「大河の一滴」がおもしろかったので、小説家としてではなく、エッセイスト五木寛之に関心が出てきた。休筆宣言などをして執筆から遠ざかっていた時期もあるようだが、もともと多作の人である。売れているだけに、五木さんの本は、よく散歩にいくBOOK OFFの棚にたくさんならんでいる。
何冊か買ってきたなかから、まずこれを、・・・と考えて読みはじめた。
抑制の効いた、知的で洗練された文体である。お行儀がよくケレンも誇張もなく、ことばが平明で淡々として流れていく。だから、逆にいえば告白的に書かれていても、体臭やテクスチャーがあまり感じられない。朝鮮からの悲惨な引揚げ体験、41歳で若死にした母や、敗残の思いをかかえ、なかば自暴自棄になって死んでいった父への複雑で屈折した感情が、それほど深刻にはつたわってこないのである。
これが五木寛之の流儀、あるいは文体というものか?
「大河の一滴」には、書かずにはいられないという、内在的な衝迫のようなものが感じられたのに、この本では明らかにそのモチベーションが薄められているようなのだ。あるいは、なにか別な音楽が鳴っている。
・私は悪人である。十二歳の夏から五十七年間、ずっとそう思いつづけてきた。
・戦後からずっとそのことが私の心に黒い影をおとしてきた。小説を書きはじめて以来、何度その出来事を作品に書こうと考えたことだろう。しかし、私には、母親のことも、その他のことも、小説というかたちで作品化することにつよい抵抗があって、書けなかったのだ。
・しかし、素朴な告白として扱うには、それにも増して抵抗があった。私がありのままを、ありのままに語ることができるためには、半世紀以上の時間が必要だったのかもしれない。
「読者を意識しているからだろうか」とわたしは考えてみた。初出はもしかしたら、知的な働く女性向けの雑誌ではないか、と。なにやらオブラートでくるまれているような物足りなさ!
そういった物足りなさを、江藤淳の自死について書かれた文章のなかにも感じた。「大悲」などと書かれても、それってきれいごとじゃありませんか、という思いをふっきることができないのである。重たく暗く、読む者のこころにのしかかってくるような内容なのに、読者には必要以上の負担をかけたくない、とでもいうように、表現をおさめてしまう。
「五木寛之とはこういう人なのですよ。それを物足りないと思うなら、あなたは彼のいい読者にはなれません」そんな感じなのかもしれないなあ・・・。
ふとカバー装画、五木玲子という文字に眼がいった。五木さんの配偶者だろうか? だとしたら、これは彼にはめずらしい、きわめてパーソナルな本ということになる。「自分をさらけ出す」ことに対してこれほどストイックなれるとは! あらためてさまざまな感慨が胸中を去来する。
巻末には「この作品は2002年8月小社より刊行されたものです」という一行がある。
五木寛之「運命の足音」幻冬舎文庫>☆☆☆
何冊か買ってきたなかから、まずこれを、・・・と考えて読みはじめた。
抑制の効いた、知的で洗練された文体である。お行儀がよくケレンも誇張もなく、ことばが平明で淡々として流れていく。だから、逆にいえば告白的に書かれていても、体臭やテクスチャーがあまり感じられない。朝鮮からの悲惨な引揚げ体験、41歳で若死にした母や、敗残の思いをかかえ、なかば自暴自棄になって死んでいった父への複雑で屈折した感情が、それほど深刻にはつたわってこないのである。
これが五木寛之の流儀、あるいは文体というものか?
「大河の一滴」には、書かずにはいられないという、内在的な衝迫のようなものが感じられたのに、この本では明らかにそのモチベーションが薄められているようなのだ。あるいは、なにか別な音楽が鳴っている。
・私は悪人である。十二歳の夏から五十七年間、ずっとそう思いつづけてきた。
・戦後からずっとそのことが私の心に黒い影をおとしてきた。小説を書きはじめて以来、何度その出来事を作品に書こうと考えたことだろう。しかし、私には、母親のことも、その他のことも、小説というかたちで作品化することにつよい抵抗があって、書けなかったのだ。
・しかし、素朴な告白として扱うには、それにも増して抵抗があった。私がありのままを、ありのままに語ることができるためには、半世紀以上の時間が必要だったのかもしれない。
「読者を意識しているからだろうか」とわたしは考えてみた。初出はもしかしたら、知的な働く女性向けの雑誌ではないか、と。なにやらオブラートでくるまれているような物足りなさ!
そういった物足りなさを、江藤淳の自死について書かれた文章のなかにも感じた。「大悲」などと書かれても、それってきれいごとじゃありませんか、という思いをふっきることができないのである。重たく暗く、読む者のこころにのしかかってくるような内容なのに、読者には必要以上の負担をかけたくない、とでもいうように、表現をおさめてしまう。
「五木寛之とはこういう人なのですよ。それを物足りないと思うなら、あなたは彼のいい読者にはなれません」そんな感じなのかもしれないなあ・・・。
ふとカバー装画、五木玲子という文字に眼がいった。五木さんの配偶者だろうか? だとしたら、これは彼にはめずらしい、きわめてパーソナルな本ということになる。「自分をさらけ出す」ことに対してこれほどストイックなれるとは! あらためてさまざまな感慨が胸中を去来する。
巻末には「この作品は2002年8月小社より刊行されたものです」という一行がある。
五木寛之「運命の足音」幻冬舎文庫>☆☆☆
50歳を過ぎてから絵を描き始めたとか。
花の内面を じっと見つめているんでしょうね。
私は本はあまり読みませんが、装丁には感心
ありますよ。この装画は目をひきました。
五木さんのエッセイは割りと好きで読みました。
特に旅先での語りは、訪れた国だけでなく
これから行って見たいと思う国など・・・
音楽にも憧憬深く 多才な人ですよね。
syugenさん
一年間 暖かいコメントありがとうございました。
年末年始 ちこっとお出かけします。
2日以降に年始めのご挨拶 うかがいますね。
お越しいただき、ありがとうございます。
いわれてみれば、わたしもこの表紙気になります。
ムンクの絵みたいですよね。
夏目漱石なんかもたいへん絵が好きで、
装幀は自分で手がけたこともあると先日知って、
意外な一面が見えてきました。
岩波書店の記念すべき処女出版が漱石の「こころ」ですが、
その本がいまの文庫本に生かされているのですね。
撮影と読書と、どうして並行してやれないのか、
自分ながら歯がゆい思いをしています