二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

ドストエフスキー「罪と罰」 (1)

2008年01月02日 | ドストエフスキー
 いうまでもなく、世界の名作としてつとに評価が高い、ドストエフスキーの代表作。
 これ一作でもすごいのに「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」と超弩級の傑作長編を四編も残している。いや、まだある。「地下室の手記」や「永遠の夫」、あるいは先日読んだばかりの「死の家の記録」。こういった作品が後世の文学、思想に与えた影響ははかり知れない。「もういまさら付け加えることなどな~んにもないぜ」といわれそうである(^^;)
 しかり、である。また「キリストもしくはロシア正教への理解がなければ、ドストエフスキーを正しく理解できない」といわれるが、これまたしかり、というほかない。配られたカードは一部裏返されたままで、表をしかと確認することができないが、それでも、十分魂の底をゆさぶってくれる。これをドストエフスキー体験というようである。裏返されたカードのどこかに、たとえば、ジョーカー(切り札)がかくされているのではないかと注意深く読みすすめていく。読みすすめていくにしたがって、カードの表が見えてくる。読み手の力、・・・ 読書力が試される。

 時代と国境を超えて読まれつづけているこのような作家は、結局のところ、読み手の試金石なのである。カミュがどう読んだのか、フォークナーがどう読んだのか、あるいは、夏目漱石や小林秀雄がどう読んだのか。「ドストエフスキー体験」は今後も蓄積され、時代と文化の変動に耐えて読みつがれていくであろう。
 「罪と罰」を最初に読んだのはいつだろう。高校の終わりか、大学のはじめではなかったか? 夢中になって読んだが、いまから考えると、はたしてどの程度の理解であったか心もとない。そのあと、30代になってもう一度読んでいる。わたしの記憶に誤りがなければ、これが三度目の読書ということになる。
 最初の訳はたしか米川正夫であった。つぎの二回は、工藤精一郎訳の新潮文庫。活字が大きくなった新装版が出たので、三度目にあたって買いなおしたのである。しかし、考えてみると、わたしは河出書房から刊行されたドストエフスキー全集も持っているし、池田健太郎訳の中央公論社の「世界の文学」でも、この「罪と罰」を持っている。中央公論社版「罪と罰」には、この作品がはじめて世に出た当時の、サンクト・ペテルブルグの地図が掲載されていて、今回も、必要に応じ、いくたびかその地図を参照した。 
 世界にはすぐれた文学がたくさん存在する。本が好きだといっても、大抵の人は、そのなかのほんの一部だけを読んで一生を終えるのである。ちなみに、中央公論社「世界の文学」(赤い装幀の箱入り本)を見ると、全54巻である。この全集には「新集 世界の文学」という続巻があり、いま調べたら、それが46巻である。つまり、合計100巻。こういった全集を全巻そろえて、片っ端から読破していく人も、世の中にはいるのだろうが、わたしが読んだのはそのうちの十数巻にすぎない。しかも、そのほとんどすべてを文庫本で・・・。
 こういったリストを久しぶりに眺めながら、思い出してみた。すると、これまで読んだ世界文学のなかで、特別な本がふたつあることに思いいたった。
 ひとつはこの「罪と罰」、もうひとつはトルストイの「戦争と平和」である。この二冊の読書体験が、とりわけ強烈な印象を残しているのである。古くさいいいかただが、世界観・人生観といったようなものに、決定的な影響をうけたという意味で、読み返すたびに、激しく魂をゆさぶられるのである。ドストエフスキーに関していえば、「悪霊」は非常に難解で「わかった」という感触が薄いが、「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」は、おもしろかった。読みながら手を休め、考え込んでから、またゆっくり先へすすんで、あらたなストーリーの展開に直面していく。ドストエフスキーの小説は異常な人間、異常な事件のオンパレードである。個性ある大きな人間は、その全体像がなかなかわからない。読み終わってから、読み終わった本の余韻をひきずりながら考えてしまうこともしばしば。

 そういったなかにあって、この「罪と罰」こそ、わたしをいちばん夢中にさせた小説であった。正直にいえば「白痴」「悪霊」は読了するのに、かなりの忍耐を要する。登場人物たちのあの有名な長広舌! 見通しのきかない、だらだらとしたストーリー展開! そういった欠点にうんざりして、途中で投げ出したこともあった。そういう意味では、「罪と罰」はむだがなく、作品としてすばらしい出来映えを誇っている。すくなくとも、読み出したら、途中でやめるなど考えられない。ここでは奇跡が起こっているのだ。ドストエフスキーが、まさにドストエフスキーとなっていく瞬間、瞬間に立ち会っているからである。
「いや、のちのドストエフスキーの萌芽は処女作『貧しき人びと』のなかにある」という人もあろう。また「思想的な転換となったのは『地下室の手記』です。ジイドやシェストフはじめ、多くの批評家がその観点から論じているではありませんか」というかもしれない。だが、わたしはそういった考えに疑問を投じたいのである。
 ドストエフスキーの深遠な思想など、馬に食わせてしまってかまわない。彼は哲学者でも、思想家でもなく、まさに小説家であった。人間がどんな場所に住み暮らし、どんなものを食べ、どんな風に人を愛し、どんな粗末な思想のなかで生き、そして死んでいくのかを見とどけようとしたのである。「多様で奇怪な人間像」としてのタペストリーのような世界。ほんの「片隅の物語」にすぎないのに、一見トリビアルで卑近な日常が延々と描かれているだけなのに、われわれはなぜこのように感動するのかを考えてみるべきである。
 ラスコーリニコフはドストエフスキーではないし、ムイシュキンやロゴージン、キリーロフやスタヴローギン、イワンもドストエフスキーが生み出した作中の「登場人物」にすぎまい。

 壮大な対話劇としての小説。登場人物たちは、多くの場合、読者に直接語っているのではなく、他の登場人物に話しかけているのである。また「罪と罰」はドストエフスキーが書いた、唯一無二の都市小説であることも忘れてはなるまい。第二の主役は、哀れな、あるいは奇怪な人間をつぎつぎ生み出した、当時のペテルブルグかもしれないのだから・・・。
 <2へつづく・・・>
 
 ドストエフスキー「罪と罰」工藤精一郎訳 新潮文庫>☆☆☆☆☆ 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 運命の足音 | トップ | ドストエフスキー「罪と罰」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ドストエフスキー」カテゴリの最新記事