中村真一郎(1918~1997年)の著書を読むのははじめてであったから、netでその略歴を調べてみた。
東大仏文科出身。戦時中、定型押韻詩を旗印に、福永武彦、加藤周一らと「マチネ・ポエティック」を形成したが、当時の詩壇からは白眼視された。このころ堀辰雄の知遇をえて、プルーストら西洋文学を日本に紹介するとともに、知識人の問題を追求する小説を書いた。フランス文学とわが国の王朝文学に造詣が深く、その知識を背景にかなりの評論も書いているようである。わたしが断片的に読んだり眼にしたかぎり、中村真一郎の文学は、ひとことでいえば教養豊かなディレッタントの文学と断定していいように思う。海外ミステリについても詳しく、福永武彦・丸谷才一との共著、『深夜の散歩』はおもしろかった。
本書は異色の近・現代文学のガイドブック。大学の教養課程あたりで「文学概論」として使えそうである。鴎外、漱石はいうまでもなく、露伴、紅葉にはじまって、大正期の作家をへて、戦後文学にまでその射程がいきとどいている。それにしても、上司小剣、犬養健、獅子文六、豊島与志雄、里見、芹沢光治良など、いまでは文学史の谷間にうもれてしまった作家をじつによく読んでいる。こういった作業は「純文学」がまだ信仰を集めていたこの時代だからできたともいえる。
彼は本書で1974年、毎日出版文化賞を受賞している。これは類書にない斬新な切り口が評価されたようである。
明治、大正にはじまり戦後にいたる日本の文学を、青春、恋愛、老年、少年、心理、感覚、家庭、社会、歴史、滑稽、西洋という11のキーワードで読み解こうとしているからである。踏み込み不足というか、ご本人の価値基準を強く全面に押し出すことがないので、結局はやや「はぐらかされた」印象になってしまうのが惜しまれるが、それも意図したことと思われる。わたしのような素人は「この本のこういうところが、こういうふうにおもしろい。だから読め」とはっきり書いてもらったほうがいいのである。
本書からうかがわれる著者のこの感覚は、小説家のものではなく、編集者のもの、あるいは編集感覚を持つ批評家のものであろう。「恋愛」「老年」「感覚」「家庭」などをキーワードにして、これまで知られなかった暗部に光があてられていくのである。こういった近代の作家を「文学的、あまりに文学的に」読むのではなく、歴史や社会を考察する資料として読むという観点。本書の独創ははそういう可能性を知らしめたところにあると思われる。
島崎藤村の「家」や徳田秋声の「仮装人物」、梶井基次郎の短編集など、読んでみたくなってきた。そういう力を持ってはいる。しかし、・・・著者の意見はかなりひかえめ。論理的な推進力も弱いので、それ以上高くは評価できないというのがわたしの感想。
ところで、netの検索をみていたら、松岡正剛が中村真一郎の評伝を絶賛している記事が目についた。彼は晩年になって『頼山陽の時代』『蠣崎波響の生涯』『木村蒹葭堂のサロン』と、三つの評伝をつぎつぎ書いている。
この人の生い立ちはこの書評を書くにあたってはじめて知ったが、父母を幼くして失い、屈折した戦中・戦後をへてきていること、また1957年、妻の死をきっかけに精神病者となって治療をうけた経験があることなどを考えると、教養豊かなディレッタントという以上の世界を、そういった評伝という形式のなかで発見したのかもしれない。鴎外が確立したこの「評伝」というジャンルにはいままで親しんだことがなかったので、「いずれ読んでみようか」という気になったところである。
松岡正剛「千夜千冊~木村蒹葭堂のサロン」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1129.html
中村真一郎「この百年の小説」新潮選書>☆☆☆
東大仏文科出身。戦時中、定型押韻詩を旗印に、福永武彦、加藤周一らと「マチネ・ポエティック」を形成したが、当時の詩壇からは白眼視された。このころ堀辰雄の知遇をえて、プルーストら西洋文学を日本に紹介するとともに、知識人の問題を追求する小説を書いた。フランス文学とわが国の王朝文学に造詣が深く、その知識を背景にかなりの評論も書いているようである。わたしが断片的に読んだり眼にしたかぎり、中村真一郎の文学は、ひとことでいえば教養豊かなディレッタントの文学と断定していいように思う。海外ミステリについても詳しく、福永武彦・丸谷才一との共著、『深夜の散歩』はおもしろかった。
本書は異色の近・現代文学のガイドブック。大学の教養課程あたりで「文学概論」として使えそうである。鴎外、漱石はいうまでもなく、露伴、紅葉にはじまって、大正期の作家をへて、戦後文学にまでその射程がいきとどいている。それにしても、上司小剣、犬養健、獅子文六、豊島与志雄、里見、芹沢光治良など、いまでは文学史の谷間にうもれてしまった作家をじつによく読んでいる。こういった作業は「純文学」がまだ信仰を集めていたこの時代だからできたともいえる。
彼は本書で1974年、毎日出版文化賞を受賞している。これは類書にない斬新な切り口が評価されたようである。
明治、大正にはじまり戦後にいたる日本の文学を、青春、恋愛、老年、少年、心理、感覚、家庭、社会、歴史、滑稽、西洋という11のキーワードで読み解こうとしているからである。踏み込み不足というか、ご本人の価値基準を強く全面に押し出すことがないので、結局はやや「はぐらかされた」印象になってしまうのが惜しまれるが、それも意図したことと思われる。わたしのような素人は「この本のこういうところが、こういうふうにおもしろい。だから読め」とはっきり書いてもらったほうがいいのである。
本書からうかがわれる著者のこの感覚は、小説家のものではなく、編集者のもの、あるいは編集感覚を持つ批評家のものであろう。「恋愛」「老年」「感覚」「家庭」などをキーワードにして、これまで知られなかった暗部に光があてられていくのである。こういった近代の作家を「文学的、あまりに文学的に」読むのではなく、歴史や社会を考察する資料として読むという観点。本書の独創ははそういう可能性を知らしめたところにあると思われる。
島崎藤村の「家」や徳田秋声の「仮装人物」、梶井基次郎の短編集など、読んでみたくなってきた。そういう力を持ってはいる。しかし、・・・著者の意見はかなりひかえめ。論理的な推進力も弱いので、それ以上高くは評価できないというのがわたしの感想。
ところで、netの検索をみていたら、松岡正剛が中村真一郎の評伝を絶賛している記事が目についた。彼は晩年になって『頼山陽の時代』『蠣崎波響の生涯』『木村蒹葭堂のサロン』と、三つの評伝をつぎつぎ書いている。
この人の生い立ちはこの書評を書くにあたってはじめて知ったが、父母を幼くして失い、屈折した戦中・戦後をへてきていること、また1957年、妻の死をきっかけに精神病者となって治療をうけた経験があることなどを考えると、教養豊かなディレッタントという以上の世界を、そういった評伝という形式のなかで発見したのかもしれない。鴎外が確立したこの「評伝」というジャンルにはいままで親しんだことがなかったので、「いずれ読んでみようか」という気になったところである。
松岡正剛「千夜千冊~木村蒹葭堂のサロン」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1129.html
中村真一郎「この百年の小説」新潮選書>☆☆☆