(青柳いづみこ「音楽と文学の対位法」中公文庫)
フランス音楽を家ネズミみたいにガリガリ囓っているところなのだが、さあて、本丸ともいえるドビュッシーである。
青柳いづみこさんは、つぎのように思索をめぐらしておられる。
《(ピアニスト・ドビュッシーの手は)大きくてよく拡がり、左手は並はずれて広い音域をつかむことができた。しかし指さばきに難があり、とくにとなりあった指をすばやく交互に動かすトリルにてこずった。》(264ページ)
《ランボーがロマン主義から大きく一歩を踏み出し、定型詩に引導を渡して二十世紀への扉をあけたとすれば、ドビュッシーもまた、巨大なワーグナーの影響から脱却し、機能和声音楽に引導を渡し、二十世紀音楽への扉を開いたことは間違いない。》(276ページ)
《ドビュッシーは、のちにメシアンが発展させた「移調の限られた旋法」をはじめ、微細な段階で変化するさまざまな音列をつくり、さらにその上にさまざまな組み合わせで和音を積み上げ、一種の「音色の音階」を考案した人として知られている。その独特の語法も、きっかけは、鍵盤上で彼の指がさがしあてたものだろう。》(292ページ)
《「玉虫色のアルペッジョ」や、「三重トリル」は、後期の作品に沢山登場する。「映像第二集」の<葉ずえをわたる鐘の音>では二種類の全音音階が、<金色の魚>ではさまざまな音列の五音音階の組み合わせが、文字通り玉虫色にきらめく。
ブーレーズが二十世紀音楽の扉を開いたと語った「前奏曲 第二巻」の<霧>や、フランス国歌が使われている<花火>、ジェームズ・バリ「ケンジントン公園のピーターパン」の絵本にヒントを得た<妖精はよい踊り手>では、黒鍵と白鍵の織りなす“響きの帯”が激しくうちふるえる。
ピアノ曲以外では交響的エスキス「海」の<波の戯れ>が、玉虫色のアルペッジョや三重トリルの美しい成功例だし、<聖セバスティアンの殉教>や<遊戯>は音色の音階のもっともラディカルな実験例だ。》(294ページ)
引用が大分長くなってしまった。
彼女は、カッコを多用しているので、それをはずしたところもあるが、文章はすべて「ランボーの手、ドビュッシーの手」(「音楽と文学の対位法」所収。中公文庫)から引用。
いずれも鋭い示唆に満ちた、この人ならではの考察である。
フランス文学に対する理解度も、わたしの目には超一流なものに映る。
この論考「ランボーの手、ドビュッシーの手」は、比較文学的手法で、ランボーの詩と、ドビュッシーの音楽の本質を浮かびあがらせようとしたもの。
ドビュッシーの音楽への階段がかりに15段あったとして、わたしのように、2段目、3段目をいつまでもうろついている者にとっては、本論考はたいへん刺激的である。
ドビュッシーの音楽は、巨大なワーグナーの影響から脱却して、機能和声音楽に引導を渡し、二十世紀音楽への扉を開いたものとして、ここで評価されている。
「そうか、そういうことであったか!」
重要なヒント・・・ドビュッシーの階段を、一歩二歩あがっていくための手がかりが、ほかにもあちらこちらばらまかれているが、長くなるから引用はしない。核心部分は、ここに書き込まれている片言隻句で、ほぼカヴァーできる(^^)/
フランス象徴詩の最高峰に位置するアルチュール・ランボーに対しても、この著者はなみなみならぬ鋭利な理解をしめしている。
小林秀雄訳のランボー詩集と出会ったのは、わたしの思春期の“事件”(大げさだが)であった。
そのランボーとドビュッシーが、この論考の中で、意外な遭遇をはたしているのが、ワクワクするほど興味深かった。
青柳いづみこさんのご本は、これからも何冊か読む予定。
いやはや、前世代の吉田秀和さんにもまさるとも劣らない優れた論客である。
ランボーとドビュッシーにこういった接点があることを見抜いた青柳さんに脱帽である。
(昨日入手したシリーズもの廉価盤。ハイティンク指揮 王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管。 PHILIPS)
(「前奏曲 第一巻」と「喜びの島」が収録されている、ポリーニのディスク。DG)
正直いうと、わたしには有名な交響詩「海」や「牧神の午後への前奏曲」が、これまで退屈で仕方なかった。ピアノ曲の場合でも、「前奏曲 第一巻」や2-3の曲を除くと、いささか忍耐を強いられてきた。
ところが、ここへきて、いくらか視界が開けはじめた。
(右はワイセンベルク、左はミシェル・ベロフのCD。DG DENON)
(右はモニカ・アース、ピアノの「ベルがマスク組曲」ほか ERATO
左はバレンボイム指揮 パリ管の「海」ほか DG)
わたしには、青柳さんの論説に付け加えることはなにもない。ただ、この数日で階段を一つあがることができたかもしれない・・・と感じてはいる。
ドイツ語圏の音楽だけが、クラシックなのではない。
・イタリアの音楽
・フランスの音楽
・ロシアの音楽
分け入っていくと、それぞれの宮殿の中は、ほの暗い迷宮のように錯綜している。わたしのような初心者には、ぜひともガイド役がほしいところ(^^♪
昨年12月から、音楽関連図書だけで2-30冊の本が集まってきた。
青柳さんは、現在のわたしにとって、ドビュッシーに関してはサイコーの案内役。こういう人がいなかったら、上の踏み段をめざすことはできないだろう。
最後にひとこと、ドビュッシーの音楽は、スピーカーのボリュームを、1または2目盛りあげて聴くのがコツ。
いえいえ、笑い話じゃなくて♪
どちらにせよ、ドビュッシーは、ブルックナーやマーラー、ショスタコーヴィチのような大長編の作家ではなく、短編作家、せいぜい短編連作止まりなので、途中で眠りこけてしまったとしても、目覚めたとき、たとえば第5番目の一曲から聴きなおしたりできる気楽さ、軽快さが持ち味なのですねぇ(・´ω`・)アハハ
高齢者向きですよ、案外。
フランス音楽を家ネズミみたいにガリガリ囓っているところなのだが、さあて、本丸ともいえるドビュッシーである。
青柳いづみこさんは、つぎのように思索をめぐらしておられる。
《(ピアニスト・ドビュッシーの手は)大きくてよく拡がり、左手は並はずれて広い音域をつかむことができた。しかし指さばきに難があり、とくにとなりあった指をすばやく交互に動かすトリルにてこずった。》(264ページ)
《ランボーがロマン主義から大きく一歩を踏み出し、定型詩に引導を渡して二十世紀への扉をあけたとすれば、ドビュッシーもまた、巨大なワーグナーの影響から脱却し、機能和声音楽に引導を渡し、二十世紀音楽への扉を開いたことは間違いない。》(276ページ)
《ドビュッシーは、のちにメシアンが発展させた「移調の限られた旋法」をはじめ、微細な段階で変化するさまざまな音列をつくり、さらにその上にさまざまな組み合わせで和音を積み上げ、一種の「音色の音階」を考案した人として知られている。その独特の語法も、きっかけは、鍵盤上で彼の指がさがしあてたものだろう。》(292ページ)
《「玉虫色のアルペッジョ」や、「三重トリル」は、後期の作品に沢山登場する。「映像第二集」の<葉ずえをわたる鐘の音>では二種類の全音音階が、<金色の魚>ではさまざまな音列の五音音階の組み合わせが、文字通り玉虫色にきらめく。
ブーレーズが二十世紀音楽の扉を開いたと語った「前奏曲 第二巻」の<霧>や、フランス国歌が使われている<花火>、ジェームズ・バリ「ケンジントン公園のピーターパン」の絵本にヒントを得た<妖精はよい踊り手>では、黒鍵と白鍵の織りなす“響きの帯”が激しくうちふるえる。
ピアノ曲以外では交響的エスキス「海」の<波の戯れ>が、玉虫色のアルペッジョや三重トリルの美しい成功例だし、<聖セバスティアンの殉教>や<遊戯>は音色の音階のもっともラディカルな実験例だ。》(294ページ)
引用が大分長くなってしまった。
彼女は、カッコを多用しているので、それをはずしたところもあるが、文章はすべて「ランボーの手、ドビュッシーの手」(「音楽と文学の対位法」所収。中公文庫)から引用。
いずれも鋭い示唆に満ちた、この人ならではの考察である。
フランス文学に対する理解度も、わたしの目には超一流なものに映る。
この論考「ランボーの手、ドビュッシーの手」は、比較文学的手法で、ランボーの詩と、ドビュッシーの音楽の本質を浮かびあがらせようとしたもの。
ドビュッシーの音楽への階段がかりに15段あったとして、わたしのように、2段目、3段目をいつまでもうろついている者にとっては、本論考はたいへん刺激的である。
ドビュッシーの音楽は、巨大なワーグナーの影響から脱却して、機能和声音楽に引導を渡し、二十世紀音楽への扉を開いたものとして、ここで評価されている。
「そうか、そういうことであったか!」
重要なヒント・・・ドビュッシーの階段を、一歩二歩あがっていくための手がかりが、ほかにもあちらこちらばらまかれているが、長くなるから引用はしない。核心部分は、ここに書き込まれている片言隻句で、ほぼカヴァーできる(^^)/
フランス象徴詩の最高峰に位置するアルチュール・ランボーに対しても、この著者はなみなみならぬ鋭利な理解をしめしている。
小林秀雄訳のランボー詩集と出会ったのは、わたしの思春期の“事件”(大げさだが)であった。
そのランボーとドビュッシーが、この論考の中で、意外な遭遇をはたしているのが、ワクワクするほど興味深かった。
青柳いづみこさんのご本は、これからも何冊か読む予定。
いやはや、前世代の吉田秀和さんにもまさるとも劣らない優れた論客である。
ランボーとドビュッシーにこういった接点があることを見抜いた青柳さんに脱帽である。
(昨日入手したシリーズもの廉価盤。ハイティンク指揮 王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管。 PHILIPS)
(「前奏曲 第一巻」と「喜びの島」が収録されている、ポリーニのディスク。DG)
正直いうと、わたしには有名な交響詩「海」や「牧神の午後への前奏曲」が、これまで退屈で仕方なかった。ピアノ曲の場合でも、「前奏曲 第一巻」や2-3の曲を除くと、いささか忍耐を強いられてきた。
ところが、ここへきて、いくらか視界が開けはじめた。
(右はワイセンベルク、左はミシェル・ベロフのCD。DG DENON)
(右はモニカ・アース、ピアノの「ベルがマスク組曲」ほか ERATO
左はバレンボイム指揮 パリ管の「海」ほか DG)
わたしには、青柳さんの論説に付け加えることはなにもない。ただ、この数日で階段を一つあがることができたかもしれない・・・と感じてはいる。
ドイツ語圏の音楽だけが、クラシックなのではない。
・イタリアの音楽
・フランスの音楽
・ロシアの音楽
分け入っていくと、それぞれの宮殿の中は、ほの暗い迷宮のように錯綜している。わたしのような初心者には、ぜひともガイド役がほしいところ(^^♪
昨年12月から、音楽関連図書だけで2-30冊の本が集まってきた。
青柳さんは、現在のわたしにとって、ドビュッシーに関してはサイコーの案内役。こういう人がいなかったら、上の踏み段をめざすことはできないだろう。
最後にひとこと、ドビュッシーの音楽は、スピーカーのボリュームを、1または2目盛りあげて聴くのがコツ。
いえいえ、笑い話じゃなくて♪
どちらにせよ、ドビュッシーは、ブルックナーやマーラー、ショスタコーヴィチのような大長編の作家ではなく、短編作家、せいぜい短編連作止まりなので、途中で眠りこけてしまったとしても、目覚めたとき、たとえば第5番目の一曲から聴きなおしたりできる気楽さ、軽快さが持ち味なのですねぇ(・´ω`・)アハハ
高齢者向きですよ、案外。