■「“女らしさ”の文化史―性・モード・風俗 」(中公文庫 2006年 原本は1999年「<女らしさ>はどう作られたのか」法蔵館刊)
ちぎっては投げ、投げてはちぎり(´Д`)
このところ本のつまみ食いがつづいていた。
はやく抜け出したいのだけれど、気が散って・・・気が散って仕方ない。
この1か月ほどで、新刊書・古書を合計し、40冊前後の本が手許にやってきた。
そしてようやくめぐり遭った、小倉孝誠さんの一作。
《女らしさはどのように作られたのか? 社会と文化に作られた幻想は何故、無意識に受け入れられたのか? 近代に誕生したモード・美容・小説・絵画の表現や、医学書・作法書の記述から美意識・官能など感覚の変化を辿り、歴史空間のなかで見つめられ規制されてきた「女の身体」の表象を解読、眼差しの構造を浮き彫りにする。図版多数収録。》BOOKデータベースより
小倉孝誠(おぐら・こうせい)さんは現在、慶応大学の教授のようである。
今年の春に、何か一冊買ったなあと思い出して調べたら下記の本であった。
■「写真家ナダール - 空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才」中央公論新社(2016年刊)
いずれ、いずれと思いつつ、まだ手がつけられないでいるが(ノω`*)
鹿島茂さんによって、19世紀フランス文学の蒙を啓かれ、「読みたい本」30作あまりをリストアップし、ストックしてある。
小倉さんのお名前も、バルザックやゾラを読みながら、しばしばお目にかかった。
現在のわが国において、鹿島茂さんはBIG NAME。 女性では山田登世子さんも読んでみたいと思って、2-3冊は手許にある。
わたしの偏見によれば、小説というジャンルにあっては、20世紀アメリカ文学とならび、19世紀フランス文学が一番人気なのではなかろうか!?
バルザックやゾラの名は不動のものだし、それにフローベール、モーパッサンなどを付け加えてもいい。
それらの作品をひもとくと、フェミニズムが社会の表に躍り出る前の小説を通じて、女らしさや性の根源について、多種多様な人間の生態を観察することができる。
わが国の文壇でも「女が描けなかったら、一人前の作家とはいえない」など常識とされていた。
女の意識と無意識、あるいはその境界線ほど、男の読者にとって興味深いものはない。映画、TVドラマの場合でも「ヒロイン」の魅力こそ、高い商品価値を備えている。女優はそのために存在するといってもいいくらいである。
見る男と見られる女。
小倉さんは、19世紀フランス文学(主に小説)を分析の対象に据え、考えられるかぎりの角度から社会史的にアプローチする。
藤原書店あたりを根城とするフランス文学、歴史の翻訳者なので、おそらくアラン・コルバンなど、フランスにおけるアナール学派からの影響が強いのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3
(ウィキペディア/ アラン・コルバン)
大学の教師なので、慎重な配慮が働いている。表現者は異論反論をあらかじめ封じる必要があるうえ、21世紀に入って、ますます価値観の多様化がすすんでいる。本書の原本は1999年の発売。プロローグや序論では、右顧左眄(必要と思われる他者への配慮)ばかりしているから、小倉さんがいいたいことがぼやけている(;^ω^)
断定を避けているのだし、断定する場合でもじつに慎重。
ここで大見出しのみ引用しておく。
プロローグ
序論
第1章 女・医学・病
第2章 見つめられる女たち
第3章 美の表徴とレトリック
第4章 表層の形成
第5章 飼いならされる身体―礼儀作法書のディスクール
これがさらに小分けされ、それぞれ10章前後の小見出しがつく。
小倉さんは哲学者、思想家ではないから、小説から具体例を豊富に引用している。そればかりではなく、絵画(必ずしも名画ばかりではない)からも、的確な作例を引っ張ってくるのが、説得力を高めている。
文庫本で300ページ。それに作者名索引、作品名索引付。さらに参考文献一覧まである。
これまで半分ほど読んだところだが、“当確”疑いなし。
女性は20世紀初頭あたりまで、参政権はもたず、公的な職務からも締め出されていた。
「男は仕事に、女は家庭に」
仕事につくのは、下層階級の女性にかぎられていたのだ。日本社会においても、ある時代まではそういう考え方が、広く支配的な力学となっていた。
フランスでも“公的な女性”(femme publique)といえば、売春婦のことであったのだそうである。
さて、皆さんの中に、つぎの絵をご覧になった方がいるだろうか?
わたしが、いわば視線の快楽を最初に意識した、とても印象深い絵である。
(ロード・リートン「燃える六月」)
※下の【追加2】を参照
ただし、この絵の作者、タイトルは本書ではじめて知った。Webでも検索してみたが、作者名はまったく引っかかってこないし、画像検索でもなかなかヒットしなかった(^^;
いずれ、この絵について深掘り解説がないかどうか探してみよう。
近ごろでは「見る男と見られる女」という位相の逆転現象が起こっているのはわたしも知らないではない。
男性用ファッション誌を眺めては、美容室にせっせと通い、減量やらフィットネスにはげむ男性諸氏が増えているのは「見られる存在」としての男を意識しているわけだ。
昭和の“おじさん”であるわたしなど、埒外であ~る。
おしまいに、これまでほとんど考えたことがなかったジェンダー(Gender)という概念について、ウィキペディアの見解を参照しておく。
《語源はラテン語: "genus"(産む、種族、起源)である。共通の語源を持つ言葉として"gene"(遺伝子)、"genital"(生殖の)、フランス語: genre(ジャンル)などがある。「生まれついての種類」という意味から転じて、性別のことを指すようになった。》
女らしさって何だ・・・と、そんな話題が年がら年中取り上げられ、内閣が発足すれば、女性議員が何人だと必ず報じられる現代。
本書「“女らしさ”の文化史―性・モード・風俗 」は、現代のわれわれを、より深い次元に導いてくれる、刺激に満ちた、えぐりの利いた一冊として推奨しておこう。
仮評価:☆☆☆☆☆
(まだ半分ほどしか読んでいないため、仮評価としておく)
【追加】
読みおえることができたので、若干追加しておこう。
「4章 表層の形成」まではとてもおもしろく読めたが、
「5章 飼いならされる身体―礼儀作法書のディスクール」ははっきりいって、あまりピンとこなかった。興味の方向が少しわたしとはズレている。
《暴力性とアナーキーを宿す身体を中和すること、欲望の主体としての身体を抑制すること。これがルネサンス時代のエラスムスから現代の作家にいたるまで、礼儀作法書のディスクールに通底するイデオロギーにほかならない。》(268ページ)
礼儀作法書ですか、うーむ。
わたしは全体を、フランス人を素材とした女性論として読んだのである。
希望的観測となるが、むしろこの章全体を、19世紀フランス文学論の観点から書き直すべきだとかんがえざるをえなかった。
しかし、途中までは愉しかったから、5点満点のままとしておこう。
【追加2】
本書にはロード・リートン「燃える六月」として引用されていた「眠る女」の素性がわかった。
■作者=フレデリック・レイトン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%B3
絵のタイトルは、
「フレイミング・ジューン」(Flaming June)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3
である。
引用するにあたって、小倉孝誠さんが勘違いしたか、参考資料が間違っていたか、他に理由(フランス語読みなど)があるかである。
混乱させ、申し訳ありませんでした。
ちぎっては投げ、投げてはちぎり(´Д`)
このところ本のつまみ食いがつづいていた。
はやく抜け出したいのだけれど、気が散って・・・気が散って仕方ない。
この1か月ほどで、新刊書・古書を合計し、40冊前後の本が手許にやってきた。
そしてようやくめぐり遭った、小倉孝誠さんの一作。
《女らしさはどのように作られたのか? 社会と文化に作られた幻想は何故、無意識に受け入れられたのか? 近代に誕生したモード・美容・小説・絵画の表現や、医学書・作法書の記述から美意識・官能など感覚の変化を辿り、歴史空間のなかで見つめられ規制されてきた「女の身体」の表象を解読、眼差しの構造を浮き彫りにする。図版多数収録。》BOOKデータベースより
小倉孝誠(おぐら・こうせい)さんは現在、慶応大学の教授のようである。
今年の春に、何か一冊買ったなあと思い出して調べたら下記の本であった。
■「写真家ナダール - 空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才」中央公論新社(2016年刊)
いずれ、いずれと思いつつ、まだ手がつけられないでいるが(ノω`*)
鹿島茂さんによって、19世紀フランス文学の蒙を啓かれ、「読みたい本」30作あまりをリストアップし、ストックしてある。
小倉さんのお名前も、バルザックやゾラを読みながら、しばしばお目にかかった。
現在のわが国において、鹿島茂さんはBIG NAME。 女性では山田登世子さんも読んでみたいと思って、2-3冊は手許にある。
わたしの偏見によれば、小説というジャンルにあっては、20世紀アメリカ文学とならび、19世紀フランス文学が一番人気なのではなかろうか!?
バルザックやゾラの名は不動のものだし、それにフローベール、モーパッサンなどを付け加えてもいい。
それらの作品をひもとくと、フェミニズムが社会の表に躍り出る前の小説を通じて、女らしさや性の根源について、多種多様な人間の生態を観察することができる。
わが国の文壇でも「女が描けなかったら、一人前の作家とはいえない」など常識とされていた。
女の意識と無意識、あるいはその境界線ほど、男の読者にとって興味深いものはない。映画、TVドラマの場合でも「ヒロイン」の魅力こそ、高い商品価値を備えている。女優はそのために存在するといってもいいくらいである。
見る男と見られる女。
小倉さんは、19世紀フランス文学(主に小説)を分析の対象に据え、考えられるかぎりの角度から社会史的にアプローチする。
藤原書店あたりを根城とするフランス文学、歴史の翻訳者なので、おそらくアラン・コルバンなど、フランスにおけるアナール学派からの影響が強いのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3
(ウィキペディア/ アラン・コルバン)
大学の教師なので、慎重な配慮が働いている。表現者は異論反論をあらかじめ封じる必要があるうえ、21世紀に入って、ますます価値観の多様化がすすんでいる。本書の原本は1999年の発売。プロローグや序論では、右顧左眄(必要と思われる他者への配慮)ばかりしているから、小倉さんがいいたいことがぼやけている(;^ω^)
断定を避けているのだし、断定する場合でもじつに慎重。
ここで大見出しのみ引用しておく。
プロローグ
序論
第1章 女・医学・病
第2章 見つめられる女たち
第3章 美の表徴とレトリック
第4章 表層の形成
第5章 飼いならされる身体―礼儀作法書のディスクール
これがさらに小分けされ、それぞれ10章前後の小見出しがつく。
小倉さんは哲学者、思想家ではないから、小説から具体例を豊富に引用している。そればかりではなく、絵画(必ずしも名画ばかりではない)からも、的確な作例を引っ張ってくるのが、説得力を高めている。
文庫本で300ページ。それに作者名索引、作品名索引付。さらに参考文献一覧まである。
これまで半分ほど読んだところだが、“当確”疑いなし。
女性は20世紀初頭あたりまで、参政権はもたず、公的な職務からも締め出されていた。
「男は仕事に、女は家庭に」
仕事につくのは、下層階級の女性にかぎられていたのだ。日本社会においても、ある時代まではそういう考え方が、広く支配的な力学となっていた。
フランスでも“公的な女性”(femme publique)といえば、売春婦のことであったのだそうである。
さて、皆さんの中に、つぎの絵をご覧になった方がいるだろうか?
わたしが、いわば視線の快楽を最初に意識した、とても印象深い絵である。
(ロード・リートン「燃える六月」)
※下の【追加2】を参照
ただし、この絵の作者、タイトルは本書ではじめて知った。Webでも検索してみたが、作者名はまったく引っかかってこないし、画像検索でもなかなかヒットしなかった(^^;
いずれ、この絵について深掘り解説がないかどうか探してみよう。
近ごろでは「見る男と見られる女」という位相の逆転現象が起こっているのはわたしも知らないではない。
男性用ファッション誌を眺めては、美容室にせっせと通い、減量やらフィットネスにはげむ男性諸氏が増えているのは「見られる存在」としての男を意識しているわけだ。
昭和の“おじさん”であるわたしなど、埒外であ~る。
おしまいに、これまでほとんど考えたことがなかったジェンダー(Gender)という概念について、ウィキペディアの見解を参照しておく。
《語源はラテン語: "genus"(産む、種族、起源)である。共通の語源を持つ言葉として"gene"(遺伝子)、"genital"(生殖の)、フランス語: genre(ジャンル)などがある。「生まれついての種類」という意味から転じて、性別のことを指すようになった。》
女らしさって何だ・・・と、そんな話題が年がら年中取り上げられ、内閣が発足すれば、女性議員が何人だと必ず報じられる現代。
本書「“女らしさ”の文化史―性・モード・風俗 」は、現代のわれわれを、より深い次元に導いてくれる、刺激に満ちた、えぐりの利いた一冊として推奨しておこう。
仮評価:☆☆☆☆☆
(まだ半分ほどしか読んでいないため、仮評価としておく)
【追加】
読みおえることができたので、若干追加しておこう。
「4章 表層の形成」まではとてもおもしろく読めたが、
「5章 飼いならされる身体―礼儀作法書のディスクール」ははっきりいって、あまりピンとこなかった。興味の方向が少しわたしとはズレている。
《暴力性とアナーキーを宿す身体を中和すること、欲望の主体としての身体を抑制すること。これがルネサンス時代のエラスムスから現代の作家にいたるまで、礼儀作法書のディスクールに通底するイデオロギーにほかならない。》(268ページ)
礼儀作法書ですか、うーむ。
わたしは全体を、フランス人を素材とした女性論として読んだのである。
希望的観測となるが、むしろこの章全体を、19世紀フランス文学論の観点から書き直すべきだとかんがえざるをえなかった。
しかし、途中までは愉しかったから、5点満点のままとしておこう。
【追加2】
本書にはロード・リートン「燃える六月」として引用されていた「眠る女」の素性がわかった。
■作者=フレデリック・レイトン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%B3
絵のタイトルは、
「フレイミング・ジューン」(Flaming June)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3
である。
引用するにあたって、小倉孝誠さんが勘違いしたか、参考資料が間違っていたか、他に理由(フランス語読みなど)があるかである。
混乱させ、申し訳ありませんでした。