園長です。
昨日に引き続き「お弁当」の話です。私が一番初めに弁当を持っていったのは小学校1年生の時でした。我が家には、父親のお姉さんがいました。生涯を独身で通したお茶(裏千家)の先生でもありました。私は小さいときは、母親よりもこの「おばちゃん」と呼んでいた父親のお姉さんに育てられたようでした。この「おばちゃん」は、東京の女学校を出ていて、インテリであり、食通でもありました。母親が仕事で朝早く、夜遅い生活だったので、私は必然的におばちゃんから御飯を作ってもらうことが多かったのです。初めての「お弁当」もこのおばちゃんから作ってもらいました。しかし、このはじめてのお弁当は悲しい思い出になりました。おばちゃんが作ってくれた弁当は、今でいう「三色弁当」の一つで、卵焼き、魚肉ソーセージ、デンブでちりばめた色鮮やかなおいしそうな弁当でした。はじめての弁当にウキウキしていた私は弁当を包んでいたハンカチを振りまわした途端、スルット手からすり抜け、校門の前で地面に弁当をひろげてしまったのです。恥ずかしい気持ちと悔しい気持ちで、そのまま家へ戻ってしまいました。家には、おばちゃんがいて、もう一度作ってあげるからと、今度は卵焼きとデンブと紅ショウガで三色弁当を作ってくれました。今では考えられないような弁当ですが、当時としては斬新な弁当だったのです。第一「デンブ」って何?という人も多いのではないでしょうか。今、魚肉ソーセージを食べる人はいるのでしょうか。私たちの頃は、「ほにほ」「まるは」と言ってソーセージの代表選手でした。このおばちゃんには本当に世話になりました。初めて「水炊き」を食べたのも、握りずしを食べたのも、おばちゃんの手作りだったのです。あのときの落した弁当は、今でも思い出すと悲しい思いがします。塩入りの黄色い卵焼き、ピンクのデンブ・魚肉ソーセージ、そして赤い紅ショウガ・・その後、母親に頼んで作ってもらった「三色弁当」ですが、やはり最初の弁当は一番おいしく、悲しいスパイスも付いて、思い出に残っています。遠足に子どもたちがお母さんから作ってもらったお弁当も子供たちにはいつまでも心に残るお弁当だと思います。弁当にはいろんな思い出があります。次は高校時代の悲しい弁当の話を書きたいと思います。
昨日に引き続き「お弁当」の話です。私が一番初めに弁当を持っていったのは小学校1年生の時でした。我が家には、父親のお姉さんがいました。生涯を独身で通したお茶(裏千家)の先生でもありました。私は小さいときは、母親よりもこの「おばちゃん」と呼んでいた父親のお姉さんに育てられたようでした。この「おばちゃん」は、東京の女学校を出ていて、インテリであり、食通でもありました。母親が仕事で朝早く、夜遅い生活だったので、私は必然的におばちゃんから御飯を作ってもらうことが多かったのです。初めての「お弁当」もこのおばちゃんから作ってもらいました。しかし、このはじめてのお弁当は悲しい思い出になりました。おばちゃんが作ってくれた弁当は、今でいう「三色弁当」の一つで、卵焼き、魚肉ソーセージ、デンブでちりばめた色鮮やかなおいしそうな弁当でした。はじめての弁当にウキウキしていた私は弁当を包んでいたハンカチを振りまわした途端、スルット手からすり抜け、校門の前で地面に弁当をひろげてしまったのです。恥ずかしい気持ちと悔しい気持ちで、そのまま家へ戻ってしまいました。家には、おばちゃんがいて、もう一度作ってあげるからと、今度は卵焼きとデンブと紅ショウガで三色弁当を作ってくれました。今では考えられないような弁当ですが、当時としては斬新な弁当だったのです。第一「デンブ」って何?という人も多いのではないでしょうか。今、魚肉ソーセージを食べる人はいるのでしょうか。私たちの頃は、「ほにほ」「まるは」と言ってソーセージの代表選手でした。このおばちゃんには本当に世話になりました。初めて「水炊き」を食べたのも、握りずしを食べたのも、おばちゃんの手作りだったのです。あのときの落した弁当は、今でも思い出すと悲しい思いがします。塩入りの黄色い卵焼き、ピンクのデンブ・魚肉ソーセージ、そして赤い紅ショウガ・・その後、母親に頼んで作ってもらった「三色弁当」ですが、やはり最初の弁当は一番おいしく、悲しいスパイスも付いて、思い出に残っています。遠足に子どもたちがお母さんから作ってもらったお弁当も子供たちにはいつまでも心に残るお弁当だと思います。弁当にはいろんな思い出があります。次は高校時代の悲しい弁当の話を書きたいと思います。