(後ろは本日のわが家)
吉田秀和さんの「世界の指揮者」(新潮文庫)をパラパラとめくっていたら、つぎのような一文と再会した。
《かわいそうな天才ローベルト・シューマンはオーケストラのために書く時、いわばモーツァルト的な、音のテクスチュアの透明と輝かしさも発揮できなければ、ベートーヴェンのあの抵抗感と重量感のある音響も得られなければ、ベルリオーズ、R・シュトラウス的な多彩にして豪華な響きも楽器のソロ的組合わせも手中のものとすることができなかった。
彼は、とかく、弦、木管を重ねすぎ、結局どの楽器の音もその特性を失い、音の艶と輝きも出せぬ中間色的なもので全曲を塗りつぶしてしまう。そのうえ、最大の欠点は、高音域と中声と低音域との配分が悪いために、バランスが失われがちな結果をひきおこす。
シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を、操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。》(32ページ。原文のまま、ただし筆者の判断で改行)
この文庫本をいつ買って、いつ読んだのか、もう思い出すことができない。
奥付には、
昭和五十七年八月十五日 印刷
昭和五十七年八月二十五日 発行
の記載がある。
ヤケがひどく、いかにも古本といった感じ。おそらく昭和60年ころ買い、その後すぐに読みおえたものと思われる。鉛筆でこの部分に「」のマークがほどこしてある
あとになってチェックしたくなったとき、すぐに見つけられるよう、傍線をひいたり、鉛筆で括弧をつけたりするクセがあるのだ。
「そうか、シューマンの交響曲にはそういった欠点があるのか。忘れないようにしよう」
おそらく、そう考えたはずだ。
クラシック音楽を聴くうえで、かつては吉田秀和さんのことばは、わたしには千鈞の重みがあった。
基礎知識がなく、楽譜が読めないわたしは、結局のところ、こういったことばによって、音楽のふところにもぐり込んでいくしかない。
《シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。》
シューマンの音楽を聴きながら、わたしはこのことばにたえずひっかかっていた・・・のではなかったろうか?
ことばと音楽は表徴としては親戚同士。それらは「わたし」の外側にも、内側にも同時に存在する。
ところで、ここには衝撃映像がある。
https://www.youtube.com/watch?v=iho1yS2EPJI&t=24s
バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を弾くグレン・グールド。
彼はどこへでも持ち歩いたという専用の低い椅子に坐って、鍵盤に屈み込んで、何やらぶつぶつつぶやきながら演奏している。
はじめてこの動画をみたとき、「うーむ、これじゃ精神障害者と紙一重だなあ」と考えたものだ。
しかし、彼はじつは驚くべき天才であった。「ゴールドベルグ変奏曲」をはじめとするバッハのピアノ曲の演奏に関しては、現在でも圧倒的な人気を誇る鬼才。
(ネット上からお借りしました)
彼はどんなことをつぶやいているのだろう(?_?)
「ゴールドベルグ変奏曲」には1955年盤のモノラルと、1981年録音のデジタル盤があり、わたしはその両方をもっている。
そこでも、ハミングやら、うなり声やら、つぶやきがきこえてくる。
表徴として考えれば、ことばは音楽であり、音楽はことばである。彼の演奏姿が、そのことを実証していると思える。
彼はバッハのほかにもモーツァルトやベートーヴェンで、たいへん個性的な演奏をいくつも残している。
好きか嫌いかといえば、決して好きな・・・といえるピアニストではないが、バッハをピアノで演奏するというとき、彼の演奏には看過し得ない重みがあることは認めざるを得ないだろう。
(「ゴールドベルグ変奏曲」バッハ 1981年)
(「インヴェンションとシンフォニア 全曲」バッハ)
(モーツァルト ピアノソナタ集)
ことばと音楽が分かちがたくねじり合わされ、一本のロープのように、演奏する人の胸の奥から虚空へ向かってくねくねと伸びていくさまは鮮烈な印象を残さずにはいない。
音楽にとって、ことばは必ずしもノイズではない、ということを、わたしはグレン・グールドから教わった(^^)/
古いライヴ音源には、聴衆の咳やくしゃみが録音されていることが多い。そしてそれらは雑音以外の何ものでもない。
ピアニストでいえば、グールドのほか、フリードリヒ・グルダにも、ハミングやらつぶやきやらがしばしばきかれる。
音楽の中にことばが、ことばの中に音楽が浸透しあっている。
そこでなにが起こっているのか!?
少々カッコよくいえば、彼らはそこで魂を飛翔させている、ということになろう。
ことばと音楽とのスリリング極まりない関係・・・わたしがシューマンの音楽を聴きながら、ほとんどいつも(いつも!)吉田さんの表現を思い出すのには、こういう理由がある。
(グールド理解の必読書「孤独のアリア」)
吉田秀和さんの「世界の指揮者」(新潮文庫)をパラパラとめくっていたら、つぎのような一文と再会した。
《かわいそうな天才ローベルト・シューマンはオーケストラのために書く時、いわばモーツァルト的な、音のテクスチュアの透明と輝かしさも発揮できなければ、ベートーヴェンのあの抵抗感と重量感のある音響も得られなければ、ベルリオーズ、R・シュトラウス的な多彩にして豪華な響きも楽器のソロ的組合わせも手中のものとすることができなかった。
彼は、とかく、弦、木管を重ねすぎ、結局どの楽器の音もその特性を失い、音の艶と輝きも出せぬ中間色的なもので全曲を塗りつぶしてしまう。そのうえ、最大の欠点は、高音域と中声と低音域との配分が悪いために、バランスが失われがちな結果をひきおこす。
シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を、操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。》(32ページ。原文のまま、ただし筆者の判断で改行)
この文庫本をいつ買って、いつ読んだのか、もう思い出すことができない。
奥付には、
昭和五十七年八月十五日 印刷
昭和五十七年八月二十五日 発行
の記載がある。
ヤケがひどく、いかにも古本といった感じ。おそらく昭和60年ころ買い、その後すぐに読みおえたものと思われる。鉛筆でこの部分に「」のマークがほどこしてある
あとになってチェックしたくなったとき、すぐに見つけられるよう、傍線をひいたり、鉛筆で括弧をつけたりするクセがあるのだ。
「そうか、シューマンの交響曲にはそういった欠点があるのか。忘れないようにしよう」
おそらく、そう考えたはずだ。
クラシック音楽を聴くうえで、かつては吉田秀和さんのことばは、わたしには千鈞の重みがあった。
基礎知識がなく、楽譜が読めないわたしは、結局のところ、こういったことばによって、音楽のふところにもぐり込んでいくしかない。
《シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。》
シューマンの音楽を聴きながら、わたしはこのことばにたえずひっかかっていた・・・のではなかったろうか?
ことばと音楽は表徴としては親戚同士。それらは「わたし」の外側にも、内側にも同時に存在する。
ところで、ここには衝撃映像がある。
https://www.youtube.com/watch?v=iho1yS2EPJI&t=24s
バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を弾くグレン・グールド。
彼はどこへでも持ち歩いたという専用の低い椅子に坐って、鍵盤に屈み込んで、何やらぶつぶつつぶやきながら演奏している。
はじめてこの動画をみたとき、「うーむ、これじゃ精神障害者と紙一重だなあ」と考えたものだ。
しかし、彼はじつは驚くべき天才であった。「ゴールドベルグ変奏曲」をはじめとするバッハのピアノ曲の演奏に関しては、現在でも圧倒的な人気を誇る鬼才。
(ネット上からお借りしました)
彼はどんなことをつぶやいているのだろう(?_?)
「ゴールドベルグ変奏曲」には1955年盤のモノラルと、1981年録音のデジタル盤があり、わたしはその両方をもっている。
そこでも、ハミングやら、うなり声やら、つぶやきがきこえてくる。
表徴として考えれば、ことばは音楽であり、音楽はことばである。彼の演奏姿が、そのことを実証していると思える。
彼はバッハのほかにもモーツァルトやベートーヴェンで、たいへん個性的な演奏をいくつも残している。
好きか嫌いかといえば、決して好きな・・・といえるピアニストではないが、バッハをピアノで演奏するというとき、彼の演奏には看過し得ない重みがあることは認めざるを得ないだろう。
(「ゴールドベルグ変奏曲」バッハ 1981年)
(「インヴェンションとシンフォニア 全曲」バッハ)
(モーツァルト ピアノソナタ集)
ことばと音楽が分かちがたくねじり合わされ、一本のロープのように、演奏する人の胸の奥から虚空へ向かってくねくねと伸びていくさまは鮮烈な印象を残さずにはいない。
音楽にとって、ことばは必ずしもノイズではない、ということを、わたしはグレン・グールドから教わった(^^)/
古いライヴ音源には、聴衆の咳やくしゃみが録音されていることが多い。そしてそれらは雑音以外の何ものでもない。
ピアニストでいえば、グールドのほか、フリードリヒ・グルダにも、ハミングやらつぶやきやらがしばしばきかれる。
音楽の中にことばが、ことばの中に音楽が浸透しあっている。
そこでなにが起こっているのか!?
少々カッコよくいえば、彼らはそこで魂を飛翔させている、ということになろう。
ことばと音楽とのスリリング極まりない関係・・・わたしがシューマンの音楽を聴きながら、ほとんどいつも(いつも!)吉田さんの表現を思い出すのには、こういう理由がある。
(グールド理解の必読書「孤独のアリア」)