■ドストエフスキー「後期短篇集」福武文庫(米川正夫訳 1987年刊)
福武文庫からは、すぐれた、とても興味深い海外の小説がいくつか刊行されていた。
このドストエフスキー「後期短篇集」もその中の一冊。ほかにヘンリー・ミラー「暗い春」(吉田健一訳)、「アポリネール傑作短篇集」(窪田般彌訳)、コクトー「大股びらき」(澁澤龍彦訳)等がある(福武書店は現在の株式会社ベネッセコーポレーション)。
読もう、読まねばなるまい・・・と、三年、いや二年ほど前からかんがえていた。
“その気”になるのをじっと待っていた、というべきか( -ω-)
《マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる ―思索に思索を重ねた末に辿りついた、後年のドストエフスキイの逆説の世界観がちりばめられた後期傑作8短篇。文庫本初収録。》BOOKデータベースより。米川訳ではドストエフスキイと表記。
米川正夫のドストエフスキーは、河出書房から出ている全集を持っている。しかし、重く大きいため、文庫本があれば、それらを買い直して、文庫本で読んでいる。
新潮社からも全集が上梓され、バラではあるが、2~3冊手許に置いてあるが、いざとなるとやっぱり文庫本のお世話になる。
福武書店のこの短篇集は、本来は前期、後期の二冊ぞろい。しかし、「後期短篇集」だけ手許にある。収録されているのはつぎの8篇。
1.おとなしい女 ―空想的な物語
2.ボボーク
3.キリストのヨルカに召されし少年
4.百姓マレイ
5.百歳の老婆
6.宣告
7.現代小説から取った暴露小説のプラン
8.おかしな人間の夢 ―空想的な物語
そのうち、「おとなしい女」「百姓マレイ」「百歳の老婆」「おかしな人間の夢」「ボボーク」「キリストのヨルカに召されし少年」の6篇を読んだ。いずれ残り2作を読むつもり。
全235ページのうち、「おとなしい女」が86ページ、「おかしな人間の夢」が39ページある。ほかはもっと短いので、その気になれば、一時間たらずで読み了えることができるだろう。
光文社古典新訳文庫からは、安岡治子訳で、短篇集が1冊だけ刊行された。そちらの収録作は、調べてみたらつぎの5篇。
「白夜」「キリストの樅ノ木祭りに召された少年」「百姓のマレイ」「おかしな人間の夢 − 幻想的な物語」「1864年のメモ」である。
わたしが震駭させられたのは「おとなしい女」であった。
人間にとって、他人・他者とは結局何なのだろう。簡単にいえば、これはドストエフスキーのメインテーマの一つ。代表的な長篇でも、ああまたか、と思えるほど、くり返し、生涯にわたって追求されている。
「おとなしい女」は、16の小娘と41になる質屋のおやじの物語で、おやじはゲーテの「ファウスト」を引用するようなインテリ。
《高いところに立っている人間は、なんとなく自然に下のほうへ、深淵の中へ引き込まれるという。思うに、多くの自殺や殺人は、単にピストルがすでに手に取られているというだけの理由で、遂行されるのであろう。そこにも同様、深淵があるのだ、すべらずにはいられないような三十五度の傾斜があるのだ。かくして、なにものかが否応なくその人間に撃鉄をひかせるのである。》(本書55ページ)
またドストエフスキーは“わずか五分の遅刻”ということをはっきり書いている。つまり“わたし”が五分だけはやく帰宅していたら・・・妻は死なずにすんだと痛切に後悔する。
これは「罪と罰」にも「悪霊」にも存在した、作者の心理学であり、そこにある説得力は作家的な力量をまざまざと刻印しないではおかない。
解説は江川卓さんが書いておられ、すぐれた内容となっているが、そこにつぎのような一言がある。
《理解を越えて実在する「他者の意識」の問題》を、作者は扱っている、と。
ドストエフスキーはこの「おとなしい女」と「おかしな人間の夢」の2篇に“空想的な物語“と添え書きしている。
「おかしな人間の夢」の方はSF小説のはしりといえるような、まさに空想的な物語だが、どちらも第一級の傑作といっていいだろう。自ら述べているように、彼のリアリズムはファンタスティック・リアリズムなのだそうである。
わたしは何ものであったか、
彼女は何ものであったか
・・・これが第1章のタイトルなんですね。
そして妻は、とうとう三十五度の傾斜を滑り落ちていったのだ。
いやはや、短篇小説ながら、読み応え十分な一冊であった。震駭させられるのは、おそらくわたし一人ではあるまい。
評価:☆☆☆☆☆
福武文庫からは、すぐれた、とても興味深い海外の小説がいくつか刊行されていた。
このドストエフスキー「後期短篇集」もその中の一冊。ほかにヘンリー・ミラー「暗い春」(吉田健一訳)、「アポリネール傑作短篇集」(窪田般彌訳)、コクトー「大股びらき」(澁澤龍彦訳)等がある(福武書店は現在の株式会社ベネッセコーポレーション)。
読もう、読まねばなるまい・・・と、三年、いや二年ほど前からかんがえていた。
“その気”になるのをじっと待っていた、というべきか( -ω-)
《マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる ―思索に思索を重ねた末に辿りついた、後年のドストエフスキイの逆説の世界観がちりばめられた後期傑作8短篇。文庫本初収録。》BOOKデータベースより。米川訳ではドストエフスキイと表記。
米川正夫のドストエフスキーは、河出書房から出ている全集を持っている。しかし、重く大きいため、文庫本があれば、それらを買い直して、文庫本で読んでいる。
新潮社からも全集が上梓され、バラではあるが、2~3冊手許に置いてあるが、いざとなるとやっぱり文庫本のお世話になる。
福武書店のこの短篇集は、本来は前期、後期の二冊ぞろい。しかし、「後期短篇集」だけ手許にある。収録されているのはつぎの8篇。
1.おとなしい女 ―空想的な物語
2.ボボーク
3.キリストのヨルカに召されし少年
4.百姓マレイ
5.百歳の老婆
6.宣告
7.現代小説から取った暴露小説のプラン
8.おかしな人間の夢 ―空想的な物語
そのうち、「おとなしい女」「百姓マレイ」「百歳の老婆」「おかしな人間の夢」「ボボーク」「キリストのヨルカに召されし少年」の6篇を読んだ。いずれ残り2作を読むつもり。
全235ページのうち、「おとなしい女」が86ページ、「おかしな人間の夢」が39ページある。ほかはもっと短いので、その気になれば、一時間たらずで読み了えることができるだろう。
光文社古典新訳文庫からは、安岡治子訳で、短篇集が1冊だけ刊行された。そちらの収録作は、調べてみたらつぎの5篇。
「白夜」「キリストの樅ノ木祭りに召された少年」「百姓のマレイ」「おかしな人間の夢 − 幻想的な物語」「1864年のメモ」である。
わたしが震駭させられたのは「おとなしい女」であった。
人間にとって、他人・他者とは結局何なのだろう。簡単にいえば、これはドストエフスキーのメインテーマの一つ。代表的な長篇でも、ああまたか、と思えるほど、くり返し、生涯にわたって追求されている。
「おとなしい女」は、16の小娘と41になる質屋のおやじの物語で、おやじはゲーテの「ファウスト」を引用するようなインテリ。
《高いところに立っている人間は、なんとなく自然に下のほうへ、深淵の中へ引き込まれるという。思うに、多くの自殺や殺人は、単にピストルがすでに手に取られているというだけの理由で、遂行されるのであろう。そこにも同様、深淵があるのだ、すべらずにはいられないような三十五度の傾斜があるのだ。かくして、なにものかが否応なくその人間に撃鉄をひかせるのである。》(本書55ページ)
またドストエフスキーは“わずか五分の遅刻”ということをはっきり書いている。つまり“わたし”が五分だけはやく帰宅していたら・・・妻は死なずにすんだと痛切に後悔する。
これは「罪と罰」にも「悪霊」にも存在した、作者の心理学であり、そこにある説得力は作家的な力量をまざまざと刻印しないではおかない。
解説は江川卓さんが書いておられ、すぐれた内容となっているが、そこにつぎのような一言がある。
《理解を越えて実在する「他者の意識」の問題》を、作者は扱っている、と。
ドストエフスキーはこの「おとなしい女」と「おかしな人間の夢」の2篇に“空想的な物語“と添え書きしている。
「おかしな人間の夢」の方はSF小説のはしりといえるような、まさに空想的な物語だが、どちらも第一級の傑作といっていいだろう。自ら述べているように、彼のリアリズムはファンタスティック・リアリズムなのだそうである。
わたしは何ものであったか、
彼女は何ものであったか
・・・これが第1章のタイトルなんですね。
そして妻は、とうとう三十五度の傾斜を滑り落ちていったのだ。
いやはや、短篇小説ながら、読み応え十分な一冊であった。震駭させられるのは、おそらくわたし一人ではあるまい。
評価:☆☆☆☆☆