■青柳正規「皇帝たちの都ローマ 都市に刻まれた権力者像」中公新書(1992年刊)レビュー
塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでしまったいまとなっては、意義がうすれてしまった。第一、略年譜もないし、内容にぴったりとした地図も、必要最小限度。
しかも、人物にではなく、建築物に照準が合わせてある。
ところどころすぐれた省察があるものの、最後まで読み通すのがいささか苦痛だった。
1992年という刊行年次だから、先駆的なお仕事ではあったのだろう。たまたまワゴンセールの100円の棚にあったから手に取ったようなもの。
終わりに近づくにつれ、叙述は駆け足になっていく。396ページのボリュームで紀元前100年ごろから紀元後250年ごろまでの古代ローマ史を、スエトニウスの「ローマ皇帝伝」などの資料によりながらお書きになっている。
なおBOOKデータベースの内容紹介には、つぎのように記載されている。
《カエサルの総合都市整備計画によって地中海帝国としての偉容をととのえたローマは、以降、歴代皇帝たちによって公共事業を施されるとともに、彼らの政治的意図を誇示するための大造営事業の場となった。永遠の都ローマの栄光は都市に刻みこまれていったのである。しかし、最強の軍隊、発展と拡大という豊かな国家としての理念が行き詰ったとき、新しい理念に向けて改造することは、歴史を推積してきたローマには不可能であった。》
これは手厳しくいってしまえば、ローマの観光案内である。ローマのどこに立てば、なにがどうみえるかなんて、ローマにいったことはない、いく予定もない読者にとってはおもしろさ半減もいいところ。
青柳正規さんは、建築物のフェチなのだろう。歴史家であるより、考古学者の本としてあつかうべきなのかもしれない。
塩野さんの「ローマ人の物語」より先に読んだら、もっと興味深く読めたはず・・・と断定しておく。順序を間違えたわたしが悪いのである^ωヽ*
評価:☆☆☆
■鹿島茂「パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック三大文豪大物くらべ」文藝春秋(1995年刊)
フランスの文学について書かれた本だと思ったら、肩すかしを食らうだろう。文学の本ではなく、もっと世俗的であからさまな「名誉、金、女」の世の中について探求した本。文学者であるまえに、“事業家”としての作家が考察されている。
大物というのは、事業家として大物という意味である(´Д`;)
したがって、作品論ではなく、作家論でもない。
どんな名誉を手に入れたのか。
いくら儲けたのか。
どういう女を籠絡しわが物としたのか。
つまりスキャンダルの追及に、多くの紙幅をさいている。これは鹿島さんの得意技である。好きな人とそうでない人が、はっきりと分かれるだろう。
文学作品の奥座敷には、まったく踏み込もうとしていない。売れたのか売れなかったのか、作家としての名声や貴族の女を手に入れたのか、そうでなかったのか、鹿島さんはねちっこく書いている。
《名誉も金も女も欲しい! バルザック、ユゴー、デュマ。19世紀のパリを舞台に、巨匠出現の必然を捉えながらその人間的な素顔を描ききる、文豪、借金王、色情魔、そして憎めないおじさんたちの傑作評伝。》(BOOKデータベースより)
やや否定的に、日本のバブル期に書かれた本といってしまえば、それに尽きる。文学を事業としてかんがえれば、“名誉、金、女”が価値の源泉なのである。それをわが物とすべく、作家たちは奮闘する。成功者としてのユゴー、デュマ、バルザック。
鹿島さんは、じつにあからさまに表現している。だいたい“愛”など信じてはいないのだ。セックスであり、精液が作り出すドラマなのである(^ε^)
ここには日本特有のセンチメンタリズムが入り込む隙はないし、私小説の出番もない。
1830年代のフランス。イギリスにほんのわずか遅れていたとはいえ、ブルジョア社会のはじまりによって、小説家という種族が生まれてきた。鹿島さんは、そのはじまりのエネルギッシュな光景を素描している。
《今日のフランスの都市で、ナポレオン通りはなくとも、ユゴーの名を冠した目抜き通りのない都市は存在しない・・・》(256ページ)
ふうん、そうなんですか?
ユゴーって亡くなったとき、国葬されたんですよね、たしか。
だけど、ユゴーはこれまで一冊も読んでない。本は持っているだけじゃダメ。
ところが、手に入れるとそのことで満足してしまう。鹿島さんご自身、買っただけで読んでいない本がいくらでもあるとおっしゃっている(*ノv`)
本好きの笑えない現実。
昨日、ショーペンハウエルの「読書について」(岩波文庫)を読んでいたら、こんなことばと衝突した。
《読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読むわれわれは、他人が考えた過程を反復的にたどるにすぎない。》(127ページ)
《ヘロドトスによると、ペルシアの大王クセルクセスは、雲霞のような大軍をながめながら涙した。百年後には、この大軍のだれ一人として生き残ってはいまいと思ったからである。
分厚い図書目録をながめながら泣きたい気持ちに襲われない者がいるだろうか。だれでも、十年たてば、この中の一冊も生き残ってはいまいという思いにうたれるはずである。》(131ページ)
《読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。》(133ページ)
ショーペンハウエルはシニカルな哲学者として知られている。「読書について」は、ほとんど箴言集、寸鉄人を刺すような表現にあふれている。
彼によると、読書は他人にものを考えてもらうことである。だから悪習だというのである。本を読んでいるあいだは、何もしない。
お掃除するわけでも、必要なものを買いにいくわけでもない。端から見たら怠けて寝そべっているのと、何ら変わらない。
人はだれでも、読む人=読者がいるから書くのである。多くの読者に読まれれば、それが自慢になる。日本人は人まねのうまい民族だし、大衆社会の本質は他人志向ということである。
「あなたまだ読んでいないの!? 50万部も売れているんですよ」
その種のことばが、強力な宣伝文句となる( ´◡` )
そういった時代がいつからはじまったのか、鹿島さんの「パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック三大文豪大物くらべ」が、それを教えてくれる。
評価:☆☆☆☆
塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでしまったいまとなっては、意義がうすれてしまった。第一、略年譜もないし、内容にぴったりとした地図も、必要最小限度。
しかも、人物にではなく、建築物に照準が合わせてある。
ところどころすぐれた省察があるものの、最後まで読み通すのがいささか苦痛だった。
1992年という刊行年次だから、先駆的なお仕事ではあったのだろう。たまたまワゴンセールの100円の棚にあったから手に取ったようなもの。
終わりに近づくにつれ、叙述は駆け足になっていく。396ページのボリュームで紀元前100年ごろから紀元後250年ごろまでの古代ローマ史を、スエトニウスの「ローマ皇帝伝」などの資料によりながらお書きになっている。
なおBOOKデータベースの内容紹介には、つぎのように記載されている。
《カエサルの総合都市整備計画によって地中海帝国としての偉容をととのえたローマは、以降、歴代皇帝たちによって公共事業を施されるとともに、彼らの政治的意図を誇示するための大造営事業の場となった。永遠の都ローマの栄光は都市に刻みこまれていったのである。しかし、最強の軍隊、発展と拡大という豊かな国家としての理念が行き詰ったとき、新しい理念に向けて改造することは、歴史を推積してきたローマには不可能であった。》
これは手厳しくいってしまえば、ローマの観光案内である。ローマのどこに立てば、なにがどうみえるかなんて、ローマにいったことはない、いく予定もない読者にとってはおもしろさ半減もいいところ。
青柳正規さんは、建築物のフェチなのだろう。歴史家であるより、考古学者の本としてあつかうべきなのかもしれない。
塩野さんの「ローマ人の物語」より先に読んだら、もっと興味深く読めたはず・・・と断定しておく。順序を間違えたわたしが悪いのである^ωヽ*
評価:☆☆☆
■鹿島茂「パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック三大文豪大物くらべ」文藝春秋(1995年刊)
フランスの文学について書かれた本だと思ったら、肩すかしを食らうだろう。文学の本ではなく、もっと世俗的であからさまな「名誉、金、女」の世の中について探求した本。文学者であるまえに、“事業家”としての作家が考察されている。
大物というのは、事業家として大物という意味である(´Д`;)
したがって、作品論ではなく、作家論でもない。
どんな名誉を手に入れたのか。
いくら儲けたのか。
どういう女を籠絡しわが物としたのか。
つまりスキャンダルの追及に、多くの紙幅をさいている。これは鹿島さんの得意技である。好きな人とそうでない人が、はっきりと分かれるだろう。
文学作品の奥座敷には、まったく踏み込もうとしていない。売れたのか売れなかったのか、作家としての名声や貴族の女を手に入れたのか、そうでなかったのか、鹿島さんはねちっこく書いている。
《名誉も金も女も欲しい! バルザック、ユゴー、デュマ。19世紀のパリを舞台に、巨匠出現の必然を捉えながらその人間的な素顔を描ききる、文豪、借金王、色情魔、そして憎めないおじさんたちの傑作評伝。》(BOOKデータベースより)
やや否定的に、日本のバブル期に書かれた本といってしまえば、それに尽きる。文学を事業としてかんがえれば、“名誉、金、女”が価値の源泉なのである。それをわが物とすべく、作家たちは奮闘する。成功者としてのユゴー、デュマ、バルザック。
鹿島さんは、じつにあからさまに表現している。だいたい“愛”など信じてはいないのだ。セックスであり、精液が作り出すドラマなのである(^ε^)
ここには日本特有のセンチメンタリズムが入り込む隙はないし、私小説の出番もない。
1830年代のフランス。イギリスにほんのわずか遅れていたとはいえ、ブルジョア社会のはじまりによって、小説家という種族が生まれてきた。鹿島さんは、そのはじまりのエネルギッシュな光景を素描している。
《今日のフランスの都市で、ナポレオン通りはなくとも、ユゴーの名を冠した目抜き通りのない都市は存在しない・・・》(256ページ)
ふうん、そうなんですか?
ユゴーって亡くなったとき、国葬されたんですよね、たしか。
だけど、ユゴーはこれまで一冊も読んでない。本は持っているだけじゃダメ。
ところが、手に入れるとそのことで満足してしまう。鹿島さんご自身、買っただけで読んでいない本がいくらでもあるとおっしゃっている(*ノv`)
本好きの笑えない現実。
昨日、ショーペンハウエルの「読書について」(岩波文庫)を読んでいたら、こんなことばと衝突した。
《読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読むわれわれは、他人が考えた過程を反復的にたどるにすぎない。》(127ページ)
《ヘロドトスによると、ペルシアの大王クセルクセスは、雲霞のような大軍をながめながら涙した。百年後には、この大軍のだれ一人として生き残ってはいまいと思ったからである。
分厚い図書目録をながめながら泣きたい気持ちに襲われない者がいるだろうか。だれでも、十年たてば、この中の一冊も生き残ってはいまいという思いにうたれるはずである。》(131ページ)
《読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。》(133ページ)
ショーペンハウエルはシニカルな哲学者として知られている。「読書について」は、ほとんど箴言集、寸鉄人を刺すような表現にあふれている。
彼によると、読書は他人にものを考えてもらうことである。だから悪習だというのである。本を読んでいるあいだは、何もしない。
お掃除するわけでも、必要なものを買いにいくわけでもない。端から見たら怠けて寝そべっているのと、何ら変わらない。
人はだれでも、読む人=読者がいるから書くのである。多くの読者に読まれれば、それが自慢になる。日本人は人まねのうまい民族だし、大衆社会の本質は他人志向ということである。
「あなたまだ読んでいないの!? 50万部も売れているんですよ」
その種のことばが、強力な宣伝文句となる( ´◡` )
そういった時代がいつからはじまったのか、鹿島さんの「パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック三大文豪大物くらべ」が、それを教えてくれる。
評価:☆☆☆☆