二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「蟲の声」がすばらしい  ~文人荷風の面目躍如

2024年11月22日 | エッセイ(国内)
昨夜は寝そびれたため、荷風さんの「浮沈・踊子」(岩波文庫 解説:持田叙子)を半分寝ながら読み、その出来映えに興奮してしまって、かえって寝つかれなくなった。

■ 浮沈
■ 踊子
■ 小品

と分かれている。その「小品」は、
蟲の声
冬の夜がたり
枯葉の記

の3篇からなっている。
BOOKデータベースを参照し、この岩波文庫(2019年刊)がどういった内容のものかをみておこう。

《戦時下に執筆された小説2篇、随想3篇を収録。昭和10年代の東京を舞台に、懸命に生きる若い女性の起伏にとんだ日々を描いた『浮沈』、浅草の踊子が、荒廃・緊迫した時代の中を、逞しく生きる姿を活写した『踊子』。戦時下に書かれた散文詩を思わせる小品を併載。時代への批判者による抵抗の文学。終戦直後に発表され、文豪の復活を告げた。(解説=持田叙子)》

浮沈: 5~179(174ページ)
踊子: 183~245(62ページ)
この配分量からかんがえても、この2作が眼玉であろう。

ところが、5~6ページの短いエッセイが、どれも皆ブリリアントな出来栄えをしめしている。
つぎは父久一郎(漢詩をつくるときは禾原かげん)の律詩の冒頭の一部。

一病 天涯に死と隣(となり)と作(な)り
恍然(こうぜん)たり 我は是れ再生の身なりと

息子荷風はこれに対し「父は官途の不遇を歎じられたのである」と感想を述べている。久一郎は明治の大実業家と称してもよい人物であった。

また「枯葉の記」には自作の俳句が引用されている。
おのれにも飽きた姿や破芭蕉(やればしょう)
鶏頭に何を悟らむ寺の庭

俳句は余技だと思われるが、加藤郁乎(いくや)は高く評価している。(「枯葉の記」「雪の日」などが「荷風俳句集」に収録されている。)

《鐘ヶ淵のあたりであった。冬空のさむ気(げ)に暮れかかる放水路の堤を、ひとりとぼとぼ俯向きがちに歩いていた時であった。枯蘆の中の水溜まりに、宵の明星がぽつりと浮いているのを見て、覚えず歩みを止め、夜と共にその光のいよいよ冴えてくるのを何とも知れず眺めていたことがあった。》「枯葉の記」270ページ

これ以上書いてしまっては、感傷におぼれかねない。
一歩手前で、ぴたりと立ち止まる、荷風の手練れのその業の技量にすばらしいものがある。

《ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。
油紙で張った雨傘に門の時雨のはらはらと降りかかる響。
夕日をかすめて啼過(なきすぎる)雁の声。
短夜の夢にふと聞く時鳥(ほととぎす)の声。
雨の夕方渡場の船を呼ぶ人の声。夜網を投込む水音。
荷舟の舵の響。
それらの音響とそれに伴う情景とが吾々の記憶から跡方もなく消えさってから、歳月は既に何十年過ぎているであろう。》「蟲の声」249ページ 引用者による改行

《或年浅草公園の或劇場の稽古に夜を明かしての帰りみち、わたくしは昨夜のままに寝静まった仲店を歩み過ぎた時、敷石を踏む跫音(あしおと)さえ打消すほど、あたり一面に鳴きしきる蛼(こおろぎ)の声をきいて、道に落ちた宝石を拾ったよりも嬉しく思ったことがあった。それも数えればもう七、八年むかしである。》同 250ページ

《枕に就いてからも眠られぬ夜はまた更に、蛼(こおろぎ)の鳴く音を、恋人のささやきよりも懐かしく思わなければなるまい。それは眠られぬ人に向かって、いかほど啼いたからとて、身にあまる生命(いのち)の切なさと悲しさが消去るものではない。蛼は啼くために生まれてきたその生命のかなしさを、ただわけも知らず歎いているのだと、知れざる言葉を以て、生命の苦悩と悲哀を訴えるように思われるからだ。》同 254ページ

荷風さんは、核心を衝いている・・・と思う。
「濹東綺譚」や「断腸亭日乗」だけが卓越しているわけではないのだ。
「小品」にも、彼の面目躍如たるものがある。他に類をみない、すばらしい文章ののど越しといえる。こういうエッセイのテイストを知ってしまうと、クセになるのはわたしばかりではあるまい。

エッセイでは「葡萄棚」、短篇小説では「勲章」。
最近読み返したものとしては、これらも荷風さんの膂力をまざまざと感じさせる秀作である。



※亡くなったとき遺体のそばにあったバッグには、総額2334万円の預金があった。現在の価値でおよそ3億円だそうである。

※2024年慶応大学+市川市(市制施行90周年)によって、永井荷風賞が創設された。賞金は100万円。

※お断り
ときおり引用者による改行があります。

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