わたしは地図が好きなので、ときおりたいして意味もなく、
ぼんやりと、世界地図やら日本地図を眺めて過ごす。
社会科は中学、高校を通じて、歴史、地理とも、90点以下はとったことがないのが自慢(^-^)
・・・とはいえ、あまり更新がされていないから、わたしの頭のなかのデータは古くなってしまっている。
利根の流域には、若いころから関心があり、大河のはじめと終わりを見るために、上州の最奥地、尾瀬沼や奈良俣ダムと、河口・銚子へ出かけたことがあった。
川は生き物である。
とくに大きな川は、それぞれ、独特な表情をもっている。
妻の郷里があるため、何度となく通った由良川の河口付近の情景。
島崎藤村に出会ったころから、ずっと意識し、あこがれつづけてきた千曲川。
はじめて眼にした石狩川も感動的だった。
その感動がどこからくるのか理解できないまま、そのほとりに立って、しばし茫然としていた。
このあいだ、佐波郡境町(現伊勢崎市)で写した一枚の木を見ていたら、
ふっと、それが一本の大河に似ていることに気がついた。
これである。
ああー、そうなのか。
川は河口からさかのぼるにつれ、より小さな川に枝分かれしていく。
その川がまた、際限なく分岐し、その周辺の土地をうるおしたり、押し流したりしている。
どんどん小さくなって、最後は一滴の水となる。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/morudau.html
スメタナの交響詩「モルダウ」を聴いていると、永遠とか郷愁とかがどんなものか、そのイメージを心に想いえがくことができる。
しかし、わたしが生まれ、長く暮らし、いずれ骨をうめることになるこの場所は、
スメタナのボヘミヤではなく、まぎれもなく「利根の流域」なのである。
あるとき、木を見ている。
「ああ、この幹をつたってのぼってきた水が、いくつかの枝に分かれ、さらに分かれて空をめざしている」
水の、カ・タ・チ。
それが木の姿でわたしやあなたを見つめている。
「ほらほら。幹に耳をつけて、じっと心をすましてごらん。水が空をめざしてのぼっていく脈動が、幽かに聞こえる・・・」
川は海をめざす。
その一方で、また空をめざす流れがある。
もやっている空。雲。霧。春霞。それらは、空へ帰っていった水の、もう一つの姿。
空に帰って、大気にいだかれ、幸せそうな雲が、今日も流れていく。
ぼんやりと、世界地図やら日本地図を眺めて過ごす。
社会科は中学、高校を通じて、歴史、地理とも、90点以下はとったことがないのが自慢(^-^)
・・・とはいえ、あまり更新がされていないから、わたしの頭のなかのデータは古くなってしまっている。
利根の流域には、若いころから関心があり、大河のはじめと終わりを見るために、上州の最奥地、尾瀬沼や奈良俣ダムと、河口・銚子へ出かけたことがあった。
川は生き物である。
とくに大きな川は、それぞれ、独特な表情をもっている。
妻の郷里があるため、何度となく通った由良川の河口付近の情景。
島崎藤村に出会ったころから、ずっと意識し、あこがれつづけてきた千曲川。
はじめて眼にした石狩川も感動的だった。
その感動がどこからくるのか理解できないまま、そのほとりに立って、しばし茫然としていた。
このあいだ、佐波郡境町(現伊勢崎市)で写した一枚の木を見ていたら、
ふっと、それが一本の大河に似ていることに気がついた。
これである。
ああー、そうなのか。
川は河口からさかのぼるにつれ、より小さな川に枝分かれしていく。
その川がまた、際限なく分岐し、その周辺の土地をうるおしたり、押し流したりしている。
どんどん小さくなって、最後は一滴の水となる。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/morudau.html
スメタナの交響詩「モルダウ」を聴いていると、永遠とか郷愁とかがどんなものか、そのイメージを心に想いえがくことができる。
しかし、わたしが生まれ、長く暮らし、いずれ骨をうめることになるこの場所は、
スメタナのボヘミヤではなく、まぎれもなく「利根の流域」なのである。
あるとき、木を見ている。
「ああ、この幹をつたってのぼってきた水が、いくつかの枝に分かれ、さらに分かれて空をめざしている」
水の、カ・タ・チ。
それが木の姿でわたしやあなたを見つめている。
「ほらほら。幹に耳をつけて、じっと心をすましてごらん。水が空をめざしてのぼっていく脈動が、幽かに聞こえる・・・」
川は海をめざす。
その一方で、また空をめざす流れがある。
もやっている空。雲。霧。春霞。それらは、空へ帰っていった水の、もう一つの姿。
空に帰って、大気にいだかれ、幸せそうな雲が、今日も流れていく。