂が溜まり、弥生期には東の河内湾は姿をかえて河内湖に。長い年月の期間を経て河内平野に移っていった。

その上町台地の南。

かつては聖徳太子が建立した四天王寺の範囲だとする説もあったが、現在は住吉大社のある地が南の端になる。

ここでは詳しいことは述べないが、古代に思いをはせるのもいいだろう。



毎年の4月22日、聖霊会舞楽大法要を四天王寺で披露すると教えてくださったのは、FBでご縁を繋げてくださったMさん。

所属する団体は、天王寺楽所(てんのうじがくそ)雅亮会(がりょうかい)。

聖徳太子の時代に遡る長い伝統を有し、京都・宮廷におかれた内裏の大内楽所(おおうちがくそ)、奈良・大社寺の雅楽を担当する南都楽所(なんとがくそ)とともに三方楽所の一つとして日本の雅楽を伝承してきた。

Mさんが担当される楽器は鳳笙(ほうしょう)。

前月の3月6日、大阪・フェスティバルホールの舞台で出演・演奏された「海神への供物Ⅰ」で拝聴・拝見したが、オペラグラスの用意もしていなかったので肉眼でしかわからなかった。

撮影不可の舞台環境と違って、本日の披露は青空の下。

カメラレンズを通してでも拝見できるアウトドア視覚に一度は見てみたいと思ってやってきた。

奈良・大和小泉駅からJR大和路線の列車に乗り、着いた駅は天王寺駅。

降車して歩く北への道

ほぼ真っすぐ道沿いに歩いていけば南大門が目の前に現れる。

門をくぐった目の前にまたも門がある。

それは仁王門。

五重塔、金堂、講堂を通らずに左に迂回した。

回廊沿いに歩いたその角の向こう側にあった北鐘堂。

手前に立てた幟旗に「虚空蔵菩薩 十三詣り」とある。

さらに歩いた右手。



そこに見た六時礼賛堂。

手前にある橋が石舞台。

四方に立てた天上に咲く仏花の曼珠沙華に圧倒される。

石舞台は聖霊会(しょうりょうえ)舞楽が披露される舞台。

関係者以外は立ち入り禁ズのようだ。

その場を避けて、幕を張った学舎裏の通りを行く。

右手に歩いたそこに大きな輪を設営していた。



形態は茅の輪くぐりと同じであるが、どうも違うように思える。

後にわかったそれは、十三詣りにくぐる智慧の輪だった。

その右に建つ建物は太鼓楼。

よく見れば、学舎の角にひと際大きな太鼓がわかる。

雅楽に用いられる楽太鼓のうち最大の大きさを誇る太鼓である。

周囲に宝珠形の五色の雲形板で囲み、さらに外側はたくさんの朱色火焔を取り巻く火焔模様を装飾していることから火焔太鼓の名で呼ばれる鼉太鼓(だだいこ)である。

午後12時半より出発する聖霊会舞楽大法要の一行。

出発門は本坊西通用門だと教えてもらったのは、警備詰所におられた指令責任者の隊長。

出発までに伺った一行のコース。

通用門を出てすぐに二手に分かれるらしい。

後ろから付いていきたいが、独りではどちらにするかそのときになって判断するしかないだろう。

奈良から寄せてもらったと警備の合間に話しかけたら、なんと、橿原市の無形民俗文化財に指定されている「ほうらんや」行事に奉納している地区の人だった。

二つの神社に奉納するほうらんや。

夏場の暑い盛りに奉納する距離も長く、日差しはきつく汗でぐだぐだ。

ほんとに暑くてクタクタになる身であるが、なんとか頑張ってきた、という。

また、菜種の植付けに刈り取りもあり手間がかかるとか、若い二十歳代のころは踏切辺りで停止して近鉄電車を停めたこともある、という隊長に、古川地区のノガミ行事を尋ねてみれば、知らない、という。

で、あれば他の弓場か川端、大北、万田、出垣内地区のいずれかだろう。

そうこうしているうちに出発時間が迫ってきた。

六時堂東側(※四天王寺HPによれば六時堂は六時礼讃堂の表記)で資料を配る関係者がいた。

手にした資料に「重要無形民族文化財 聖霊会次第」とある。



昭和51年5月4日に“民俗芸能”として指定された国指定の重要無形民俗文化財であるが、当資料の記述文字に誤りがある。

民俗”を“民族”に誤変換されるケースは、よく見かける。

誤変換ならまだしも“民族”と思い込んでいる人もまた多く、指摘すること度々である。

なお、指定解説文は「聖霊会は聖徳太子の御忌にその聖霊をまつる法会で、四月二十二日天王寺区の四天王寺で執行される。法会は王朝時代の舞楽法要の姿を伝えているもので、古式豊かな舞楽が六時(※礼讃)堂前の石舞台上で四隅に巨大な赤紙花の曼珠沙華を飾って舞われる。惣礼伽陀(そうらいかだ)、四箇法会(※しかのほうよう)儀式に織り交じりながら、“振鉾(えんぶ)”、”蘇利古(そりこ)“、“菩薩(ぽさつ)”、”獅子“、”迦陵頻(かりようびん)“、“胡蝶”などの舞楽が舞われる。四天王寺は、三方楽所の一つに数えられてきた由緒ある舞楽の伝承を持っており、明治初年に楽所を一つにして宮内庁楽部にした後も、その伝統を伝え残して現在に至っている」である。

なお、四箇法会(しかほうよう)とは、「唄匿(ばいのく)」、「散花(さんげ)」、「梵音(ぼんのん)」、「錫杖(しやくじよう)」の四箇の声明曲(しようみようきよく)を具備した法要をいう。



さて、式次第である。配布されたパンフレット資料によれば、「先、道行(※みちゆき)(左方右方)、次、舞台前庭儀(※ぶたいぜんていぎ)、次、両舎利入堂、次、惣礼伽陀(※そうらいかだ)<※僧侶開始告声明>、次、衆僧入堂、次、諸役別座、次、学舎揚幕、次、集会乱声、次、振鉾三節(※えんぶ/左方右方)、次、舞楽/蘇利古(※そりこ)(右方)、次、楽/河水楽(※かすいらく)(右方)、次、御上帳(※みじょうちょう)<※六時堂内・聖徳太子御影の帳>、次、御手水、次、楽/廻盃楽(右方)、次、両舎利登高座、次、願文、次、舞楽/打毬楽(※たぎゅうらく)(左方)、次、行事鐘、次、楽/十天楽(左方右方)、次、伝供(※でんぐ)、次、行事鐘、次、菩薩(左方)、次、獅子(右方)、次、舞楽/迦陵頻(かりょうびん)(左方)、次、舞楽/胡蝶(右方)、次、行事鐘、次、楽/承和楽(右方)、次、祭文、次、行事鐘、次、楽/賀王恩(左方)、次、声明/唄匿(※ばいのく)、次、楽/天人楽、次、声明/散華、次、行事鐘、次、舞楽/延喜楽(右方)、次、楽/延喜楽(右方)、次、声明/梵音、次、声明/錫杖、次、楽/長慶子(左方右方)、次、両舎利降高座、次、舞楽/太平楽(左方右方)、次、入調(※にゅうじょう)、次、舞楽/蘭陵王(左方)、次、還御(※かんぎょ)」の並び。

奉納時間帯は、正午の12時半からはじまって午後5時ころに終える長丁場。

全編を拝見するにはたぶんに長居のできない身体状態。

体力、気力の状況を判断しながら拝見することにする。

なお、下線を敷いた箇所の舞楽は毎年の曲目は替わるようだ。

南谷美保氏が論じる『江戸時代の聖霊会における行幸・大行道・還御~移動を伴う法儀についての考察~』によれば、現在の式次第と違って明治3年までの江戸期では、はじめに唄、散華、対揚、講問などの太子殿法要があったそうだ。

曲目も次第構造に違いが見られ、安城楽と呼ぶ廃絶曲もあったとか・・。

当時の曲目は全部で18曲もあった舞楽。

ただし、うち2曲なしし4曲は、年ごとに入れ替えた、とある。

南谷美保氏が平成20年8月に東邦出版から発刊された著書『四天王寺聖霊会の舞楽』が詳しい。

また、大法要時間帯は、一番鐘の午前5時に出仕、二番鐘の午前8時ころより法要、舞楽がはじまり、再び太子殿に戻り、老君子、梵音、陪臚、錫杖、仏名、甘州、回向、鶏徳。終わるのは午後8時ころだった。

さて、御幸行列である。



道行は左方に右方列の揃いがある。

先導に就くのは僧侶(左方、右方)。

次に、錫杖を手にした烏帽子被り、素襖姿の先駆。続いて僧侶、獅子、菩薩、左方に迦陵頻、右方が胡蝶、衆人、楽人の楽頭、鳳笙、篳篥、龍笛、太鼓、鉦鼓、僧、掃部、長者、八部衆(赤装束の左方、緑装束の右方の各4人)、三綱(左方、右方)、<※江戸期は、左方に玉の輿、右方に鳳輦が参列に入っていたが、現在は先に六時堂に置かれる>、左方に二舎利、右方に天蓋の一舎利、<※江戸期は左方に警護(※与力・同心)、右方に庄屋(※天王寺幕府領の庄屋)もあった>の大行列。















進行の速度は、右方の方は距離があるのか少し早い。

徐々に離れていく。



門を出て右方は足早に六時堂北側を抜けていくが、左方は門を出てすぐに左折れ。



両者、左方右方はぐるりと回って石舞台の南側に出合って合流、また揃う。



なお、楽人は参進しながら楽奏される。



これを「道楽」というようだ。



また、八部衆は法華経や金光明最勝王経などの説により、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅伽(まごらか)の八衆をいうが、興福寺の場合はは、五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、 迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)になる。



後列の参進を見届けてから撮影位置を探してみたが、入り込む余地はない。

先行の人たちでびっしり埋まった後方に立つことにした。



しばらくしたら、そこにおられた人たちは、行列を見終わったからなのか、場を離れた。

少しの隙間が生まれたその場からとらえる石舞台までは距離がある。

滅多に持参することのないレンズに交換したが手ぶれでぶれぶれ映像になるだろうが、仕方ない。



石舞台を渡りかける左右両頭の獅子。

そして楽人。



行列に見た菩薩、迦陵頻、胡蝶はどこへ。

奉納、演じる場は亀がびっしり暮らしている両亀の池に挟まれた石舞台。

擬宝珠があるから橋のような造りに見える。

演舞および楽奏する会の人たちは、その前に設営した楽舎内で演奏され、入道された僧侶は六時堂へと向かう。

その間にマイクを用いて諸役それぞれについてアナウンス解説をされる。



法要の導師である舎利職二人の入道。

そしてはじまる惣礼伽陀(※そうらいかだ)。



石舞台で務める衆僧は、法要に先立ち、聖徳太子始め諸仏を礼拝する声明を唱える。



衆僧もまた入道され、楽舎の幕を揚げてから演奏がはじまる。

はじめに振鉾(※えんぶ)三節。



天地の神と祖先の霊に祈りを捧げ舞台を清める。

鉾を振る様が清めである。

二節目は右舞人。



地祇に和し、三節目に左右の舞人が祖霊を祀る。

楽人たちが奏でる鳳笙、篳篥、龍笛の音色に、ひときわ大きく打たれる火焔太鼓の音に、この場の空気全体が震える。

次の舞楽は朝鮮半島伝来の舞、百済から帰化した須々許理(すすこり)が伝えたとされる蘇利古(※そりこ)。

演舞される前に解説が入る。

本来は竃(かまど)の神を鎮める蘇利古の舞であるが、ここ四天王寺の場合は、聖徳太子を目覚めさせる舞である。

また、舞人は4人であるが、四天王寺では5人が舞う。

舞われている間に、六時堂内では宮殿(くうでん)に安置されている聖徳太子の御影の帳(とばり)を揚げる「御上帳」(みじょうちょう)の儀式と御水を捧げる「御上水」(みちょうず)の秘儀が行われる。

そのことから、太子のお目覚めを慰めるための供養舞であるとも伝えられている。



顔にあてているのは「雑面(ぞうめん)」という人の顔を抽象的に描いた布。

手には「白楚(※ずわえ・ずばえ)」という棒をもつ舞い。

奈良では見ることのない舞楽。



特に面、風流(ふりゅう)でいえば、“フクメン“のような形態であるが、この文様、不思議の世界に魅せられる雑面(ぞうめん)にゾクゾクしながら拝見していた。

蘇利古の舞が終わった時間帯は、午後1時半。

道行前からずっと立ちっぱなし。

持病の関係もあって身体がもちこたえない。

日射に身体が悲鳴をあげている。

場を離れて日陰を探す。

六時堂の北側は涼しい。

火照った頭に身体を休ませていた。

後半どころか、1/5くらいしか拝見できなかったが、念願が叶った蘇利古蘇が拝見できたのがいちばんに嬉しく、打毬楽の音色を耳にしながら帰路についた。



ご縁を繋げてくださったMさんのおかげで感動をもらった聖霊会舞楽。

この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

なお、令和2年の「聖霊会舞楽大法要」もまた新型コロナウイルス拡散予防のために聖霊院(太子殿)にて無参拝者法要の通知もあったが、緊急事態宣言発令を受け、和宗総本山四天王寺は、新型コロナウイルス感染症拡大防止策として令和4月10日より当面の間、本坊を含め境内全域、すべてのお堂を閉堂

四天王寺は推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺。飛鳥時代の開闢以来、初めての閉堂措置である。

(H30. 4.22 SB932SH撮影)
(H30. 4.22 EOS7D撮影)
( R2. 4. 8 追記)

東大阪枚岡・額田妙徳寺の盆明け墓参り

2020年02月10日 08時24分57秒 | もっと遠くへ(大阪編)
大阪ふくちぁんラーメン大東店で食事をし終えたら墓参り。

久しぶりの墓参りは夏の盆。

彼岸のときに参ったことはあるが、夏場は初めてじゃないかな、と思ったが大間違い。

きちんとした盆まいりだった。

ここ東大阪市額田・黄檗宗妙徳寺に祖母のおおばあさんが眠る墓。

そのおおばあさんの母親(※私からいえば大祖母)とともに眠っている。

時代はいつのころか知らないが、ずいぶん前のこと。

大阪が空襲に見舞われておおばあさんの母親。

私がまだ幼少期のころに撮られたおおばあさんとおおばあさんの母親。

その横に実弟の次男も座っていた記念写真

線香をくゆらした墓石を拝んでいて思い出す映像である。

ふと見上げた目の前にある墓石。

台座辺りに刻んだ家紋は三つ菱。

四つ菱の家紋であれば家紋一覧に見られるが、三つ菱は見当たらない。

我が家の「ふくさ」はこの三つ菱紋。

懐かしい顔が映っている写真を見たくなる。

※ 録画していたビデオ映像を見ていたときである。

当家とまったく同じ家紋を画像に見た。

場所は福井県坂井市にある土産物・食事処の谷口屋である。

福井県は油揚げ・がんもどきの消費金額が全国一の評判県。

一説によれば、全国的に知られる大本山永平寺などの寺院が食事にだす精進料理から派生したと考えられている。

そこに来た取材クルーは、テレビ東京の人気番組の「昼めし旅」。

この日の旅人は俳優の金子貴俊。

紹介してもらって行った先が、油揚げ専門店の谷口屋だった。

ぐぐったネットに登場する「谷口屋」の屋号文字。

その真上とか左横などのあたまに必ずや掲示している三つ菱紋。

我が家の家紋とまったく同じ。

我が家は分家であるが、出里は三重県・伊賀上野。

田舎侍が先祖で、私は16代目と聞いている。

谷口屋を営む代表取締役の谷口誠氏とお会いできる機会があれば是非尋ねてみたい三つ菱紋の謎を・・。

商標紋かもしれないが・・。

(H30. 8.16 SB932SH撮影)
( R2. 4. 9 追記)

西成区玉出・生根神社のだいがく

2020年01月20日 09時47分10秒 | もっと遠くへ(大阪編)
生まれ育った30云年間も暮らしていた大阪・住之江。

そこより北に向かってひたすら走る国道26号線。

住吉大社からまだ向こうの北になる西成の玉出。

故郷の地からたったの3kmの地に生根神社がある。

存在を知ったのは平成26年12月19日だった。

家人が受ける大病院の精密検査帰りに祭りの幟が歩道にたくさん立てていてはじめて知った神社。

その神社に「だいがく(台額)」の名で呼ばれる特徴的な提灯を立てると知ったのは、その後のことだった。

どえりゃぁ数の提灯台を立てる。

いつかは拝見したいと思っていた。

本日も、週一ペースで毎週治療の歯科医院通い。

治療を終えて南下する国道を脇に入る。

そこに神社があると思っていた筋道は通行止め。

この日は宵宮の露店がたくさん並ぶ。

仕方ないから道を外して迂回する道。

その道に通行止めがないから走ってみたら布団太鼓があった。

その奥に並ぶ構造物は何だ。

なんとなく動く桟敷席のような感じがあるが・・。



もう少し奥に行けば、神社のお帰り道。

宵宮神事の会場はここだと思った。



車を停車させて鳥居をくぐってみれば、向こう側にたくさんの提灯を下げた「だいがく(台額)」がある。

停めた場所が気になるものだから、撮っただけ・・。

国道に出て、何筋目かの筋道に車を入れる。

西へ向かえば広い公園があった。



ちらっと見えた赤い色の提灯にでっかい円形の・・・。

境内にあった「だいがく(台額)」よりは多少少ないと思った提灯の数。

2基のだいがく(台額)に太鼓がある。

場はわかったが、宵宮の在り方は知らない。

車に乗せたままの自力歩行が困難な家人を放っておくわけにはいかない。

数分間、神社参拝もできなかったが、状況が少しわかったような気がする玉出・生根神社の「だいがく(台額)」であった。

玉出・生根神社のだいがくをよく存じておられるM氏が、FBで伝えてくれた情報。

魔除獅子、枕太鼓巡行もあるが、重要なのはだいがく(台額)。

中だいがく(台額)はおよそ10mの高さを誇る。

小型の大学は、神社付近の公園で夜8時に担がれる。

だいがく(台額)音頭とともに担がれる貴重な山車は大阪府指定有形民俗文化財第一号、と。

24日の宵宮に25日は天神さんの祭りでもある。

この年はテレビ大阪で天神祭の舟渡御神輿が画面に映し出していた。

舟渡御神輿は、特殊とも思える傘鉾の形。

民俗にとって見る価値は大いにある。

(H30. 7.24 SB932SH撮影)

大阪・淀屋橋-三休橋筋の観光施設案内図絵

2020年01月17日 09時16分23秒 | もっと遠くへ(大阪編)
母親の歯科治療の合間に拝見した舗道の印し。

近づいてみれば、それは周辺の観光案内を伝える陶板焼きのようなプレートだった。

歩ける距離にある信号待ち。

その都度、視線を落とした舗道に埋込みプレートがある。

三休橋筋は中央公会堂より南側。

北になる栴檀(せんだん)木橋から南下して本町の中央大通りまでの南北筋を三休橋筋(さんきゅうばしすじ)と呼ぶ。











その間にある通りは東西を行き来する“通り”。

北から順に南に下って土佐堀通、内北浜通、今橋通、浮世小路、高麗橋通、伏見町通、道修町通、平野町通、淡路町通、瓦町通、備後町通、安土町通、本町通、南本町通、中央大通である。

プレートおよび舗道は大阪市都市整備局ならびに船場地区連合振興町会や周辺商業協同組合などが事業するHOPEゾーン協議会(※平成30年3月に解散)によるもののようだが・・・。

(H30. 6.21~ 7.24 SB932SH撮影)