知人の写真家Kさんがメールで連絡してくださったウエゾメ(植え初め)。
田植え初めに行う農家さんが願う豊作の儀式。
儀式といっても神社のような儀式ではなく、その年の田植えを始めるにあたって、田んぼの一角にあるものを立てるだけのこと。
そのあるものは、地区、地域によってさまざま。
立てるだけでなく、その場に供物も置くこともある。
それこそ農家さんによってはされる家もあればされない家も。
かつてはしていたが、今はもう、という農家さんもある。
時の流れによって農家さんのあり方は、これもまたさまざまである。
Kさんが連絡してくださった地域は奈良県・旧室生村の一村。
下笠間に住まいするF家のご厚意によって、今では行われていない、かつてのF家のウエゾメ(植え初め)のあり方を、再現記録を撮らせていただく。
伺っていた時間より少し前。
F家を紹介してくださった写真家Kさんは早くも到着されていた。
揃ったところでしましょうか、とご主人が動いた田んぼはお家の真ん前。
谷から流れる水を引いた田んぼに入った。
早速に始める作業は稲苗植えでなく、カヤ挿しである。
田植えを最初にする棚田は、天理の山田に近いところ。
そこから順に、下へ、下へと下って田植えをする。
今ではJA・広陵センターからコシヒカリ苗を購入するようになったが、かつては直播だった。
そのころの田植えはナエトリサンに来てもらっていた。
ナエトリサンは女性の仕事だった。
ナエトリサンの他に植え子さんもきてもらっていた。
田んぼが多い家はそうしていた。
また、最初に田植えするところはカシラと呼んでいた。
田植えの間に摂るケンズイ(間食)食は、おましたパン、おやつに家で作った弁当だった。
嫁の家とゆい(結)し合っていた。
断片的に語ってくださるかつての様相である。
続いて話す田植え終いのこと。
田植えのすべてを終えたら、平たん部の地域に出かけて、朝から晩までずっと田植え。
当時は人力の田植えだから何人もの人の手が要る。
行先は大和郡山に安堵町。田原本町なら薬王寺。
広範囲に亘る地域、地区だった。
田植え初めに何をするかといえば、まずその畔に供えておくフキダワラ(※蕗俵)である。
予め、というか直前に自生する蕗の葉を採取しておく。
蕗の葉は軸を付けたまま。
根を取った蕗の葉を広げて、炊いていた大豆入りのご飯をのせる。
葉を折りたたんで俵型に包む。
広がらないように稲わらで括ったフキダワラ。
俵型にするのは豊作の願い。
一俵、二俵・・・・何十、何百ものの米俵になるほどに稔ってほしいという願いの形であろう。
Fさんは、そのフキダワラの中身がどのようなものなのか、包まずに広げたままにしてくださった。
記録に残すフキダワラの中身もまた民俗。
いわば豆ごはんであるが、食の文化の一例としても記録しておく。
さて、そのフキダワラの数である。
数えてみれば12個。
一年の月数である。
旧暦の閏年であれば13個にするフキダワラである。
さて、カヤ挿しである。
付近に自生するカヤススキを採取し、根は切っておく。
手に数本のカヤススキ。
1本のカヤススキを手にとって田んぼに挿す。
少し離れた位置にまた1本。
また離れて1本。
続けて1本、1本を挿したその列に6本。
田植えをするような感じで挿していく。
一段下がって、同じように1本、1本・・・。
数えてみれば12本のカヤススキ。
一年の月数になる12本を挿したこともまた豊作を願いあり方。
旧暦の閏年の年であれば、これが13本になる。
カヤススキは、茎の部分にある油分によって水を弾き、耐久性は高い。
なんせ強いからあやかっている、という。
右手に見える農具がある。
畔下、田んぼの端っこ挿して立てた道具。
リール式でなく、昔の凧揚げの糸巻きの同じような形状に見える道具は、タウエナワ(※田植え縄、または田植え綱もあるらしいが・・)。
田植えをするにあたり、苗の列が同じ間隔に空けて植え付けられるように目印に用いた
縄を張る道具。
手植えをすることのない現在は、まず見ることのない道具である。
12本挿し終えたら畝にも6本挿した。
豊作願いに挿すカヤススキは、その茎の硬さからとんどの残り火で炊く小豆粥にも関連する。
下笠間のとんどは成人の日に行われる。
前日に組んだ大きなとんど。
設営地は笠間川の平たん部。
火付けは朝の6時。
燃え尽きるころのとんどの残り火は炭。
持ち帰っておくどさんの種火にして小豆粥を炊く。
その小豆粥を食べる箸がカヤススキの茎である。
とんどの燃えカスは灰。
その灰を田んぼに振り撒く、という。
これもまた豊作を願うあり方である。
実際にされた灰撒きを撮らせてもらった地域に山添村の
切幡がある。
灰撒き事例は明日香村の八釣にもあった。
トンド焼きの翌日に灰を「豊年、豊年」と云いながら畑に撒く。
同村の川原や小山田では灰撒きをしたら田に虫がつかない、と、飛鳥民俗調査会が昭和62年3月に発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯』に載っている。
Fさんが続けて話すとんどの話題。
とんどに焼けた竹も持ち帰る。
火の中にくべて、形を残しつつ持ち帰る。
それを味噌樽の蓋の上に置いたら味噌が美味くなると云われていた。
くべる竹は中太のアキダケ。
節を中心に伐り倒したアキダケは1月4日に割るのが習慣だった、とか・・。
田植えを終えてからナエサンを供えた。
3把から5束くらいに取った苗さん。
束になったナエサンの葉を広げたそこにおにぎり飯をのせた。
きな粉を塗して作ったおにぎり飯は五つ。
田植えは無事を終わった、とクドサン(おくどさん、つまり竈)の蓋に供えた、というさなぶり(※充てる漢字は早苗饗)のあり方である。
JAの苗を購入する前は、籾落としをして苗代つくりをしていた。
苗代作業を終えたら豊作を願うミトマツリをしていた。
正月初めに行われる下笠間の村行事。
氏神さんを祭る九頭神社で行われている
オコナイ行事であるが、神官でなく春覚寺に努めるS住職が、咒願文「願わくば融通念仏の功徳を以って祈祷し奉る・・・」を詠みあげ祈祷される。
拝見していた平成24年1月7日のオコナイ行事。
宮守さんが墨書した「牛玉 徳ケ峯 宝印」の書に3カ所。
かつてあった神宮寺を推される山号であろう。
宝印を捺して祈祷する護符にウルシの木は、苗代の水口に立てると聞いたが、今はどうされているのだろうか。
そのことを尋ねるのは、すっかり忘れていた。
また、村の田植えのすべてを終えたら、氏神さんに無事に田植え(※植え付け)を終えたと奉る植え付け報告祭を行う。
今では報告祭を充てているが、かつては植え付け籠りであった。
Fさんの孫さんが中学3年生のときに纏めた論文、『奈良県東部の伝統行事と暮らし(※下笠間)』がある。
写真家Kさんも撮影協力した執筆した章立ての文がある。
知り合いの学芸員に一読してもらった論文。
「これは大学生レベルを超えている」と絶賛する村の史料に匹敵されるくらいのデキである。
その論文に書かれた植え付け籠りが詳しい。
「午前10時、各家で作った手作り料理を携えた村の人が三々五々、氏神さんに参る。参籠所に席を移して、行事はじめを待つ。かつては孫を連れて参詣者が多かった。小さいころの私も祖父とともに参列した記憶がある。午前11時、自治会長の挨拶がある。植え付けを無事に終えたことを氏神さんに報告し、順調な成長と豊作をお祈りする。各々は、持参したご飯をそれぞれの席の前に少しずつ取り分け、お供えをする。稲作に関する話題など、豊かな交流、歓談が続く。九頭神社からの振る舞い酒もあり、最後に全員に配られるとお開きになる。このような籠りは年間5回もされている(※若干補正した)」
続いて書いてあった文が「その日の夕方には、田の虫送りという行事が行われる。村の人たちは、それぞれ2m余りの枯れた竹で松明を作って集まる・・・」。
下笠間では、毎年が夏至の日に行われている
田の虫送りである。
育苗した稲苗を田んぼに植え付け。
虫がつかんように願う
松明の火送り。
出発前に法要した祈祷札をもつ僧侶を先頭に村から虫を追い出す。
稲を食い荒らす害虫駆除の行為であるが、出発前の法要は、殺生した害虫を弔う祈祷法要である。
夏場を経て稔った秋には収穫を感謝する行事が行われる。
(H24. 1. 7 EOS40D撮影)
(H30. 5.12 EOS7D撮影)