マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

室生路に建つバス亭に侘びを感じる

2022年09月19日 07時22分00秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
21日、所用で出かけた室生路。向渕のある県境。

自宅を出発する前、FB知人のNさんが報せていたバス亭。

名張の民俗取材に通るルート上に建つ木造建築物の停留所。

午後3時過ぎの室生路は、山影に入っていた。

(R2.11.21 SB805SH撮影)

夏神楽終えた直後に到着した室生小原の八幡神社

2021年04月11日 09時19分13秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
行事日は、たしか海の日に移したと聞いていた夏神楽(なつかぐら)。

祭事の地は、宇陀市室生小原に鎮座する八幡神社。

日にちは聞いていたが、始まる時間は、存じていない。

三重県伊賀に代々が継承してきた室町期小領主の平城居館の調査帰りに立ち寄りである。

到着した時間帯は、午後2時半。

神職と氏子さんに出会えたが、神事を終えて引き上げる、まさにそのときの到着だった。

少しだけでも伺いたい、本日行事の夏神楽。

夏神楽と呼ばれる行事であるが、奈良県内に広く伝わる行事でもない。

私の知る範囲内であるが、行われている地域は、旧都祁村にみられる行事。

これまで取材した地域は、奈良市都祁小山戸町・小山戸山口神社にみられる「おせんどう」神事の、最中に男性神職による舞いである。

平成19年7月1日、並びに平成28年7月3日に取材した「おせんどう」神事・夏神楽。

元々は7月1日であったが、数年前から第一日曜日に移した。

同市都祁藺生町・葛神社の夏神楽は、平成23年7月3日の第一日曜日に行われた。

7月7日に行われる都祁南之庄町は、国津神社、末社の歳徳神社。

夏病みせんように赤飯で作ったスズキモチを供える行事。

平成19年に取材した。

7月16日は、都祁甲岡町・国津神社の夏神楽。

ここでも他社同様に祓い願う人はオヒネリを投じられる。

いずれも、都祁友田町・都祁水分神社のN宮司が祭主を勤め、夏神楽を舞う。

夏の暑さに負けることなく、半年の区切りに夏を乗り切る夏越の祓い、いわば暑気祓いの意味をもつ夏舞う神楽舞である。

鈴を手にした神官が、太鼓の音色に合わせて、シャン、シャン、シャン。

左に、右に舞う神楽舞。

巫女でなく、男性神職による舞いは、隣村になる奈良市針町・春日神社にもみられる。

平成19年7月8日に撮影した神職は、N宮司が宮司職に就く前の先代宮司が舞っておられた。

また、行事の名称は夏神楽であるが、神楽舞の存在がみられない山添村大塩・八柱神社の座の行事例もある。

おそらくは、神楽舞がかつてされていたのだろう。

年中行事のほとんどが、寺行事との兼ね合いもある座が仕切る八柱神社。

神職による神楽舞があってもおかしくないと思料されるのだが・・。

さて、室生小原の八幡神社行事の夏神楽である。

これまでしていた団子つくり。

午前8時から作っていた団子つくりは、諸事情により、中断されている。

粉挽きからからしていた団子つくり。

一般的に団子といえばうるち米で作るのだが、ここ腹では、米でなく小麦で作っていた、というSさん。

挽いた小麦粉で作った団子は、シンコ団子。

シンコというだけに「新粉」。

考えられるのは、二毛作時代である。

米は秋に収穫し、その年の新穀感謝祭、つまり新嘗祭。

収穫の感謝を、その土地の産土神に献納する。

一方、二毛作時代は、夏に収穫した麦も献納していた。

そのことを証言する行事が今もなお・・。

平成29年7月1日に取材した、奈良市の旧五ケ谷村の一角。

米谷町・白山比咩神社行事の麦秋期の農休みの麦初穂にみられる。

米谷町では、麦で作ったコムギモチ。

初穂のサナブリモチ代わりのキナコモチであるが、ここ小原では小麦を挽いた小麦粉で作るシンコ団子である。

ところが、現在は作業負担の軽減に、シンコ団子改め、同じ小麦からできているパンに切り替えた、という。

また、Sさんが伝えてくれた秋祭り。

特に、といえば、貴重な習わしがある。

平成19年11月3日に取材した「当屋座渡し」である。

4人の送り当屋から受け、引継ぐ4人の受け当屋。

受け継ぐ儀式に酒と酢で〆た生魚のカマスがある。

なみなみに注いだ酒盃廻しに、ごくごく呑む、

五口酒に、酒の肴がカマス。

口シメシの作法のカマスは手で掴んで口に銜える、三々九度の儀式

今でも、絶えることなくしているそうだ。

大事なことだから、今もなお、であるが、一方、宵宮祭に献じていた氏子献供の甘酒は中断した。

さて、夏神楽行事は、これまで7月の第三月曜日の海の日にしていた。

国の制度のハッピーマンデーによる第三月曜日が祝日の海の日。

ところが、東京オリンピック・パラリンピック競技日との兼ね合いに、令和3年は7月22日木曜日に。

翌年以降は、再び戻った第三月曜日になるだろう。

実は、夏神楽の前日日曜日は、村祭りの夏祭り。

時間帯も同じく午後2時より始まるのだが、令和3年の対応はどうされるのだろうか。

県内各地のいくつかの地域でも夏祭りを海の日にしている。

この年限りではあるが、日程確定に時間を費やされる。

それはともかく、小原八幡神社を兼務されている上笠間在住の新宮神社宮司のMさんからお願いされた件である。

これまで小原在住の宮司さんがこの付近地域すべてを担っていた。

いつしかご高齢になられ引退された。

跡を継いだのがM宮司。

小原をはじめ、旧室生域の上笠間、下笠間、染田、深野の他、山添の毛原も・・、であるが、夏神楽所作があるのは、ここ小原だけである。

神楽の所作は、結局引き継ぐことはできなかったらしく、ご存じであれば、紹介してほしい、というお願いに、候補者はお一人。

前述した、都祁友田町・都祁水分神社のN宮司がおられる。

急ぎではないが、所作の教えを乞いたくお願いされた。

すぐには動けないが、都祁水分神社に行く機会に合わせてと、させてもらった。

その後において、日本全国どころか全世界に広まった新型コロナウイルスによるパンデミック。

身動きできない自粛行動が長期間に亘った。

ところが、偶然にも、というかご縁が繋がり、令和3年になるが、2月14日に行われた天理市長滝町・九頭神社の祈願祭にお会いできた。

長滝町の取材も長年の空白期間を経て、偶然が偶然を呼び込み、さらに九頭神社宮司が交替、新しく任に就いた都祁水分神社のN宮司と出会ったのである。

伝えた上笠間のM宮司のお願い。

夏神楽所作を教わりたい意向を伝えさせてもらった。

N宮司は、M宮司をご存じだったこともあって、近々連絡を取り合ってみましょう、の詞に、繋ぎの役目を終えてほっとした。

実は、ここ小原に来る前に立ちよっていた神社がある。

奇遇なことだが、ふと伺いたく車のハンドルをきった室生上笠間・新宮神社

7月15日に何らかの行事があるのでは、と思って立ち寄ったが、気配はまったく感じない。



社務所の扉は締まっている。

ふらりと立ち寄った神社に初参り。



その途中に見た灯籠に、はっとする。

灯籠は2基。右手の灯籠にあった刻印は「九頭大明神」。

左手も「九頭大明神」。

一対ものであろうか。

由来札によれば「明治40年字川窪 明神山に奉祀せり九頭大明神、高雷龍命(たかおかみのかみ)を合祀する」とある。

新宮神社境内社に瘡(くさ)神社あり、例祭は11月3日にようだ。



また、宇陀チャンネルこと宇陀市メディアネットが紹介するユーチューブ映像に、平成25年に行われた瘡神社春の祭典の模様をとらえていた。

こいのぼりが揚がる5月5日の祭典に、上笠間で育てた蕎麦手造りの手打ち蕎麦。

打ち立て、茹でたての蕎麦を、村の人たちに振舞っていた。

〆に御供撒き。こっちも、こっちも、と子供たちの声が村内広く届いているようだ。

また、最後に鯉の放流。

笠間川に鯉。

まさかの大きな錦鯉の放流。

まるで放生会の様相である。

普段の上笠間ではまず遭遇することのない子供たちの喜ぶ声。

一度、拝見したいものだ。

(R1. 7.15 SB805SH撮影)

室生多田・松明送りの日は寂しい

2021年03月22日 09時07分28秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
宇陀市室生・無山の送り盆の様相を見届けて、帰路に向かう。

北に向かってすぐ近く。

隣村になる多田から左に折れて、都祁白石町に出るコースを走っていた。

無山、多田を経て笠間川に沿って下っていく。

染田、小倉、下笠間、上笠間は旧室生村圏内。

さらに下った下流域が山添村領域の毛原、岩屋・・・から三重県の名張川に合流。

つまりは名張川の支流であるが、名張川はさらに下って京都に。

大河は木津川となり、やがて大阪の淀川となって大阪湾に繫がる。

笠間川の上流は、旧都祁村の吐山

源流は、かつて雨ごいに登っていた貝ケ平山に香酔岳山麓地。

隠れ里のような段丘田園地景観が美しい。

6月の夏至のころ。田の虫送りに松明を翳して下流域に稲を喰い荒らす害虫を送っていく。

毛原の先は、岩屋になるが、虫送りをしていた話は聞かない。

地区ごとに鎮座する神社の行事に、寺行事なども取材してきたが、多田の地区だけは、未だに拝見していない。

多田に入ってすぐ、目につく神社もまた、無山と同じ名の九頭神社。

神社行事がどうであるのか、聞き取りができていないから、足を運ぶことはない。

また、風景写真家さんたちがよく知る真っ赤な花を咲かせるさるすべりがある日蓮宗万寿寺も、行ったことのない多田。

いつかは、訪れたいと思い続けているが、毎回が通り抜け。

ふと、車窓から眺めたその景観に、思わず車を停めた。

無山からは県道127号線の北野吐山線。

多田からは県道781号線の都祁名張線が交わる地点近くだ。

停車してすぐ近くまで寄ったそれは、まさに今、火を点けようとしていた藁松明である。

民家は奥。その家に出入りする道。

端っこだと思うそこに立てていた2本の松明。

両脇にそれぞれに、である。

その場に人の動きをみた。

お声をかけた婦人は、民家の当主。

旦那さんを亡くしてからは一人住まい。

急なお願いの撮影に承諾してくださった。

これから藁に火を点けますから、といって、近くに置いてあった新聞紙を手にした。

ちょっと柔らかめに丸めた新聞紙に火を点けた。

細めの竹は、近くに生えている篠竹であろうか。

葉はナタで伐り落とし。

その伐り口は、綺麗にしていた。

ざっくり折った藁束。

端の部分の数本を捻って縛る。

落ちないように固定していた藁松明に火を点けた。



上昇する火の状態をみて、もう一方の松明に火を点ける。

やがて煙が立ち上って空に向かう。



今日は、15日。

亡くなられた旦那さんも先祖さんも煙に乗って戻ってゆく。

藁に湿り気があったのか、火の具合が衰える。

もっていた新聞紙の火を再度移す。

何度か繰り返した火点け。

燃え尽きるまで時間のかかった送り火である。



14日は迎え火だった。

今日のような火点け具合でなく、藁が乾いていたからよう燃えた、という。

お盆に戻ってきた子どもたち。

息子さんとともに神戸から戻ってきた。

外孫らがはしゃぐお盆の日は、とても賑やかだった。

その息子、孫たちも、今日の午後にみな帰ったそうだ。

帰ったあとの家は、賑やかな音がすっかり消えた。

この送り松明もしたら・・、小声でもらした「さみしい」。

今でも私の脳裏に焼きついている詞。

「お盆に戻ってくるまではワクワクしていたが、今日はほんまに寂しいことや・・」と、心境を語ってくれた婦人はMさん。

お若いと思っていたが、82歳。

その寂しさは、後日に訪れたお礼に写真を差し上げたときも・・。

「背中が曲がってますやろ。朝はシャンとしてるんやけど、夕方になったら疲れて・・・」

道路向かいが母屋の本家。

うちは分家のM家。

天理の福住下入田から、親戚筋にあたるM家に嫁入りしてからもう何年になるやろか・・・。

(H30. 8.15 EOS7D撮影)

室生無山・M家の先祖送り

2021年03月21日 08時55分54秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
やや腰痛ぎみだった身体を気分転換に出かけた行先は、奈良市都祁白石町。

食べたくなった塩っ辛い刺しさば買い。

思い立っての行動であるが、本日は盆の真っ盛りの15日。

夕刻では間に合わない売り切れを想定したが、気になれば、なるほどに気持ちを抑えられなくて・・。

行先は、以前も買ったことがある同町にある「ショッピングセンターたけよしのコマーシャルソング。

運よく、見つかった「たけよし」の刺しさばを手に入れてほっ。

時間帯は、日暮れ前の午後5時45分。

余裕ができたから、ちょっと足を伸ばした宇陀市室生の無山。

同地を目指したのは、先祖送りが見られるかも、と思って車を走らせた。

先祖さんを送る場は、マエノ川と称していた笠間川に架かる橋の袂。

時間帯が合えばいいのだが・・。

都祁白石町から直に室生多田に出る村の道を走る。

通り抜けたところに三叉路がある。

そこを右折れしたら無山に着く。

橋を目指していた、そのときだ。

右手に火の手が見えた。

その火は松明火。

急いで戻ったUターン。

広地に停めて小走りしたいが、坂道では無理がある。

見えた民家はすぐそこだ。

火はまだ点いており、煙も僅かだが立ち上っている。

藁松明は2本だ。

急坂を登る道は九頭神社に向かう参道。

階段を踏むすぐ近くの民家に人影が動いた。

送り松明をされていた男性に、お声をかけて急な取材をお願いした。

それなら、もう一度、藁松明に火を点けてあげよう、と云ってくれたMさん。



再現をするにあたり、新たに藁束二束を持ってきた。

まずは一束。

半分くらいに折ってみる。



半々に折った束の長さをざっとみて、曲げる位置を調整するのは、カドニワに仕立てた2本の青竹。

シシダケの名がある青竹の先は削って尖がらしておくと、藁を刺すので、動かず、座りがいい。

このままの状態では、藁束がほぐれて落下してしまう。



そのために藁紐でしっかり括って固定する。



もう一束も同じように固定し、カドニワの出入り口の両端に立てた。

2本とも調えたら火点け。

取り出したライターで着火する。



乾いた藁は、直ちに燃えあがる。

例年、午後6時に送り火をしている、という。

13日は、迎え火。

送りの15日と、同様の時間帯にしている。

昨日は、ソーメンをおましていた、というから14日のことだろう。

15日の朝6時。

迎えた先祖さんに供えて盆棚から、御供をもって前ノ川と称する笠間川に向かう。

田園が広がる向こう遠くに見える橋が、笠間橋。

その橋から、御供を川に投げこんで、川流し。

Mさんの話によれば、南の地区は、そこより近い別の橋から投げるそうだ。

橋に線香を灯して、水に溶けやすい御供を流す、と聞いて場を移動した。



M家のカドニワから遠望した笠間橋。

近くに見えた橋が、私の足では遠くになる。

胸のうちが騒ぐ線香の位置。

近寄ってわかった、欄干の下。

そこに並べていた。



線香の色は、それぞれ・・。

燃え尽き具合もあるから長さもさまざまだし、本数もさまざま・・・。

山の神の御供なら男の人数分とかあるが、これはそうではないだろう。

これまで取材してきた地域の人たち。

話してくださったのは、たいがいが、適当な本数、だと答えていた。

線香に見惚れて撮っていたときだ。

はっと気づいた橋の下。



目線を落とした川中に花束がある。

先祖さんを迎え、見送った仏さんの花だ。

視線をあげた川中には、経木もあった。



撮っていたときである。

ワンちゃんを散歩している女性と出会った。

仕事場は、すぐ近く。

以前も撮らせてもらったカドニワに立てた先祖さんへの松明。

今年は、来訪されたお客さんの関係で午後5時に送った、という。

また、ご近所のお家にも松明痕がある。

迎える、送る時間帯は、家ごとの事情に合わせて火を点けているようだ。

この橋の袂で線香を、のことを教えてもらったのは、平成23年の虫送りの夜だった。

7年経ってようやく無山の様相を拝見できた。

当時、聞いていた話によれば、藁松明で送る時間帯は夜間だった。

日が暮れ、暗くなる時間帯になってから送られるのだろう。

先祖さんは、早く迎えて、遅くに戻ってもらう。

今から思えば、そういう家だったのだろう。

翌年の令和元年の8月5日。

取材のお礼に撮らせてもらった写真をさしあげるために再訪した。

ご主人は不在であったが、母親にお会いできた。

母親は昭和2年生まれの92歳。

実は、と、話をきりだしたお嫁さんのこと。

悲しいかな、40歳半ばで亡くなられたそうだ。

当時、子どもらは大きかったらから、再婚に踏み切れなかった。

昨日は日曜日。お盆の時期には、実家に戻れないからと、11人の孫家族が集まってくれた、という。

カドニワに盛り上がった孫たちのバーベキュー料理。

来週は、「お盆を迎えるが、お父さんの姿を撮ってもらった写真は期日が合わないから見られへん。昨日に持ってきてくれたら、みな喜んでくれたやろ」。

「また、会える日おあるし、そのときの愉しみにしておくから」、と・・。

ここ、「M家のカドニワから見た田園風景が清々しく、とても気持ちがいいと、いつも孫が云ってくれるのが嬉しい」、と云ってくれた、その気持ちも嬉しくて、逆にお礼を伝えて帰路についた。

(H30. 8.15 EOS7D撮影)

室生下笠間・F家の再現ウエゾメ

2020年06月18日 10時00分31秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
知人の写真家Kさんがメールで連絡してくださったウエゾメ(植え初め)。

田植え初めに行う農家さんが願う豊作の儀式。

儀式といっても神社のような儀式ではなく、その年の田植えを始めるにあたって、田んぼの一角にあるものを立てるだけのこと。

そのあるものは、地区、地域によってさまざま。

立てるだけでなく、その場に供物も置くこともある。

それこそ農家さんによってはされる家もあればされない家も。

かつてはしていたが、今はもう、という農家さんもある。

時の流れによって農家さんのあり方は、これもまたさまざまである。

Kさんが連絡してくださった地域は奈良県・旧室生村の一村。

下笠間に住まいするF家のご厚意によって、今では行われていない、かつてのF家のウエゾメ(植え初め)のあり方を、再現記録を撮らせていただく。

伺っていた時間より少し前。

F家を紹介してくださった写真家Kさんは早くも到着されていた。

揃ったところでしましょうか、とご主人が動いた田んぼはお家の真ん前。

谷から流れる水を引いた田んぼに入った。



早速に始める作業は稲苗植えでなく、カヤ挿しである。

田植えを最初にする棚田は、天理の山田に近いところ。

そこから順に、下へ、下へと下って田植えをする。

今ではJA・広陵センターからコシヒカリ苗を購入するようになったが、かつては直播だった。

そのころの田植えはナエトリサンに来てもらっていた。

ナエトリサンは女性の仕事だった。

ナエトリサンの他に植え子さんもきてもらっていた。

田んぼが多い家はそうしていた。



また、最初に田植えするところはカシラと呼んでいた。

田植えの間に摂るケンズイ(間食)食は、おましたパン、おやつに家で作った弁当だった。

嫁の家とゆい(結)し合っていた。

断片的に語ってくださるかつての様相である。

続いて話す田植え終いのこと。

田植えのすべてを終えたら、平たん部の地域に出かけて、朝から晩までずっと田植え。

当時は人力の田植えだから何人もの人の手が要る。

行先は大和郡山に安堵町。田原本町なら薬王寺。

広範囲に亘る地域、地区だった。



田植え初めに何をするかといえば、まずその畔に供えておくフキダワラ(※蕗俵)である。

予め、というか直前に自生する蕗の葉を採取しておく。

蕗の葉は軸を付けたまま。

根を取った蕗の葉を広げて、炊いていた大豆入りのご飯をのせる。

葉を折りたたんで俵型に包む。

広がらないように稲わらで括ったフキダワラ。

俵型にするのは豊作の願い。

一俵、二俵・・・・何十、何百ものの米俵になるほどに稔ってほしいという願いの形であろう。



Fさんは、そのフキダワラの中身がどのようなものなのか、包まずに広げたままにしてくださった。

記録に残すフキダワラの中身もまた民俗。

いわば豆ごはんであるが、食の文化の一例としても記録しておく。

さて、そのフキダワラの数である。

数えてみれば12個。

一年の月数である。

旧暦の閏年であれば13個にするフキダワラである。

さて、カヤ挿しである。

付近に自生するカヤススキを採取し、根は切っておく。

手に数本のカヤススキ。

1本のカヤススキを手にとって田んぼに挿す。

少し離れた位置にまた1本。

また離れて1本。

続けて1本、1本を挿したその列に6本。

田植えをするような感じで挿していく。

一段下がって、同じように1本、1本・・・。

数えてみれば12本のカヤススキ。

一年の月数になる12本を挿したこともまた豊作を願いあり方。

旧暦の閏年の年であれば、これが13本になる。

カヤススキは、茎の部分にある油分によって水を弾き、耐久性は高い。

なんせ強いからあやかっている、という。

右手に見える農具がある。



畔下、田んぼの端っこ挿して立てた道具。

リール式でなく、昔の凧揚げの糸巻きの同じような形状に見える道具は、タウエナワ(※田植え縄、または田植え綱もあるらしいが・・)。



田植えをするにあたり、苗の列が同じ間隔に空けて植え付けられるように目印に用いた縄を張る道具

手植えをすることのない現在は、まず見ることのない道具である。

12本挿し終えたら畝にも6本挿した。



豊作願いに挿すカヤススキは、その茎の硬さからとんどの残り火で炊く小豆粥にも関連する。

下笠間のとんどは成人の日に行われる。

前日に組んだ大きなとんど。

設営地は笠間川の平たん部。

火付けは朝の6時。

燃え尽きるころのとんどの残り火は炭。

持ち帰っておくどさんの種火にして小豆粥を炊く。

その小豆粥を食べる箸がカヤススキの茎である。

とんどの燃えカスは灰。

その灰を田んぼに振り撒く、という。

これもまた豊作を願うあり方である。

実際にされた灰撒きを撮らせてもらった地域に山添村の切幡がある。

灰撒き事例は明日香村の八釣にもあった。

トンド焼きの翌日に灰を「豊年、豊年」と云いながら畑に撒く。

同村の川原や小山田では灰撒きをしたら田に虫がつかない、と、飛鳥民俗調査会が昭和62年3月に発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯』に載っている。

Fさんが続けて話すとんどの話題。

とんどに焼けた竹も持ち帰る。

火の中にくべて、形を残しつつ持ち帰る。

それを味噌樽の蓋の上に置いたら味噌が美味くなると云われていた。

くべる竹は中太のアキダケ。

節を中心に伐り倒したアキダケは1月4日に割るのが習慣だった、とか・・。

田植えを終えてからナエサンを供えた。

3把から5束くらいに取った苗さん。

束になったナエサンの葉を広げたそこにおにぎり飯をのせた。

きな粉を塗して作ったおにぎり飯は五つ。

田植えは無事を終わった、とクドサン(おくどさん、つまり竈)の蓋に供えた、というさなぶり(※充てる漢字は早苗饗)のあり方である。

JAの苗を購入する前は、籾落としをして苗代つくりをしていた。

苗代作業を終えたら豊作を願うミトマツリをしていた。

正月初めに行われる下笠間の村行事。

氏神さんを祭る九頭神社で行われているオコナイ行事であるが、神官でなく春覚寺に努めるS住職が、咒願文「願わくば融通念仏の功徳を以って祈祷し奉る・・・」を詠みあげ祈祷される。



拝見していた平成24年1月7日のオコナイ行事。

宮守さんが墨書した「牛玉 徳ケ峯 宝印」の書に3カ所。



かつてあった神宮寺を推される山号であろう。

宝印を捺して祈祷する護符にウルシの木は、苗代の水口に立てると聞いたが、今はどうされているのだろうか。

そのことを尋ねるのは、すっかり忘れていた。

また、村の田植えのすべてを終えたら、氏神さんに無事に田植え(※植え付け)を終えたと奉る植え付け報告祭を行う。

今では報告祭を充てているが、かつては植え付け籠りであった。

Fさんの孫さんが中学3年生のときに纏めた論文、『奈良県東部の伝統行事と暮らし(※下笠間)』がある。

写真家Kさんも撮影協力した執筆した章立ての文がある。

知り合いの学芸員に一読してもらった論文。

「これは大学生レベルを超えている」と絶賛する村の史料に匹敵されるくらいのデキである。

その論文に書かれた植え付け籠りが詳しい。

「午前10時、各家で作った手作り料理を携えた村の人が三々五々、氏神さんに参る。参籠所に席を移して、行事はじめを待つ。かつては孫を連れて参詣者が多かった。小さいころの私も祖父とともに参列した記憶がある。午前11時、自治会長の挨拶がある。植え付けを無事に終えたことを氏神さんに報告し、順調な成長と豊作をお祈りする。各々は、持参したご飯をそれぞれの席の前に少しずつ取り分け、お供えをする。稲作に関する話題など、豊かな交流、歓談が続く。九頭神社からの振る舞い酒もあり、最後に全員に配られるとお開きになる。このような籠りは年間5回もされている(※若干補正した)」

続いて書いてあった文が「その日の夕方には、田の虫送りという行事が行われる。村の人たちは、それぞれ2m余りの枯れた竹で松明を作って集まる・・・」。

下笠間では、毎年が夏至の日に行われている田の虫送りである。

育苗した稲苗を田んぼに植え付け。

虫がつかんように願う松明の火送り

出発前に法要した祈祷札をもつ僧侶を先頭に村から虫を追い出す。

稲を食い荒らす害虫駆除の行為であるが、出発前の法要は、殺生した害虫を弔う祈祷法要である。

夏場を経て稔った秋には収穫を感謝する行事が行われる。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
(H30. 5.12 EOS7D撮影)

室生・おあずけ弁財天石楠花

2018年04月14日 09時13分00秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
この日はおふくろの誕生日。

祝いに宇陀市大宇陀本郷にある椿寿荘に宿泊する。

目的は宿泊だけで済ますわけにはいかない。

遅咲きというか、時季的にだいたいが4月中旬。

場合によっては月末になるかもしれない桜見を兼ねた小旅行である。

宇陀市大宇陀本郷は夕刻までに到着すればいい。

本郷へ行くには西名阪国道の針ICを抜けて国道369号線を南下する。

旧都祁村を通る国道をさらに南下して香酔峠を越えるころには宇陀市榛原になる。

玉立信号から一旦は国道を外れて県道に切り換えてさらに南下。

榛原篠楽からは交差する国道370号伝いにまたもや南下していけば宇陀市大宇陀の道の駅に着く。

そこからちょいと西に入れば本郷であるが、もっと手前の榛原篠楽の信号を東に向きを換えて国道369号線をひたすら走る。

その道は伊勢本街道の幹線道路。

距離的にはさほど遠くない。

地名は榛原内牧。

その東の端に架かるトンネルは弁財天トンネル。

十数年前まではこのトンネルはなかったから、地道の峠越で宇陀市室生田口に出る。

今では真っすぐなトンネル道。

あっという間に旧室生村に突入してしまう。

その弁財天トンネルの弁財天は字地名である。

奈良県には広陵町にも弁財天の字地名がある。

何年か前から脚光を浴びて花見にくる県内外のお客さんが目指すのは弁財天石楠花。

村の人たちが段丘に植樹した花見処。

奈良県観光公式サイトが案内するアドレス表記は宇陀市室生弁財天であるが、そのような地名は見当たらない。

詳しくは宇陀市観光協会に聞け、という具合だ。

一方、大手サイトのじゃらんガイドによればアドレスは宇陀市室生田口元上田口になっているが、弁財天表記は見当たらない。

どうやら室生田口元上田口にある垣内名のようである。

じゃらんが示す弁財天の地は弁財天トンネル入り口手前にある地道を行くようになっている。

弁財天に来るのは何年ぶりになるのだろうか。

私が残したメモを手繰れば平成19年の4月26日

そのときの咲き具合は1分咲きだったとメモっていた弁財天石楠花の丘。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

所蔵する写真蔵から掘り出した3枚。

映像で思い出す林の中にある石楠花の花。

急な山道と思える坂道を登っていった辺りをぐるりと回遊できるように造成した丘。

斜面はきつく、湿り気がない。

お日さんが当たった斜面がカラカラに乾いていた10年前の姿を思い出した。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

うち、一枚の写真に目がいく。見下ろした先に見える朱の色。

屋根もあることからこれは神社である。

たしか境内近くまで車で登って、そこから回遊した1分咲きの石楠花を拝見していたように思いだす。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

さて、その神社に登る石段がある。



入山料の500円を求めるさい銭箱を置いてあった神社は金毘羅神社。

祭神は大物主命。

鎮座地は宇陀室生区田口弁財天とある。

「神武天皇東征のとき、弁財天川から2km下流の胎ノ川との合流地点付近の“城(じょう”が河原で、八十梟帥(やそたける)軍団との激戦の上、勝利を納めた天皇は現在地に宮城を築かれ、傷を癒し兵力を貯え暫時政務を執られたと言い伝えがある」と記された由緒書を立てている。



鎮座地の“宇陀室生区田口弁財天”の“室生区”は現在表記されていない。

旧室生村は榛原町に大宇陀町、菟田野町と合併されて宇陀市になった。

平成18年1月、宇陀市になったときの旧室生村名は“室生区”を充てていたが、現在は“区”表記を外しているから、由緒書を書いたのは平成18年当時とわかる。

おふくろに見せてあげたい石楠花はこのさい銭箱から石段を登らなければならないが、身体的に無理がある。

階段が登れなきゃ車でとも思ったが、そこまでしてくれなくとも・・という。

折角、ここへ来て見たものの断念せざるを得ない。

ちなみにこのときに来ていた79歳の男性カメラマンンは、石楠花がどこにあるのかわからなくて、うろうろしていたそうだ。

それも3年ぶり。

記憶がない景観に狼狽えていたと云う。



結局のところお花を観たのは駐車場に咲いていた巨木の白い木蓮。



すぐ近くに咲いていた黄色いレンギョゥの花を前に集落民家をぼかして撮っておいた。



ちなみに桃色のツツジが咲いていたので撮った写真の向こう側に石楠花があることを付言しておこう。

(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)
(H29. 4.27 EOS40D撮影)

下笠間・T家のカドマツリ

2017年09月26日 08時53分09秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
Ⅰ家の隣家になるT家も立ち寄ってみる。

T家もオンボサンを立てているが、奥さんはカドマツリと呼んでいた。

Ⅰ家もT家も伊勢講の講中。

平成21年の12月13日に訪れて、6軒で営みをされていた伊勢講を取材させてもらったことがある。

T家はそのときの送りのヤド家だった。

ご主人は正月のお酒を飲み過ぎて寝ているらしい。

久しぶりなので、お声をかけたいが、かけることもできなくて奥さんにお願いするカドマツリのお話し。

Ⅰ家と同じように3本立て。



オン松、メン松に雄のカシの木を立てる。

雄カシの木の本数は家の男の人数でもあるし、おれば2本だということも。

逆に男が居なければ1本にするという。

このカシの木は家によって異なるようだ。

ホウソの木をする家もあれば、葉の無いクヌギの家もある。

また、雌カシの木をする家もあるというから多種多様のようだ。

三本通しの注連縄を張っているところもカシの木の巻き付け方も、太めの注連縄もある。

昔の松は5段であったという。

段は徐々に減っていって3段。

それから今日の2段になったそうだ。

近所の家では1段で先っちょだけの家もあるらしい。

太めの注連縄には蛭子さんのタイを架けたというからカケダイであろうか。

家のエビスサンに供えているのは生のカケダイという。

生のカケダイは初めて聞くが、当初は、ということであろうか。

串にさしているというから特徴的ではあるが、拝見はできなかった。

干したカケダイはと話題は続く。

そのカケダイは魚屋さんで買う。

昔は桶を担いで村に売りに来た行商から買っていたという。

カケダイの昔。

田籾を蒔いたときのミトマツリ(水口祭り)に食べた。

時期が来て、田植えをする日(植え初め)にも食べた。

その都度に食べたというから2尾だった。

そう、カケダイは2尾の一対腹合わせが特徴なのである。

話しをしてくれた食べる時期は農作の節目。

田植え初めにフキダワラをこしらえていたという。

拝見はできなかった床の間に供える正月祝いの鏡餅の膳は餅にクシガキ、トコロイモ、クリ、コウジミカン、お頭付きタツクリに昆布を供える。

この7品目は家のいろんな処に供える。

雑煮もお神酒も供える元日。

昔の正月は二日間の朝、晩にお節を食べる。

ヒル(昼)はヌキみたいなものだったという。

ちなみにコウジミカンは村に行商に来ていた売り子さんから買っていたという。

今では売りにくることはないから、購入するのは難しいようだ。

ちなみに「オンボサン」の呼び名を聞いたことがある。

平成24年の11月23日に訪れた山添村大塩のKさんが話した「オンボサン」である。

「正月の雑煮を炊く火点けはフクマルの火。雑煮はカシライモ(頭芋)。キナコに塗して食べる。カシの木はヒバシにする」と云っていた。

そのカシの木のことを「オンボサン」と呼んでいたことを思い出した。

その証言に感じる「カシの木」である。

オンボサンではないが、オンボダケの表現があったのは曽爾村の伊賀見。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』の記事である。

伊賀見のトンドはかつて1月15日の朝だった。

伊勢湾台風襲来による被害があった。

川原に生えていた竹が消えて取りやめになったが、そのトンド組の芯に真竹を立てる。

これをオンボダケと呼んでいた。

また、このオンボダケに書初めした書を括り付けて、灰が高く昇ると手が上がるといって喜んでいた。

燃えて最後にアキの方角に倒すオンボダケ。

割って持ち帰り、味噌樽の上にのせて置けば味噌の味が落ちないとあった。

こうした民俗事例から判断するに、「オンボ」とは心棒。

例えば家長も家の心棒。

重要な位置についている諸々に威厳さをもって「オンボ」と称したのかもしれない。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

下笠間・I家のオンボさん

2017年09月25日 09時34分14秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
正月行事の在り方もさまざま。県内各地を渡り歩いて調査していたが、午前中いっぱいの時間まで。

「うちの家の正月は何時になったら始めるんや」の声が取材地まで届きそうな気配がする。

できる限りのことだが、同行する写真家のKさんに観ていただきたい民俗事例がある。

山添村松尾のイタダキから天理市福住や室生小原のカンマツリもそうであるが、室生に来たなら下笠間と思って足を伸ばす。

下笠間にはこれまで幾度となくお家の民俗を撮らせてもらったお家がある。

その家は正月の膳はあるし、竃にもお供えをする。

エビスダイコクさんにはカケダイも吊るしている。

もう一つは県内事例で他所には見られないオンボさんの門松立てがある。

元日の朝から突然の訪問に驚かれることだろう。

お年賀も準備した表敬訪問である。

実は気になっていたのがご夫婦のお身体だ。

前年の平成28年5月21日に訪問したときの奥さんは腰痛で難儀しておられた。

その後の状態は克服されているかもしれない。

ご主人はお元気な様子だったが気になる年齢である。

今年もオンボさんの門松を立てておられたのでほっと安心した。

I家のオンボさんを拝見したのは平成25年の12月31日

慌ただしい大晦日の日に取材させてもらった。

オンボさんの存在を初めて知ったのはその年の1月11日だった。

オン松、メン松にカシの木の三本を立てる。

注連縄を張って、カシの木には長くなった注連縄をぐるぐる巻き。

ウラジロにユズリハもあれば、幣もある。

なんとなく注連飾りの発展型のようにも思えるが、「オンボ」さんとは一体何ぞえ、である。

オンボさんの祭り方は、今もかわらないので平成25年取材の記事を参考にしていただきたい。

オンボさんを先に拝見して表の玄関から声をかける。

屋内から聞こえてくる奥さんの声。

扉を開けたら玉手箱、ではなく私であるから驚かれたことであろう。

年賀の挨拶をさせていただいて玄関に入る。

ご主人は奥の居間で寛いでいたが、身体を壊されていた。

交通事故に遭われて手術もした。

気力も衰えていながらも炬燵から出ようとされたので、無理しやんといて、と思わず静止した。

なんとも、辛い正月の顔合わせになってしまった。

奥さんの腰痛も治ることはないという。

不自由な身になってもお家の正月飾りをしているご夫婦にただただ頭が下がる思いだ。

奥さんは昔も今もよく話してくださる。



「戌亥の井戸の若水をいただく。薬を飲むときは朝に飲め。若水に注連縄に餅とコウジミカンを供える。家の神さんにも仏さんの水にも井戸の若水。すべての椀に入れる」という。

Ⅰ家に立ち寄る際に必ずといっていいほど竃を拝見させていただく。

今でも現役であるが、そこにある大鍋の蓋にたいがいの場合にお供えをおましている。

節目、節目に竃の神さんに捧げる御供であるが、この日は当然ながらの鏡餅。

三段重ねの鏡餅は暮れの28日に家で搗く。

例年そうしているⅠ家である。



「いつもニコニコ仲睦まじく」の10個の干柿を串挿ししたクシガキにトコロイモ、ゴマメ。オンボさんと同じようにウラジロに輪〆の注連縄で奉っている。

これらを丸盆に載せている。

その隣にも丸盆。

いつの時代も湯飲みを三杯置いている三宝荒神さんのお正月である。

奥さんがいうには「三宝荒神さんはすべてが三つ。餅もトコロイモもコウジミカンもクリも皆三つ」である。

そこへもってもう一つのお供えは元日と十五日のお酒である。

イタダキの正月の膳は床の間。

療養中のご主人がおられる居間は遠慮して、ダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えを拝見する。

これは必ず見ておかないといけないカケダイ。



年末にカケダイを作って販売している宮崎商店さんのカケダイとの比較である。

宮崎さんに聞いて始めて知ったⅠ家のカケダイは商店で買ったものではない、ということだ。

それを再確認したくて撮らせてもらった。

造りはよく似ているが、なんとなく違う雰囲気をもつが、ツノムスビ(角結び)は同じ結びのようだ。

後方に吊っている注連縄はたぶんにご主人が作られたものであろう。

どことなく違うのは藁の形作りである。

カケダイの鯛はたぶんに真鯛。



横にある赤い色の幟旗に三重県の「名張八日市蛭子祭」の白抜き文字。

2月8日は「えべっさん」の祭りで大賑わいする祭りの日に買ってきたもの。

奥さん曰く「カケダイは昨年のもの。名張で売っていたものを買ってきた」というから間違いない。

ちなみにダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えはカケダイだけでなく下にもある。



コウジミカンにクシガキにトコロイモ。

餅は2枚である。

傍にはトーフとズイキの煮物も添えていた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

室生染田フイゴの祭り

2017年07月15日 10時08分45秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
2カ月前の平成28年9月17日

室生染田の田んぼで偶然に出会った田主さんは野鍛冶師。

毎度ではないが、何かと出会うときがある。

この日は退院してから9カ月目。

久しぶりに顔を合わす話の弾みに写真家Kさんの願いを叶えたくてフイゴの祭りの再取材。

これまで2回も取材させてもらっている。

1回目は平成18年11月8日

2回目は平成23年11月8日だった。

2回目に至る前年の平成22年。

その年の毎週水曜日に発刊される産経新聞の奈良版の連載。

奈良支局の依頼で始まった奈良県の伝統的な民俗を紹介するコーナーを受け持った。

連載は一年間。

シリーズタイトルは「やまと彩祭」であった。

執筆にあたって毎週、毎週の奈良の民俗をどういうものを季節に合わせて計画した。

意識したのはできうる限り、貴重な県内事例を伝えたい、である。

それより一年前の平成21年は人生にとって初の著書である『奈良大和路の年中行事』の刊行である。

編集・出版は京都の淡交社。

裏千家で名高い出版社である。

奈良支局から依頼されたときにすぐさま頭に描いたのは著書では紹介できなかった民俗行事である。

表現も新聞記事らしくしようと思って毎週の発行に合わせる行事を計画した。

そのひとつに挙げたのが宇陀市室生染田で行われているフイゴの祭りだ。

野鍛冶師がフイゴに感謝する記事を書きたい。

そう思って描いたのは大昔から今にも続く農耕の在り方である。

農具、民具は寄贈された民俗博物館などにカタチとして残される。

カタチで残された文化的所産物は有形文化財。

民俗文化財は衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術など、人々が日常生活の中で生み出し継承してきたモノモノ。
有形は「モノ」として残されるが、無形はいわば「流れ」。

固定化されたモノでもない。

時代、文化の興隆衰退によって変革する。

有形もそうであるが、無形分野を形で残すには写真、動画、文字・・などしかない。

私にできるのはそれしかないと思ってしたためた。

48年前。

私が卒業した高校は大阪府立東住吉工業高等学校。

選択した科は第二機械科である。

第一機械化は鋳物関係。

第二機械化は旋盤関係。

大きくわけるとそんな感じだ。

卒業してからずいぶんと日が経つが、体験したことは身体が覚えている。

機械科だからこそ同じ鉄を扱う鍛冶仕事を気にかけたい。

記事化に選んだ理由は機械科卒であるからだが、執筆する記事に誤りや食い違いがあってはならない。

したためた原案をもって染田の野鍛冶師さんにみてもらった。

大まかにいえば問題はなかったが・・・若干の指摘を修正し、記事になった。

平成22年11月7日に発刊された新聞記事は新聞社の校閲もあって読みやすく、わかりやすくしていただいた。

元原稿は手元に残している。

公開された記事と読み比べてみれば恥ずかしくも思う文である。

恥ずかしくもあるが、ここにそのままの原文を残しておく。

「弥生時代はより安定した生活を営むため水稲耕作が広まった。農耕具が木製から鉄器文化に移ったことが普及の一因で、それは小国家のクニの始まりであった。稲作鉄道具は荒地を開拓するのに適し、より広大な土地を耕すことで文化水準が一挙に高まった。その鉄農耕具に携わる生業、戦後まもない時期までは野鍛冶が村の花形だった。生活文化が変わり、農業生産は効率的な農機具に移っていった。今ではその普及によって、その姿を見ることが少なくなった。所狭しにさまざまな鍛冶師の道具が並んでいる。」

「鍛冶屋の仕事場は火床(ひどこ)。火を起こすフイゴや金床、金槌、ハサミ道具、万力、ボール盤、円砥石がある。ベルトハンマーが回転する槌(つち)打ち機械が動き、松炭でまったりと焼けた鋼(はがね)を取り付けた野鍬の先を叩きつけるハンマーの音。親爺さんから二代目を継いだ室生染田の野鍛冶職人は今でも現役。クワ・ナタ・カマなどを修理する野鍛冶仕事に精を出す。(※)焼けた鋼や炭の色で目利きするその姿は巧みの技師だ。四方に飛び散った火花は清廉で、真っ直ぐな線を描く鉄一筋の伝統技が生きている。

奈良県では戦後間もない頃、野鍛冶を営んでいた鍛冶屋は約2在所ごとに一軒というからそうとう多数あったそうだ。それが現在は僅か数軒になった。その鍛冶屋が信仰する祭りがフイゴ祭。新暦の11月8日に行われている。一日ゆっくりフイゴを休ませて、フイゴとともに一年の労をねぎらい鍛冶仕事に感謝する日だ。

田畑を耕す鍬や鎌は農業を営む人にとっては欠かせない大切な道具。鍛冶屋はそれを作り出したり、打ち直して機能を長持ちさせる職業で、農家とは密接な関係にある。」

「鍛冶屋にとってなくてはならない道具がフイゴ。火を起こし、風を送る。鉄工所を営む鍛冶屋はフイゴの前に神棚を用意して、里、山、海の幸の他に7品の神饌を供えた。フイゴを神のように見立てて「一年間、鍛冶仕事で家族を支えていただいたお礼と次の一年も商売繁盛になりますよう」手を合わせ感謝の気持ちを込めて祈願する。仕事場の四方や道具に洗米、塩、お神酒を撒いて、神式に則り2礼、2拝、1礼で拝んだ。」で締めた。

掲載された新聞記事文は無駄をそぎ落として読みやすくなっているのがよくわかる。

フイゴの祭りは昔も今も変わらずに続けてきた。

神饌を並べてローソクに火を点ける。

その前にあるのが野鍛冶師の仕事場。



フイゴ道具がある火床を祭る祝詞は神式に則り、「かけまくも十一月八日は、鍛冶職人のふいご祭りとして、ふいごの神様、火床の神様、金床の神様、もろもろ道具の神様。昨年十一月八日より本日まで、火難と災難なく平穏な一年を過ごさせていただき、誠にありがとうございました。また、本日より来年の十一月八日まで、火難なく大難を小難、小難無難にお守りくださることと、一家の商売繁盛と家内安全を賜りますよう御祈願申し上げます」を述べた。

ところで今回の取材である。

願っていた写真家のKさんは急遽入った仕事の関係でやむなく断念。

それとは関係なくもう一人の客人が取材に来るという。

現れた客人は本物の新聞記者であった。

記者は朝日新聞社の古澤範英氏。

FBでのトモダチの一人になる古澤氏は現役記者。

後日の11月27日に発行された記事を読ませていただいたら、さすがに構成が上手いなと思った。

しかもだ。朝日新聞はデジタル化されてネットでは動画も拝見できる。

シンプルな纏め方に、カン、カン、というか、トン、トン・・・一日千回。

坦々としている情景がとても素敵だと思った。

同じような表現はここではできない。

と、いうよりも、野鍛冶師が新聞記者に説明しながら野鍛冶をしている行程を撮ることに専念した。

記録した160枚余りの写真を選別。

この写真は産経新聞に取り上げることのなかった(※)印の<参考 工程概略>に沿って公開することにした。

1.炉とも呼ばれる火床(ひどこ)の火起こし。



  火起こしの燃料であるコークス(昔は松炭)を入れて着火する。



2.鍬の磨り減った部分に軟鉄を補充し火床で焼き金床の上でハンマーを打ち、平らにする。



3.ハガネを鍬先の幅に切断して取り付ける。

4.取り付ける接合剤は鉄鑞(てつろう)粉。

  鉄鑞は硼砂(ほうしゃ)やホウ酸、ヤスリ粉が用いられる。

5.火床(ひどこ)から焼けた鍬を取り出して、ハンマーで叩くと火花が散る。

  この火花は鉄鑞粉が焼けて飛び散っている証しで一回だけ発生する大火花(1,000℃)。

  この工程を<仮付け>という。

6.更に鍬を焼いてハンマーで叩く。



  これを<沸かし付け(本付け 1,200℃)>という。

7.もう一度同じ工程を踏んでハンマーで叩き鍬の形を整える。

  これを<のし打ち>といい、6回ほど繰り返す。

8.冷ました鍬をグラインダーとヤスリで仕上げる。





9.鍬の先を火床で焼き、水槽の中に入れ急冷する。(焼き入れ行程 800℃)



10.粘りを与えるため鍬先の鋼の部分を火にあてる。(焼き戻し行程)



11.ラッカーで色付けをした後、鍬に柄を付ける。(完成)



(H28.11.11 EOS40D撮影)

下笠間の虫送り

2017年01月02日 09時16分02秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
経過良好だがなんともいえない脈拍である。

相も変わらず安静状態であれば40拍前後。

身体を動かせば50拍を超える。

超えることは良いのだが激しい運動はできない。

民俗行事の取材は復活したものの動きが少ない行事を選んでいる。

そうはいっても出かけて状況を知ることも必要だが、お世話になった村の人に顔出しも必要だと思っている。

これまで幾度となく伺っている宇陀市室生の下笠間。

近隣の取材であっても時間があれば車を停めて顔をだす民家がある。

そうしたいと思って出かけたが、この日の行事は火を点けた松明を村境の場まで練って送っていくのだが、お渡りと同様についていくことは避けたい。

そう判断してこれまで拝見してきた場より少し離れて村から見ればどうなるのか、一度は見ておきたいと思って出発直前にやってきた。

村の集落は出発するトンド場よりも高台にある。

道路に面した場にも家々があるが、ほとんどが高台である。

そこから眺めたい下笠間の虫送り。

九頭神社裏から行きかけたが、目に入ったのは村の消防車である。

赤い色で塗装された車両は3台。

うち2台が消防車である。

今か、今かと出動時間を待っている。

そこを通り抜けていった自転車乗りの男性。

先に枯れた杉の葉を詰め込んだ竹製の松明を肩から担いで走っていった。

それを追いかけるかのように出発した村の消防団には消防道具などを管理している倉庫のような建物がある。

造り構造はどの村にいっても同じような形である。

内部に火消し道具があった。

奈良県立民俗博物館の企画展に「私がとらえた大和の民俗」がある。

平成28年のテーマは“住”である。

そのテーマを受けて私が挙げたテーマは「火の用心」だ。

「火の用心」に欠かせない初期消火活動がある。

それは住んでいる地域の在り方である。

10月の展示には発表するが、火の用心のお札や消防バケツなどを紹介するつもりで情報やデータを整備しつつある。

なかでも火消し道具も紹介したいと考えていた。

地域を火災から守ることも大切だが、火の手が上がれば消防団の登場。



消防車は当然であるが、火消し道具も重要だ。

ここに居た機会は逃さず写真に納めておいた。

あんばい見ている時間もないので撮るだけにしたが、これはなんだろうか。

代表的道具の「とび口」は形で判るが桟に架けている他の道具は見たことがない。



輪っかのような形をもつ道具はどういう場合に使うのか。

それも知りたいものだ。

そろそろ出発時間が迫ってくる。

高台に向けて歩きだした。

そこへ走ってきた自動車。

運転手のお顔はわかる。

その人も私がわかったようで車を停めてご挨拶。

久しぶりにお会いした春覚寺住職のSさんだった。

これより直行していたのは虫送りの先頭役を務める僧侶。

住職がいなければ虫送りは始まらない。

ご苦労さまですと云って見送った。



街道に松明をもっていく家族連れもおられる。

小さな子供が大きな松明を持っている。

いざ、出陣である。



高台からは親父さんかお爺さんについていこうとして下っていった子供たち。

松明をもつまでにはもう少しの成長を要するようだ。

とんど場には続々と村の人たちが集まってきた。

下笠間の山々に霞がでてきた。

じっとりした湿度が高い日である。



オヒカリに松明を寄せて火を移す。

枯れた杉葉に火が点いてメラメラと燃えだした竹で編んだ松明。

それぞれがそれぞれの松明を持って出発した。

松明の煙が上昇する。

霞と煙の二重奏だ。

その場には消防団員の姿もある。

火の手が上がれば危険状態。

火が枯れ草などに移らないようにその場で監視している。



後続につく太鼓打ちも出発した。

松明の火をとらえるカメラマンたちは絶好の場所でシャッターを押す。

そして、ついていく。

虫送りをする人数はとにかく多い下笠間の人たち。



老若男女に子供たちも。

長くなった行列は松明の火が点、点・・。

それと同時に煙も上昇して周囲に広がっていく。

火点け時間は午後7時。

最後尾につく人たちが出発したのは3分後だった。

すべての人が虫送りに出発すれば火の始末。

消防団の出番に消防車。



団員は倉庫から持ってきたと思われる「とび口」を手にしていた。

毎年、こうして虫送りする村の情景を見ている婦人がいる。

玄関前にある椅子に座ってずっと見ている。

毎年が楽しみだというIさんは足腰を痛めた。

前月の5月21日に訪れたときにそう話していた。

その後も変わらずの状態であるにも関わらず、お茶でも飲んでいけというが今夜は遠慮。

不自由な身体で世話してもらうのが申しわけない。

そう思って遠慮した。

(H28. 6.19 EOS40D撮影)