二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

フェルメールから学ぶ

2016年01月01日 | 写真集、画集など
<青衣の女>
ある本によると、彼は青にラピスラズリの粉末を混ぜて深味を出していたという。このウルトラ・マリンブルーの美しさはどうだろう!


まだフェルメールの絵画の世界にひたっている。世界中を回って“本物”を視て歩くことができないので、複製画・画集にのみたよっているけど、まあ、お赦しいただこう♪


■カメラオブスキュラを知っていたフェルメール
ある意味で、彼はわれらフォトグラファーの先駆者である。
代表作の多くは、精密な遠近法にのっとって描かれている。「フェルメールはカメラオブスキュラを知っていた。いや、それを利用していた可能性が大きい」
それは解説書を読まなくても、彼の絵がなにより雄弁に語りかけてくる。


(音楽の稽古。弾いているのはヴァージナルという鍵盤楽器。ピアノはまだ生まれていない)

フォーマットによってことなるが、カメラには必ず標準レンズというものが用意されている。
35ミリ判では50ミリ前後、6×6判では80ミリ前後、またマイクロフォーサイズでは25ミリ前後。いずれも対角線の長さに等しい画角を基準にしている。彼の絵画は、この画角によって描かれている・・・とわたしは確信するにいたった。

■日常を聖化するまなざし
フェルメールが生きた時代のオランダ。その社会的な背景を理解しておく必要がある。プロの画家として、フェルメールは顧客の需要に応じて作品を描き、それを売って生活していた、あるいは生活しようとしていた。

物語に倚りかからないフェルメールのまなざしは、風俗画の一流派の中から誕生してくる。それまでの絵画は、ギリシャ神話や聖書から題材をあおぐ宗教画、風刺画が主流であったが、市民階級の台頭が、絵画の変容をもたらしたのである。
典型だとか、普遍だとか、そのような理念的な世界を描くのではない。
個別を・・・われらが日々の生活を、つまり日常を見つめながらモチーフを洗い出していく。
彼のような画家が200年間も忘れ去られていたとは、歴史の皮肉というべきだろう。


少々乱暴ないい方をすれば、フェルメールはフォトジェニックなまなざしを手に入れたのである。それは1659年ころ、「窓辺で手紙を読む女」の登場によって、誕生した。
先輩画家であるファブリティウスやデ・ホーホの影響を受けながら。


■陽ざしは外界からやってくる
室内にいる女性は窓辺に立っていることが多い。それは電灯はもちろんガス灯すら発明される以前だからである。細かな作業は、窓辺で外界の光を受けながらおこなわれる。
夜はローソクや油などにたよったのであろう。
しかし、ここで気になるのは、作品の構図の中で、光はつねに左からやってくる・・・ということである。若干の例外をのぞき、フェルメールの窓は左側にある。



1660年代前半の作と推定される傑作「真珠の首飾りの女」である。
「光の画家」「光の魔術師」と形容されるフェルメール。
ここでも、毀れやすい繊細な光を、巧みにつかまえている。背景の壁にはなにも掛かっていない。左から右へのゆるやかな白のグラデーション、そのなんというシンプルな美しさだろう。
真珠のネックレスは光の粒である。女のしぐさ、そして真珠をつまむ指先、嫋々たる中にも凛とした気品を感じさせる横顔。
大きな余白ともいうべき壁の白と、左手前をふさぐタオルケットの黒。その省略が、このモデルの存在感を際立たせている。左上から、右下へ視る者の視線はいざなわれる。心憎いばかりの構図感覚といっていいだろう。
X線検査によると、壁にははじめ地図が、右手前の椅子にはリュートが描きこまれていたという。
フェルメールは「意味ありげなもの」を消した。そうすることによって、女の存在感をよりいっそう“確かなもの”、明瞭なものにしたのである。


■ソシアルランドスケープの発見



「失われた時を求めて」の中で、プルーストはこの「デルフトの眺望」を「世界でもっとも美しい絵画」と書いているそうである。有名なエピソードらしいので、大抵の人は知っているだろう。
しかし、わたしは、それほど「美しい」とは思わない。
現代のわれわれは、地球上あちこちにある「絶景」なるものを、数多く知ってしまった。わたしなど、はっきりいえば絶景には食傷気味。

フェルメールは、絶景を描いたのでも、描こうとしたのでもない。彼は社会的な風景、つまりソシアルランドスケープをここに表現したのである。
生まれ、育った田舎町デルフトの朝。ある日、あるときの光景が、ここにある。
手前の川べり(運河)には6人+1人(子ども)が描かれている。
美しいがべつにたまげるような美しさとは、わたしには思えない。
ここにも、カメラ・アイによってとらえられた情感が漲ってはいる。それは絶景ではなく、彼にとっては「見慣れた光景」であったはず。

もう一つ遺された風景画「デルフトの小径」を思い出してみよう。あの一作と同じように、この作品にも「日常を聖化しよう」という無意識の衝動が潜んでいる・・・と視るのが、正解だろうとわたしはかんがえる。

くり返すが、フェルメールは絶景を描いたのではなく、社会的な風景を描いたのである。これは彼の女性像と共通したものがある。つまり「美の理想像」としての女性=ヴィーナスではなく、主として彼の周辺で暮らす市民階級の女性、生きて呼吸している女性を描いた。

もう一つ、大切なことを、最後にいっておこう。
背景ということである。ポートレートにせよ、スナップショットにせよ、人物画、人物写真には、背景があるからおもしろい♪
背景がないといえば、写真館の写真を思い出す。写真館の写真に、わたしはあまり興味がない。
被写体はどこでもないどこか・・・という抽象的な空間にいるのではなく、ある特定の空間の中にたたずんだり、すわったり、歩いたり、お茶を飲んだりしている。
家のリビングにいる人、仕事場にいる人、川のほとりにいる人。

背景がいろいろなことを語りかける。
それはフェルメールとつきあいながら、あらためて学んだことである。
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