わたしの好きな作品に「武蔵野」がある。いわずと知れた国木田独歩の小説である。いや、小説というより、エッセイ、あるいは昔風に随想といったほうがぴったりくるか。二葉亭四迷が訳したツルゲーネフの「あひびき」「めぐりあひ」に触発されて書いた散策記である。「風車小屋だより」にも書いたが、こういった小品集のごとき、短時間でさっと読めるものが好きなので、数年に一回読み返している。
徳富蘆花(1868~1927)はわがふるさと上州とはゆかりが深いので、いつか手にとってみたいと考えていた一冊。温泉地伊香保には「徳富蘆花記念文学館」がある。
彼は伊香保を好み、ここを「生の策源地」と称してたびたび訪れ、伊香保の旅館・千秋仁泉亭(ちぎらじんせんてい)の別荘で亡くなった。その死の床で、袂を分かち、疎遠となっていた実兄徳富蘇峰と劇的な和解をはたしたエピソードは有名。また晩年のトルストイ主義に感化され、白樺派の運動がはじまる以前に、トルストイに会うためロシア、ヤースナヤ・ポリャーナまで出かけている。
さて「自然と人生」であるが、内容はかなり雑多で、統一のとれた随想集というわけではない。
「灰燼」×1
「自然の五分時」×29
「写生帖」×11
「湘南雑筆」×47
「「風景画家 コロオ」×1
長短あわせて89編であるが、冒頭の一編は、他の随想とは関連性のない古風な短編小説、最後の一編は、著者による「コロー論」。
さて本書については著者みずから書いた広告文(いまでいえば、CMコピーか)が残されている。
<自然を主とし、人間を客とし、旧稿の粋を抜き新作の秀をあつめたる小品の記文、短編の小説、無韻の詩とも言ふべく、水彩の画とも云ふ可きもの、無慮百篇を一巻に収む。消夏の読料には尤も妙ならん。>(字句一部修正)
「こう読んでほしい」といっているのである。一本にまとめるにあたって、いろいろなエレメントをつめ込んであるが、人間や自然に対する独自の思想性はなく、「徒然草」に見られるような批評精神もさしてうかがわれない。いま読んでおもしろいのは、自然のスケッチを中心とする叙景的なエッセイであろう。エッセイというより、これまた昔風に「随想」といったほうがぴったりする。解説の荒正人も書いているが、欧文脈あり、和文脈あり、漢文脈ありで、文体は統一がとれていない。しかも全体としては明治の文語文。鴎外、独歩もそうだが、この蘆花も文語から近代的な口語文への過渡期を生きた文人なのである。蘆花の小説の代表作は「不如帰」であるが、これも過渡期の文語文で書かれ、慣れないと読みにくく、知名度が高いわりには「読まれていない小説」の典型というべきであろう。
本書には「枕草子」「徒然草」などの影響を随所に見出すことができる。ただ違うのは、そういった古典の大半が京(京都)とその周辺の自然を叙したものであるのに比べ、蘆花が描いているのは江戸から明治へと移りゆく「関東」である点であろう。また漢文の素養が高く、ツルゲーネフ流の自然散策の記も知っていた。そういった背景から生み出されているため、一種独特な味わいが醸されてくる。
しばしば美文調となるが、内容空疎というわけではない。描写は非常に視覚的で、語彙が豊富。色彩表現は特にすぐれ、明治の人工着色的絵はがきなどを思わせる。現代のワープロではとても追従しきれない、きらびやかな漢語の群れ! 実態のとぼしい形容詞の羅列ではなく、蘆花自身が海岸や山野の散策で出会った時空の豊かさが想像できる。
「栗」風」「春雨後の上州」「山百合」「蘆花」「香山三日の雲」など、どれも洗練された叙景詩の世界である。いまではネイチャーフォトの独壇場となった観のある叙景を、彼はペンによっておこなった。蘆花は本書でさまざまな色彩表現を発明したが、それは旧来の語彙だけでは自分の見たものを正確に表現できないと考えた証拠である。いままさに刻々と変化していく、光の饗宴という時空に身を浸すおのれの感覚に、ことばがどこまで追いついてくれるか。結果として読者は、彼が経験したものととこばとの格闘の報告書を読むこととなる。
われわれは、われわれが望んだ都市化という名の開発によって、こういった時空の豊かさを破壊していった。「自然破壊」だけをいっているのではない。荒廃はいうまでもなく、日本人の心にまでい及んでいる。「そんなことはない。われわれは十分豊かになった。それでいいではないか」といえる人はしあわせである。
チョウや昆虫の撮影のため、被写体をもとめて、わたしはここ数年わたしのフィールドである上州を走りまわってきた。関東では、よほどの山奥にでも分け入らないかぎり、「自然と人生」で描かれたような風景には出会うことができない。回復不能とまでいえるかどうかわからないが、荒廃ぶりは眼をおおわしめるものがある。小動物や昆虫は生息域を破壊され、多くが絶滅に瀕している。それに「地球温暖化」が追い打ちをかける。
本書を読むと、われわれが失いつづけてきたものが、どういった豊かさ、美しさの世界であったかがよく理解できる。富や快適性や利便性を追求するあまり、われわれはどこまで傲慢になったら気が済むのか。いままでにない「異変」がわたしの眼のまえで起こっている。それも声にならない地球の悲鳴であろう。彼が残した仕事の全貌はわからないが、ナチュラリストの先駆者としてリバイバルをはたす日がくるかもしれない。
徳富蘆花「自然と人生」岩波文庫>☆☆☆★
徳富蘆花(1868~1927)はわがふるさと上州とはゆかりが深いので、いつか手にとってみたいと考えていた一冊。温泉地伊香保には「徳富蘆花記念文学館」がある。
彼は伊香保を好み、ここを「生の策源地」と称してたびたび訪れ、伊香保の旅館・千秋仁泉亭(ちぎらじんせんてい)の別荘で亡くなった。その死の床で、袂を分かち、疎遠となっていた実兄徳富蘇峰と劇的な和解をはたしたエピソードは有名。また晩年のトルストイ主義に感化され、白樺派の運動がはじまる以前に、トルストイに会うためロシア、ヤースナヤ・ポリャーナまで出かけている。
さて「自然と人生」であるが、内容はかなり雑多で、統一のとれた随想集というわけではない。
「灰燼」×1
「自然の五分時」×29
「写生帖」×11
「湘南雑筆」×47
「「風景画家 コロオ」×1
長短あわせて89編であるが、冒頭の一編は、他の随想とは関連性のない古風な短編小説、最後の一編は、著者による「コロー論」。
さて本書については著者みずから書いた広告文(いまでいえば、CMコピーか)が残されている。
<自然を主とし、人間を客とし、旧稿の粋を抜き新作の秀をあつめたる小品の記文、短編の小説、無韻の詩とも言ふべく、水彩の画とも云ふ可きもの、無慮百篇を一巻に収む。消夏の読料には尤も妙ならん。>(字句一部修正)
「こう読んでほしい」といっているのである。一本にまとめるにあたって、いろいろなエレメントをつめ込んであるが、人間や自然に対する独自の思想性はなく、「徒然草」に見られるような批評精神もさしてうかがわれない。いま読んでおもしろいのは、自然のスケッチを中心とする叙景的なエッセイであろう。エッセイというより、これまた昔風に「随想」といったほうがぴったりする。解説の荒正人も書いているが、欧文脈あり、和文脈あり、漢文脈ありで、文体は統一がとれていない。しかも全体としては明治の文語文。鴎外、独歩もそうだが、この蘆花も文語から近代的な口語文への過渡期を生きた文人なのである。蘆花の小説の代表作は「不如帰」であるが、これも過渡期の文語文で書かれ、慣れないと読みにくく、知名度が高いわりには「読まれていない小説」の典型というべきであろう。
本書には「枕草子」「徒然草」などの影響を随所に見出すことができる。ただ違うのは、そういった古典の大半が京(京都)とその周辺の自然を叙したものであるのに比べ、蘆花が描いているのは江戸から明治へと移りゆく「関東」である点であろう。また漢文の素養が高く、ツルゲーネフ流の自然散策の記も知っていた。そういった背景から生み出されているため、一種独特な味わいが醸されてくる。
しばしば美文調となるが、内容空疎というわけではない。描写は非常に視覚的で、語彙が豊富。色彩表現は特にすぐれ、明治の人工着色的絵はがきなどを思わせる。現代のワープロではとても追従しきれない、きらびやかな漢語の群れ! 実態のとぼしい形容詞の羅列ではなく、蘆花自身が海岸や山野の散策で出会った時空の豊かさが想像できる。
「栗」風」「春雨後の上州」「山百合」「蘆花」「香山三日の雲」など、どれも洗練された叙景詩の世界である。いまではネイチャーフォトの独壇場となった観のある叙景を、彼はペンによっておこなった。蘆花は本書でさまざまな色彩表現を発明したが、それは旧来の語彙だけでは自分の見たものを正確に表現できないと考えた証拠である。いままさに刻々と変化していく、光の饗宴という時空に身を浸すおのれの感覚に、ことばがどこまで追いついてくれるか。結果として読者は、彼が経験したものととこばとの格闘の報告書を読むこととなる。
われわれは、われわれが望んだ都市化という名の開発によって、こういった時空の豊かさを破壊していった。「自然破壊」だけをいっているのではない。荒廃はいうまでもなく、日本人の心にまでい及んでいる。「そんなことはない。われわれは十分豊かになった。それでいいではないか」といえる人はしあわせである。
チョウや昆虫の撮影のため、被写体をもとめて、わたしはここ数年わたしのフィールドである上州を走りまわってきた。関東では、よほどの山奥にでも分け入らないかぎり、「自然と人生」で描かれたような風景には出会うことができない。回復不能とまでいえるかどうかわからないが、荒廃ぶりは眼をおおわしめるものがある。小動物や昆虫は生息域を破壊され、多くが絶滅に瀕している。それに「地球温暖化」が追い打ちをかける。
本書を読むと、われわれが失いつづけてきたものが、どういった豊かさ、美しさの世界であったかがよく理解できる。富や快適性や利便性を追求するあまり、われわれはどこまで傲慢になったら気が済むのか。いままでにない「異変」がわたしの眼のまえで起こっている。それも声にならない地球の悲鳴であろう。彼が残した仕事の全貌はわからないが、ナチュラリストの先駆者としてリバイバルをはたす日がくるかもしれない。
徳富蘆花「自然と人生」岩波文庫>☆☆☆★
芦花公園の近くに住んでいるので、よく散歩に行きます。独歩の「武蔵野」の中には「音」に対する表現が多いと思いますが、蘆花の「自然と人生」には「色」の表現が多いですよね。「ブルシアンブルー」っていう単語は「自然と人生で」覚えました。
一番好きなのは「相模灘の落日」かな。
「日の落ちかかりてより、そのまったく沈み終わるまで3分時を要す」(記憶で書いているので字などは違っていると思います・・・)と書いて、その後の3分を表現したところなど、ほんとに素晴らしいと思います。
芦花公園の周りには蘆花がいた頃のままで残っているところがけっこうあります。蘆花と愛子夫人が暮らした母屋も残っています。
「蘆花」文字を見て、ついうれしくなってコメントしてしまいました。
ブログ初心者なので、いろいろなことがあまりよく分からないので、邪魔なようでしたら削除してください。では、また見に来ます。