私が生まれ、育った大阪・住之江。
エレベーターなしの5階建て市営住宅の今に咲く7、8分咲きの桜が見ごろになった。
1階建て平屋・背中合わせの二世帯が住まいする木造住宅から、コンクリート構造の中層住宅団地化に転換した昭和49年(1974)。
建築を終えて鍵の交付とともに入居。
住民たちは、昭和52年から順次、転居。
ピカピカの住居に移っていた。
かーさんと新居暮らしは、東住吉区の矢田に数年間。
住之江の大和川住宅が、木造1階建てから、5階建てのコンクリート団地に移るまでは、おふくろの親戚筋が経営していた文化住宅の2階に仮住まい。
居住地も籍も住之江。
木造1階建てに同居の形をとり、建替え委員と役を務めた。
そして、建築を終え、移転入居した昭和52年。
本来の新居としておふくろと大ばあさんとは、別棟の2階に移住した。
その後の、昭和56年8月、私と、かーさんは、大阪・住之江から転出。
新築購入とともに移住、転入した奈良・大和郡山市。
その後も、おふくろは、私の祖母である大ばあさんと一緒に、エレベータのない4階の部屋で暮らした。
そこは見晴らしがいい階層。
それから49年後のこの日。
介護状態の変容により転出。
転入地は我が家。
分離別所帯の位置づけに手続きした大和郡山市。
ホーム施設の地は、北隣の奈良市内。身柄だけをホームに移した。
前週に、家具、用具など、ほとんどを撤去した。
生前整理に見つかった、ほんの一部(切手類・暮らしの道具)は重要な史料として遺した。
空っぽになった室内を見渡してもなにもない。
ガラーンとした元居住地。
窓を閉め、鉄製の玄関も締めた鍵は、大阪市市営住宅管理センターに返却する。
この年も綺麗に咲いてくれた団地の桜も見納めに、記憶に遺しておきたい一枚を撮っていた。
遡ること。
戦後まもないころに建築した木造住宅は大阪市営住宅。
戦中に罹災した人たちが住まいした市営住宅。
罹災者は、大阪市内に落とされた大空襲に焼け出された人たち。
そのころの、具体的な話は聞かなかったが、結婚する前の父親も母親(※私からみれば祖母)ら親戚筋も罹災。
それが、私の本籍地だった。
今ではまったく面影がない旧大阪市東区瓦町。
たまに通ることがあったとしても、あの辺りかな、という具合。
そして罹災者向けの木造住宅に、私が生まれた。実弟次男も三男も同じ地の生まれ育った旧大阪市住吉区北島から、完全に離れる。
96歳のおふくろは、奈良市にある住宅型有料老人ホーム(※ハッピーガーデーデン西ノ京)に入居が決まり、もう大阪には戻ることはない、と決断し、身柄はホームに委ねる。
49年間暮らした鉄筋コンクリート構造住宅の大阪市営住宅は完全撤去も終えて、今日は最後の手続きがある。
何をどうするのか、かーさんが予め整理してくれたメモに沿って、立ち合い、連絡などもあるし、大阪では区役所での転居手続き、転居先の奈良・大和郡山市役所ヘは転入届けも。
その途中に出かける大阪・阿倍野の住宅管理センターに鍵を返却する。
盛りだくさんの、本日プログラムをこなす。
一日仕事に、お昼は決めていた。
住之江に来る用事の度に食事を摂っていた大阪ふくちぁんラーメン加賀屋店を考えていたが、時間が合わない。
仕方なく切り替えたラーメン処は、生駒山の麓にある幹線道路沿いに立地しているまこと屋大東南新田店入店。
私はチーズ入りトマト酸辣湯麺。
かーさんは、チャーシュー鶏じゃん。
その件は、ともかくかーさんがメモした関係先は、一つは大阪市の水道局。
退去は3月30日。
閉栓は不要。
立ち合いは午前9時30分の予定
その2に、大阪ガス。
実は、2年前の9月8日に、一時中止を連絡し、現在も停まっている状態。
供給停止しているので、立ち合いはない
ガス漏れトラブルの場合に鳴動するガスのピコピコは・・レンタルにつき、そのままに・・
その3の電気は、関西電力。
3月29日に電力供給停止
部屋の鍵を返却する際に、すべてのブレーカー落とす
その4に電話。
3月30日に外すアダプター(コード共に)を着払い郵パックで送る
なお、3月22日に完全なる撤去に原状回復をした際、ベランダにある屋外のシャワー給湯器のガス管が、経年劣化のために栓が回転できず。
水回りの栓も回らず閉栓不可(引っ越し事業社も対応できなかった難題)については、大阪・阿倍野の住宅管理センターに連絡しておいた。
午前8時30分に住之江・大和川団地に到着。
部屋中に入り、然るべき箇所の点検をする。
忘れ物がないことも確認し、ブレーカーを落とす。
玄関ドアを締め、呼び出しブザーがあった場所も確認。
ポスティングなど、勝手に入れられんように「転居」を記して鍵かける。
1階の郵便ポストにも、「転居」を記したガムテープを貼る。
扉は開かないように、その付近にもガムテープ貼った午前8時46分。
次の、目的施設は大イベントも収容できるすみのえ舞昆区民ホールもある住之江区役所。
信号待ちの度に思い出す懐かしい母校の大阪市立南陵中学校。
消滅してから、もう何年にもなるなぁ。中学3年生のときの学級数は17組。
おっとろしいほどの学友たちがいたが、史料によれば平成5年(1993)に閉校とあった。
なぜに「すみのえ舞昆区民ホール」なのか。
「舞昆」と、いえばテレビコマーシャルに今も出演されている“大村崑”さん。
”大村崑”さんと、いえば、92歳になられても、今もなお、タレント・俳優仕事に活躍している大物人物。
知る人ぞ知る“大村崑”さんは、昭和30年代のモノクロテレビ時代から活躍していた喜劇役者さん。
「元気ハツラツ オロナミンC」の宣伝は、どなたも記憶にある。
毎日放送だったか・・「やりくりアパート」に、一世風靡した「番頭さんと丁稚どん」もあれば「鞍馬天狗」などがある。
その“大村崑”さんが出演している大阪・住之江が本社の㈱舞崑のこうはら。
新聞紙上の宣伝も多く見る。
そのようなことで、住之江に本社がある㈱舞崑がパートナーシップ契約した関係により名称を「すみのえ舞昆区民ホール」と、した。
午前8時55分、到着した住之江区役所での手続きはおふくろの転出届け。
花壇いっぱいに咲く春の季節の喜び。
穏やかな気温になった区役所。
つい最近になってからだが、駐車場を有料化された。
大阪市内の各区役所も同様なのかな。
転出届けに住民異動届けの記入が要る。
これからの住所は、我が家。
別所帯であるが、配達される郵便物が誤送さないよう我が家にした。
老人ホームに入所した場合、ある施設は、その施設の住所に住民異動しなければならない施設もあれば、おふくろが入所した施設は、その限りではなかった。
これらについては、大阪でお世話になったケアマネージャーや新しくケアマネージャーになってくださったKさんも区役所の介護福祉課に連絡、確認。
介護保険者証認定に係ることだけにこうした対応はケアマネージャーにお願いするしかない。
並びに転入先の市役所の担当に伝え、そのことに問題はないのか、相談にのってもらい、そうすることにした。
また、後期高齢者医療保険についても異動しなければならない。
その申請は別途封筒に入れているので、転入先の市役所に届けることになる。
住之江区役所の手続きを終え、次の目的地は大阪・阿倍野。
午前10時40分に到着した阿倍野の住宅管理センター。
なんと、すんなり来れたワケでもない。
と、いうのも、管理センターがあるビルそのものがわからない。わからないから、駐車場もどこになるのか、さっぱりわからぬ。
まるで迷路に入ったかのように思えたラビリンス(※迷宮・迷路)な都会。
大都会の大阪市内の施設に行くのは、とても難しい。
周辺道路を何度も走って繰り返すラビリンス。
可能性として考えられるビルは、アレかも。
地下に入る駐車場。
ゲート付近に見つけた名称が目に入った。
正解である。
ビジネスオフィスビルのビルはあべのメディックスビル。
北側か南側か、さて、どっち。
やっと見つかった大阪市住宅供給公社・阿倍野住宅管理センター。
エレベーターにのって上階の5階へ。
待ち時間に数組の家族さんが相談に来ているようだ。
担当の方に、居住地だった部屋の鍵を返却した。
やっと返した49年間も使用していた鍵である。
時間は、午前11時ジャスト。
お昼を摂った午後の手続きは、わが町、奈良の大和郡山市。
もう少し、ガンバロー。
東大阪から北東。
大東市の南新田にあるまこと屋でラーメンを食べ終えた時間は午後1時を過ぎていた。
ここからは、奈良に向けてであるが、生駒山をこえなければ、到着しない。
急ぐ理由もないから地道。
峠越えの阪奈道路を利用して奈良・大和郡山市の市役所に到着した時間は、午後1時50分。
山越えに時間がかかる行程に迎えた花園。
そう、ここ大和郡山市役所もまた、春の季節を彩るパンジー・ビオラの群生といいたいところだが、市のシルバー人材センターの人たちが植えたパンジー・ビオラ。
ここ大和郡山市の市役所は、新庁舎への建替え工事中。
今年の5月2日にオープン予定に向けて、あともう少し。
手前が旧庁舎で、右が新庁舎になる。
私どもが、おふくろの転入届けをするのが、旧庁舎の最後になりそうだ。
なお、新庁舎に業務を移してから、旧庁舎は解体され、その後の令和5年の7月18日に、新庁舎併設の交流館(みりお~の)がオープンする予定だ。
転入届けを受理してくれた大和郡山市は、転入者向けの市民だよりの一環として『大和郡山市 暮らしのみちしるべ』が贈られる。
“みちしるべ”は、今日のような手続き・届け出の他、健康に関する手引きや福祉、子育て、保険と年金、税金、教育と文化、暮らし、市制の窓口、人権と相談、暮らしの情報などが満載。
なお、『大和郡山市 暮らしのみちしるべ』は、官民協同事業による㈱サイネックスとの共同発行に電子書籍版もある。
さらに、受け取った『大和郡山市 総合防災マップ』や放送受信契約の案内に、なんと大和郡山市上下水道部からは「非常用 飲料水」を溜める一時的保存道具まで提供された。
使い方は、蛇口から水を入れて、チューブを畳めば、水を漏れないように背負って運ぶことができる「非常用 飲料水(※長期間保存不可)」。
さすがだね。
大和郡山の水道水の半分が地下水。
水に自信あのある大和郡山市。
我が家も転入した際に、伝えられた美味しい水。
手続きのすべてを終えて、やっと帰宅できる。
市役所からの帰り道のほとんどが、郡山城跡を見ながら・・・
途中に見える北側の参道に柳澤神社の鳥居がある。
そこをくぐれば城内史跡が間近に見える。
後方の南側は、県立郡山高等学校。
城内に高校があるんだけど、福島県にも県立郡山湖東学校があるから、お間違えのないように・・
城内を通り抜ける東西通り。
距離はすぐそこ。
正面三叉路が西の公園。
現在、公園化整備に工事中。
学びの時間後は、スポーツクラブの高校生は、絶えず走っている周回ランニング。
現在状況の桜を撮っていたが、いずれすべての工事を終えたら、今の景観と、どういう具合に替わっているだろうか。
近々、この付近にサイクル駐輪場もできるようだ、と聞いている。
(R4. 3.23、30 SB805SH 撮影)
エレベーターなしの5階建て市営住宅の今に咲く7、8分咲きの桜が見ごろになった。
1階建て平屋・背中合わせの二世帯が住まいする木造住宅から、コンクリート構造の中層住宅団地化に転換した昭和49年(1974)。
建築を終えて鍵の交付とともに入居。
住民たちは、昭和52年から順次、転居。
ピカピカの住居に移っていた。
かーさんと新居暮らしは、東住吉区の矢田に数年間。
住之江の大和川住宅が、木造1階建てから、5階建てのコンクリート団地に移るまでは、おふくろの親戚筋が経営していた文化住宅の2階に仮住まい。
居住地も籍も住之江。
木造1階建てに同居の形をとり、建替え委員と役を務めた。
そして、建築を終え、移転入居した昭和52年。
本来の新居としておふくろと大ばあさんとは、別棟の2階に移住した。
その後の、昭和56年8月、私と、かーさんは、大阪・住之江から転出。
新築購入とともに移住、転入した奈良・大和郡山市。
その後も、おふくろは、私の祖母である大ばあさんと一緒に、エレベータのない4階の部屋で暮らした。
そこは見晴らしがいい階層。
それから49年後のこの日。
介護状態の変容により転出。
転入地は我が家。
分離別所帯の位置づけに手続きした大和郡山市。
ホーム施設の地は、北隣の奈良市内。身柄だけをホームに移した。
前週に、家具、用具など、ほとんどを撤去した。
生前整理に見つかった、ほんの一部(切手類・暮らしの道具)は重要な史料として遺した。
空っぽになった室内を見渡してもなにもない。
ガラーンとした元居住地。
窓を閉め、鉄製の玄関も締めた鍵は、大阪市市営住宅管理センターに返却する。
この年も綺麗に咲いてくれた団地の桜も見納めに、記憶に遺しておきたい一枚を撮っていた。
遡ること。
戦後まもないころに建築した木造住宅は大阪市営住宅。
戦中に罹災した人たちが住まいした市営住宅。
罹災者は、大阪市内に落とされた大空襲に焼け出された人たち。
そのころの、具体的な話は聞かなかったが、結婚する前の父親も母親(※私からみれば祖母)ら親戚筋も罹災。
それが、私の本籍地だった。
今ではまったく面影がない旧大阪市東区瓦町。
たまに通ることがあったとしても、あの辺りかな、という具合。
そして罹災者向けの木造住宅に、私が生まれた。実弟次男も三男も同じ地の生まれ育った旧大阪市住吉区北島から、完全に離れる。
96歳のおふくろは、奈良市にある住宅型有料老人ホーム(※ハッピーガーデーデン西ノ京)に入居が決まり、もう大阪には戻ることはない、と決断し、身柄はホームに委ねる。
49年間暮らした鉄筋コンクリート構造住宅の大阪市営住宅は完全撤去も終えて、今日は最後の手続きがある。
何をどうするのか、かーさんが予め整理してくれたメモに沿って、立ち合い、連絡などもあるし、大阪では区役所での転居手続き、転居先の奈良・大和郡山市役所ヘは転入届けも。
その途中に出かける大阪・阿倍野の住宅管理センターに鍵を返却する。
盛りだくさんの、本日プログラムをこなす。
一日仕事に、お昼は決めていた。
住之江に来る用事の度に食事を摂っていた大阪ふくちぁんラーメン加賀屋店を考えていたが、時間が合わない。
仕方なく切り替えたラーメン処は、生駒山の麓にある幹線道路沿いに立地しているまこと屋大東南新田店入店。
私はチーズ入りトマト酸辣湯麺。
かーさんは、チャーシュー鶏じゃん。
その件は、ともかくかーさんがメモした関係先は、一つは大阪市の水道局。
退去は3月30日。
閉栓は不要。
立ち合いは午前9時30分の予定
その2に、大阪ガス。
実は、2年前の9月8日に、一時中止を連絡し、現在も停まっている状態。
供給停止しているので、立ち合いはない
ガス漏れトラブルの場合に鳴動するガスのピコピコは・・レンタルにつき、そのままに・・
その3の電気は、関西電力。
3月29日に電力供給停止
部屋の鍵を返却する際に、すべてのブレーカー落とす
その4に電話。
3月30日に外すアダプター(コード共に)を着払い郵パックで送る
なお、3月22日に完全なる撤去に原状回復をした際、ベランダにある屋外のシャワー給湯器のガス管が、経年劣化のために栓が回転できず。
水回りの栓も回らず閉栓不可(引っ越し事業社も対応できなかった難題)については、大阪・阿倍野の住宅管理センターに連絡しておいた。
午前8時30分に住之江・大和川団地に到着。
部屋中に入り、然るべき箇所の点検をする。
忘れ物がないことも確認し、ブレーカーを落とす。
玄関ドアを締め、呼び出しブザーがあった場所も確認。
ポスティングなど、勝手に入れられんように「転居」を記して鍵かける。
1階の郵便ポストにも、「転居」を記したガムテープを貼る。
扉は開かないように、その付近にもガムテープ貼った午前8時46分。
次の、目的施設は大イベントも収容できるすみのえ舞昆区民ホールもある住之江区役所。
信号待ちの度に思い出す懐かしい母校の大阪市立南陵中学校。
消滅してから、もう何年にもなるなぁ。中学3年生のときの学級数は17組。
おっとろしいほどの学友たちがいたが、史料によれば平成5年(1993)に閉校とあった。
なぜに「すみのえ舞昆区民ホール」なのか。
「舞昆」と、いえばテレビコマーシャルに今も出演されている“大村崑”さん。
”大村崑”さんと、いえば、92歳になられても、今もなお、タレント・俳優仕事に活躍している大物人物。
知る人ぞ知る“大村崑”さんは、昭和30年代のモノクロテレビ時代から活躍していた喜劇役者さん。
「元気ハツラツ オロナミンC」の宣伝は、どなたも記憶にある。
毎日放送だったか・・「やりくりアパート」に、一世風靡した「番頭さんと丁稚どん」もあれば「鞍馬天狗」などがある。
その“大村崑”さんが出演している大阪・住之江が本社の㈱舞崑のこうはら。
新聞紙上の宣伝も多く見る。
そのようなことで、住之江に本社がある㈱舞崑がパートナーシップ契約した関係により名称を「すみのえ舞昆区民ホール」と、した。
午前8時55分、到着した住之江区役所での手続きはおふくろの転出届け。
花壇いっぱいに咲く春の季節の喜び。
穏やかな気温になった区役所。
つい最近になってからだが、駐車場を有料化された。
大阪市内の各区役所も同様なのかな。
転出届けに住民異動届けの記入が要る。
これからの住所は、我が家。
別所帯であるが、配達される郵便物が誤送さないよう我が家にした。
老人ホームに入所した場合、ある施設は、その施設の住所に住民異動しなければならない施設もあれば、おふくろが入所した施設は、その限りではなかった。
これらについては、大阪でお世話になったケアマネージャーや新しくケアマネージャーになってくださったKさんも区役所の介護福祉課に連絡、確認。
介護保険者証認定に係ることだけにこうした対応はケアマネージャーにお願いするしかない。
並びに転入先の市役所の担当に伝え、そのことに問題はないのか、相談にのってもらい、そうすることにした。
また、後期高齢者医療保険についても異動しなければならない。
その申請は別途封筒に入れているので、転入先の市役所に届けることになる。
住之江区役所の手続きを終え、次の目的地は大阪・阿倍野。
午前10時40分に到着した阿倍野の住宅管理センター。
なんと、すんなり来れたワケでもない。
と、いうのも、管理センターがあるビルそのものがわからない。わからないから、駐車場もどこになるのか、さっぱりわからぬ。
まるで迷路に入ったかのように思えたラビリンス(※迷宮・迷路)な都会。
大都会の大阪市内の施設に行くのは、とても難しい。
周辺道路を何度も走って繰り返すラビリンス。
可能性として考えられるビルは、アレかも。
地下に入る駐車場。
ゲート付近に見つけた名称が目に入った。
正解である。
ビジネスオフィスビルのビルはあべのメディックスビル。
北側か南側か、さて、どっち。
やっと見つかった大阪市住宅供給公社・阿倍野住宅管理センター。
エレベーターにのって上階の5階へ。
待ち時間に数組の家族さんが相談に来ているようだ。
担当の方に、居住地だった部屋の鍵を返却した。
やっと返した49年間も使用していた鍵である。
時間は、午前11時ジャスト。
お昼を摂った午後の手続きは、わが町、奈良の大和郡山市。
もう少し、ガンバロー。
東大阪から北東。
大東市の南新田にあるまこと屋でラーメンを食べ終えた時間は午後1時を過ぎていた。
ここからは、奈良に向けてであるが、生駒山をこえなければ、到着しない。
急ぐ理由もないから地道。
峠越えの阪奈道路を利用して奈良・大和郡山市の市役所に到着した時間は、午後1時50分。
山越えに時間がかかる行程に迎えた花園。
そう、ここ大和郡山市役所もまた、春の季節を彩るパンジー・ビオラの群生といいたいところだが、市のシルバー人材センターの人たちが植えたパンジー・ビオラ。
ここ大和郡山市の市役所は、新庁舎への建替え工事中。
今年の5月2日にオープン予定に向けて、あともう少し。
手前が旧庁舎で、右が新庁舎になる。
私どもが、おふくろの転入届けをするのが、旧庁舎の最後になりそうだ。
なお、新庁舎に業務を移してから、旧庁舎は解体され、その後の令和5年の7月18日に、新庁舎併設の交流館(みりお~の)がオープンする予定だ。
転入届けを受理してくれた大和郡山市は、転入者向けの市民だよりの一環として『大和郡山市 暮らしのみちしるべ』が贈られる。
“みちしるべ”は、今日のような手続き・届け出の他、健康に関する手引きや福祉、子育て、保険と年金、税金、教育と文化、暮らし、市制の窓口、人権と相談、暮らしの情報などが満載。
なお、『大和郡山市 暮らしのみちしるべ』は、官民協同事業による㈱サイネックスとの共同発行に電子書籍版もある。
さらに、受け取った『大和郡山市 総合防災マップ』や放送受信契約の案内に、なんと大和郡山市上下水道部からは「非常用 飲料水」を溜める一時的保存道具まで提供された。
使い方は、蛇口から水を入れて、チューブを畳めば、水を漏れないように背負って運ぶことができる「非常用 飲料水(※長期間保存不可)」。
さすがだね。
大和郡山の水道水の半分が地下水。
水に自信あのある大和郡山市。
我が家も転入した際に、伝えられた美味しい水。
手続きのすべてを終えて、やっと帰宅できる。
市役所からの帰り道のほとんどが、郡山城跡を見ながら・・・
途中に見える北側の参道に柳澤神社の鳥居がある。
そこをくぐれば城内史跡が間近に見える。
後方の南側は、県立郡山高等学校。
城内に高校があるんだけど、福島県にも県立郡山湖東学校があるから、お間違えのないように・・
城内を通り抜ける東西通り。
距離はすぐそこ。
正面三叉路が西の公園。
現在、公園化整備に工事中。
学びの時間後は、スポーツクラブの高校生は、絶えず走っている周回ランニング。
現在状況の桜を撮っていたが、いずれすべての工事を終えたら、今の景観と、どういう具合に替わっているだろうか。
近々、この付近にサイクル駐輪場もできるようだ、と聞いている。
(R4. 3.23、30 SB805SH 撮影)