たとえば、本書下巻、198ページ。
『「海賊ども!」彼はもっと甲高い、もっとばかげた調子でわめき立てたが、そこでぷつりと声がとぎれてしまった。彼は自分が何をしようとしているのかをまだ知らず、その場に突っ立っていたが、しかし、自分がいますぐ、何かをするであろうことをはっきりと知り、全存在で直感していた。』
「彼」とは、知事のレンプケである。
ドストエフスキーお得意のカーニバルがはじまっている。
作者は登場人物に乗り移っている。取憑くといってもよいだろう。
果てもない、矛盾に満ちたおしゃべり。賢明さは同時に愚劣さであり、死はそのまま永遠と直結してしまうような世界。観察者がだれであるかによって、真理と真相はいくつも掘り出せる。天使と悪魔の共存。愛と憎悪の螺旋階段を、大勢の登場人物が昇ったり下りたりしている。だれもが「おれを、あたしを見てくれ」と叫んでいる。しかし、じつは、だれも他人に対して、関心などもってはいない。そして、響き渡る哄笑。
作者は交響曲の指揮者のように見える。突拍子もないシンバルの響き。かすれたバイオリンの耳障りなハーモニー。勝手に走り出す、ピアノの黒鍵。トランペットが朝であることをつげている隣で、世界に夜が訪れたと歌う歌姫。
混乱と混沌の極みから、ときどき、指揮者の指揮棒がのぞき見える。
人びとはいっせいにしゃべりだし、笑い、からかい、愚弄し、嘆き、よろこぶ。
これは、・・・つまりこの作品は、途方もないロシアの大鍋である。
こんにゃくがあり、ジャガイモがあり、輪切りになった大根がある。その下で、ニンジンの切れっ端が身悶えている。牛肉が、羊肉が投げ込まれ、ぐつぐつと煮られる。
本書はまさにそういった小説である。
ドストエフスキーの他の代表作も、こういったカーニバル的な場面に満ちている。
たとえば「死の家の記録」の浴室シーン。「罪と罰」なら、マルメラードフの死のあとに描かれるその妻、カテリーナ・イワーノヴナの狂乱。ドストエフスキーの筆は躍っている。舌なめずりせぬばかりに・・・。
こういう作品を5つ星で評価しても意味があるとは、思えない。
わたしは、以前読んだとき、本書の主人公はスタヴローギンだと誤解してしまったが、
今回読みかえして、彼もまた主要登場人物のひとりにすぎないという判断に落ち着きそうである。
しかし・・・、作者が、そう描いていることに意表を衝かれた。名高い「スタヴローギンの告白」の章は、江川さんの訳では巻末に収められているが、先回りして読まずにはいられなかった。
この男を、作者は本書の真の主人公と呼んでいる。しかし、主旋律のひとつではあるが、音楽はもっと別なところで、幾重にも響きあいながら鳴っていて、この主人公の目からだけ眺めていると、読者はそれこそ混乱してしまうだろう。
では、本書の真の主人公はだれか?
それは巻頭から登場する、ステパン先生に他ならない、とわたしは睨んだ。
「なぜこのような男に、ドストエフスキーはこれほどのページを割くのか」が、今回も最初はわからなかった、といってもいい。ピョートルも、独自の哲学を展開し、自殺を遂げるキリーロフも、ステパン・トロフィーミヴィッチ・ベルホーベンスキー氏の周辺人物にすぎないと断じてもいいように、いま、感じている。
ドストエフスキーは、本書を書きはじめ、少しばかりすすんだ段階でも、楽譜のすべてを完成してはいなかった。しかし、交響曲は、始動する。
登場人物はどういう運命をたどるのか? 作者は、一章書くたびに、それを考え込んでいる。逆にいえば、登場人物が、小説家ドストエフスキーに取憑いていくのである。
つまり、この小説にとって、作者こそが、最初の「目撃者」なのである。
いまはじめて書くが、それが、「奇妙な一人称」としての語り手が必要になった理由である。
本書はまぎれもなく、ドストエフスキー的世界の展開である。彼はこのあと、さらに「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」を書いて、さっさと死んでいく。
雑誌から掲載を拒絶され、未定稿として残された「スタヴローギンの告白」の一章は、「悪とはなにか、もしそんなものが存在するとして。また、人がそれを裁けるのか」を深刻に問いかけている。
そこでわたしは想像した。もしスタヴローギンに政治的野心という黒いインクを落としたら、と。そこから、ヒトラーやスターリンや毛沢東のようなモンスターが誕生するのではないか?
評価:★★★★★
『「海賊ども!」彼はもっと甲高い、もっとばかげた調子でわめき立てたが、そこでぷつりと声がとぎれてしまった。彼は自分が何をしようとしているのかをまだ知らず、その場に突っ立っていたが、しかし、自分がいますぐ、何かをするであろうことをはっきりと知り、全存在で直感していた。』
「彼」とは、知事のレンプケである。
ドストエフスキーお得意のカーニバルがはじまっている。
作者は登場人物に乗り移っている。取憑くといってもよいだろう。
果てもない、矛盾に満ちたおしゃべり。賢明さは同時に愚劣さであり、死はそのまま永遠と直結してしまうような世界。観察者がだれであるかによって、真理と真相はいくつも掘り出せる。天使と悪魔の共存。愛と憎悪の螺旋階段を、大勢の登場人物が昇ったり下りたりしている。だれもが「おれを、あたしを見てくれ」と叫んでいる。しかし、じつは、だれも他人に対して、関心などもってはいない。そして、響き渡る哄笑。
作者は交響曲の指揮者のように見える。突拍子もないシンバルの響き。かすれたバイオリンの耳障りなハーモニー。勝手に走り出す、ピアノの黒鍵。トランペットが朝であることをつげている隣で、世界に夜が訪れたと歌う歌姫。
混乱と混沌の極みから、ときどき、指揮者の指揮棒がのぞき見える。
人びとはいっせいにしゃべりだし、笑い、からかい、愚弄し、嘆き、よろこぶ。
これは、・・・つまりこの作品は、途方もないロシアの大鍋である。
こんにゃくがあり、ジャガイモがあり、輪切りになった大根がある。その下で、ニンジンの切れっ端が身悶えている。牛肉が、羊肉が投げ込まれ、ぐつぐつと煮られる。
本書はまさにそういった小説である。
ドストエフスキーの他の代表作も、こういったカーニバル的な場面に満ちている。
たとえば「死の家の記録」の浴室シーン。「罪と罰」なら、マルメラードフの死のあとに描かれるその妻、カテリーナ・イワーノヴナの狂乱。ドストエフスキーの筆は躍っている。舌なめずりせぬばかりに・・・。
こういう作品を5つ星で評価しても意味があるとは、思えない。
わたしは、以前読んだとき、本書の主人公はスタヴローギンだと誤解してしまったが、
今回読みかえして、彼もまた主要登場人物のひとりにすぎないという判断に落ち着きそうである。
しかし・・・、作者が、そう描いていることに意表を衝かれた。名高い「スタヴローギンの告白」の章は、江川さんの訳では巻末に収められているが、先回りして読まずにはいられなかった。
この男を、作者は本書の真の主人公と呼んでいる。しかし、主旋律のひとつではあるが、音楽はもっと別なところで、幾重にも響きあいながら鳴っていて、この主人公の目からだけ眺めていると、読者はそれこそ混乱してしまうだろう。
では、本書の真の主人公はだれか?
それは巻頭から登場する、ステパン先生に他ならない、とわたしは睨んだ。
「なぜこのような男に、ドストエフスキーはこれほどのページを割くのか」が、今回も最初はわからなかった、といってもいい。ピョートルも、独自の哲学を展開し、自殺を遂げるキリーロフも、ステパン・トロフィーミヴィッチ・ベルホーベンスキー氏の周辺人物にすぎないと断じてもいいように、いま、感じている。
ドストエフスキーは、本書を書きはじめ、少しばかりすすんだ段階でも、楽譜のすべてを完成してはいなかった。しかし、交響曲は、始動する。
登場人物はどういう運命をたどるのか? 作者は、一章書くたびに、それを考え込んでいる。逆にいえば、登場人物が、小説家ドストエフスキーに取憑いていくのである。
つまり、この小説にとって、作者こそが、最初の「目撃者」なのである。
いまはじめて書くが、それが、「奇妙な一人称」としての語り手が必要になった理由である。
本書はまぎれもなく、ドストエフスキー的世界の展開である。彼はこのあと、さらに「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」を書いて、さっさと死んでいく。
雑誌から掲載を拒絶され、未定稿として残された「スタヴローギンの告白」の一章は、「悪とはなにか、もしそんなものが存在するとして。また、人がそれを裁けるのか」を深刻に問いかけている。
そこでわたしは想像した。もしスタヴローギンに政治的野心という黒いインクを落としたら、と。そこから、ヒトラーやスターリンや毛沢東のようなモンスターが誕生するのではないか?
評価:★★★★★