二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

モーツァルトという魔法の杖♪

2020年07月14日 | 音楽(クラシック関連)
   (本稿を書きはじめる前まで、若いころの育ての親をワルターだと勘違いしていた)



交響曲というのは、ハイドンにはじまり、モーツァルトでいきなり頂点に達する。
後期のつぎの6曲は、いまでもよく演奏される、世界中で。
交響曲 第35番ニ長調 “ハフナー”
交響曲 第36番ハ長調 “リンツ”
交響曲 第38番ニ長調 “プラハ”
交響曲 第39番変ホ長調
交響曲 第40番ト短調
交響曲 第41番ハ長調 “ジュピター”

これ以外では第25番ト短調(小ト短調)、第29番イ長調、第31番ニ長調“パリ”、第33番変ロ長調等々が、ことあるごとに演奏され、親しまれているようだ。
ハイドンに比べたら少ないけれど、ベートーヴェン以降の作曲家の仕事をかんがえると、41曲は驚くほど多いといえる。
なぜそうなったのかは理由がある。
アメリカの独立、フランス革命にはじまる時代の大きなうねりがもたらす西欧世界の大変動と、ベートーヴェンという天才の存在が交響曲に決定的な影響を与えたというのが、その第一の理由。
ベートーヴェン以後は、交響曲をつくろうとすれば、だれもがベートーヴェンを意識せずにはいられなかったのだ。

ブルックナーやマーラーにいたって、交響曲はますます重厚長大になっていくから、いくら才能豊かな作曲家でも、おいそれとは作曲できなかったし、発表もできなかった。
その点、モーツァルトはもっと気軽に、明るい気分の交響曲を作曲することができた。
どの交響曲も演奏時間30分もかからない規模だし、第38番ニ長調“プラハ”あたりまでは、祝典的な気分が横溢している。
第25番ト短調(小ト短調)はむしろ例外的なのだ。最後の3曲にそのまま通じるような、内面的悲劇性を備えているようにきこえる。この曲は映画「アマデウス」のプロローグで使われとても有名になったようだけれど、クレンペラー盤が定番といっていい位置を長期間にわたってしめていて、わたしの愛聴盤もこれ。
この10年あまりはアーノンクール盤の評価が安定し、新定番という人もいるが、わたしは聴いたことがない。

第40番ト短調は中学生3年生のとき、音楽の授業ではじめて耳にし、高校生になってから、喫茶店“あすなろ”(詩人が集まる名曲喫茶)で、ワルター、あるいはベームでたびたび聴き、すっかり取憑かれたようになった。
小林秀雄の「モーツァルト」を読んだのは、高校3年のころではなかったかしら?

だけど、そのあとどーなったかというと、第38番ニ長調“プラハ”までの若いころのモーツァルトの交響曲には、さしたる関心がもてなかった。
むしろ、第20番ニ短調から第27番変ロ長調までのピアノ協奏曲にすっかりのぼせ上がっていたからだ|*。Д`|┛
協奏曲ではほかにヴァイオリン協奏曲も聴いたが、「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」だとか「フルート協奏曲」の魅力に真に気がついたのは、後年のこと。
さらに、「クラリネット五重奏曲」にはまったのなんて、ここ数年の出来事。あきれるほど晩稲であったのだ。

そんなプライベートなことだらだらと書いても仕方ないので、今季よくCDトレイにのせた“名盤”のことをちょっとメモして終わりにしよう(^^♪



  (ピリオド楽器の演奏家も多少は聴く。あまり好きとはいえないが)


  (クレンペラー&フィルハーモニア管の2枚。辛口好みにはぴったり)


  (新編集されたモーツァルト全集に基づくというレヴァイン&ウィーン・フィルの2枚のサウンドはさすがクリア)


「なんとなく、ふっと聴きたくなったから聴く」
それが、わたしのモーツァルトの聴き方。ベートーヴェンだとか、ブルックナーだと、そう気軽には聴くことができない。
マーラーあたりになると、聴くまえから身構えて「さあて、マーラーを聴くぞ!」と気合いを入れないと、緊張感が最後までつづかない。そういう意味で、モーツァルトは身近に存在する音楽だし、なくてはならない、親しい日常の必須アイテム。

今季は写真はそっちのけで、クラシック音楽に首ったけだった。
「名曲名盤500」「名曲名盤300」なんていう雑誌の増刊号を参考にしながら、音と響きの世界に入り浸っていた。
この数週間は少し一段落したけどね。
第29番イ長調は陰翳の濃い曲だし、たった4日間で作曲されたという第36番ハ長調“リンツ”なんて気品と優雅な身ごなしがすばらしく、とてもなごやかな明るい気分に浸れる(^ー^)ノ
どの演奏が1番いいとか、これはつまらないなどといわず、それぞれの個性をぜーんぶ愉しんじゃえ・・・というスタイルでいこうね。
鬱陶しく、暗澹たる気分を持てあましているようなとき、落ち着かなくて、ほとんどなにも手につかないとき、モーツァルトの音楽がこころに寄り添って慰めてくれる。
たより甲斐のあるチャーミングな魔法の杖なのだ。

現在、彼女はいないけれど、それに近い、あるいはそれを超える存在が、わたしのモーツァルト・・・不特定多数のだれかに向かって、そういってみたいということだ。
仕事をやめて自由時間がふえたことと、感染症の流行が、わたしの「趣味の生活」に影響を与えている・・・それも認めざるをえない。


  (これがベームの35番~41番CDセット、輸入盤。データをたしかめると1960年代のもの。)


本稿を書くにあたって、手許にあるディスク(むろんモーツァルトの交響曲)を初期のものをのぞきすべて聴きなおした。そしていつのころからか「おれはワルターを聴いて、モーツァルトのイメージをつくってきたのだ」という思い込みが錯覚であったことがこのたび判明。
冒頭にしるしたように、とんだ勘違いで、じつはカール・ベーム&ベルリン・フィルに負うところが極めて大きかった(~o~)タハハ

ワルターはどちらかというとロマンチックで感情優先、いかにも古色蒼然たる雰囲気。
しかしベームは知情意のバランスがじつに見事で、それほど古めかしさは感じられない。時代がいくらか新しいせいか、録音技師の腕がよかったせいか、録音状態もいい。
ブラームスの4枚の交響曲を聴く場合でも、わたしは無意識のうちにベームの演奏を価値判断の基準にしている。
価値判断の基準がないと、辛いだの甘いだのとはいっていられない。ただし、ベートーヴェンにはこの基準が通用しない。
なぜだろうと、いま、かんがえている。


  (今季はこんなCDも新たに手に入れたので、第39~41番はこれら2種類であきれるほど聴いた)

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