メルロ=ポンティの「眼と精神」(木田元・滝浦静雄共訳 みすず書房 1966年)を買ったのは、たぶんまだ東京にいたころだから、20代の終わりころ。
サルトルやカミュなど、実存主義と呼ばれる思想家・文学者がまだ、一部の学生のあいだでよく読まれていた時代。
わたしの場合、カミュは高校のとき、親しくしていた友人Tさんが「シーシュポスの神話」の熱烈な信奉者だった関係で、はじめて手にした“哲学書”(本当は文学論とすべきかもしれないが)。
カミュの「異邦人」、「ペスト」をつづけて読み、サルトルの「存在と無」や「想像力の問題」等も、神田の古書店で買って読もうとした記憶がある。
したがって、木田元さんのお名前は、フッサール、メルロ=ポンティのわが国における権威として存じ上げていた。
サルトルやカミュを理解するためには、フッサールや、メルロ=ポンティを、そしてハイデッガーを知らなければならないと、そのころはかんがえていた。そういった「青春の一時期」があったということだ。
現在つきあいのある友人にも、哲学科出身者がいる。たいへんなおしゃべりなので、ときにいささか辟易しながら、彼の「長広舌」(・・・失礼!)に半分くらいは耳をすませている。
木田元さんは先日「哲学散歩」(文春文庫)をなかなかおもしろく読みおえたばかり。
で、本屋で少し立ち読みしたあと、本書を買って帰り、一昨夜遅く、読みおえることができた。
つまらなければ途中でやめてしまおうと思っていた。ほかにたくさん書籍がスタンバイしているから、ムリして読了する必要はない。時間が惜しいのである。
ところがそういったためらいを見事に拭い去ってくれた。
解説の三浦雅士さんが「名演奏家・木田元」と書いているけど、まさに名演奏家である。
ガンで胃の手術をうけたあと、その病後に編集者に向かって「反哲学」の話をし、その内容をまとめたものが本書であるという。まったく予備知識のないような人を相手にして、療養中の自宅で、ご自身が半生を捧げた哲学、反哲学について語る。
そして、恥ずかしながら、西洋哲学の通史を、わたしははじめて読むことになった。
ソクラテス=プラトン、そしてアリストテレス。哲学とは、煎じつめるとギリシア哲学のことである・・・と、木田さんは喝破している。そこに、ヨーロッパ思想の核心がある。
キリスト教は、はじめローカルな民間信仰として出発しながら、ギリシア哲学にもとづいていわば理論武装し、古代末期、世界宗教へと歩みはじめる。
キリスト教の“神学”とは、そういうものであって、哲学とは、ある時期まで、同じ貨幣のいわば表と裏の関係にあった。
プラトンのイデアが、神にかわったのである。
われわれ日本人から見ると、そう見えるということであろう。
この本で興味深いのは、哲学を歴史的な視座から読み込んでいること。
発生はもちろんのこと、時代による変遷、国家・民族による変移の軌跡を、ごく大雑把にではあるが、トレースしている。そもそもギリシア哲学を知らないと、その後のヨーロッパで展開されることとなった哲学の潮流がつかめないのだから。
《当然そこでは、<存在するもの>の全体が<作られたもの>あるいは<作られうるもの>、いわば制作の無機的な材料と見られます。自然を死せる物質(質量・材料としての)と見る<物質的自然観>と言っていいかもいいかもしれません。<西洋>と呼ばれる文化圏での文化形成はそうした存在観念、そうした自然観の上に立って行われてきたにちがいありません。》(本書274ページ)
ところが、ニーチェの出現以降、この哲学の流れが、がらりと変わると、木田さんはいう。
以前も知らず、以後も知らないながら、そう指摘されてみると、何となく「ははあ・・・」と思いあたるふしがある。一般の初心者向けに書かれた「通俗解説書」のたぐいは何冊か読んでいる(ノ_・。)
木田さんによれば、デカルトあたりに象徴されるようなヨーロッパ的な合理主義に支えたられた諸価値の転換を目指し、壮大な体系を築こうとして倒れたニーチェ。そこから「反哲学」の時代がはじまったのである。ハイデッガーの「存在と時間」が、そういった反哲学の潮流を決定づけた。
本書は編集者に対する「語り下ろし」に加筆したものなので、肩の力を抜いてリラックスした雰囲気があり、初心者にもまことにわかりやすく語られている。
死に直面したことが、この老哲学者をある心境にみちびいたのだろうか。文庫版で290ページの小著だが、その内容はきわめて濃いといわねばならない。わたしももっと若いころ、こういう本と出会っていたら、いまよりははるかに哲学に親しむことができたろう。
最近は新訳のおかげでずいぶん読みやすくはなってはいる。しかし、ドイツ観念論、カントやヘーゲルなど、逆立ちしたって、わたしには理解できない世界である。
なぜソクラテスは、あのとき、あそこで毒杯を仰いで死ななければならなかったのか?
これはわたしが、中学生のころからぼんやり抱き、抱きつづけてきた疑問である。この世界においてヨーロッパの優位性は疑いのないものと思ってきた。明治以降、学問も技術も、ヨーロッパに追いつくことが、国家的な《至上命題》であった。太平洋戦争で敗れてからは、ヨーロッパにかわって、アメリカとアメリカ文化がその地位をしめる。
木田さんはハッキリといっているが、大半の日本人にとって、哲学は「無用のもの」なのである。だから、日本の社会に、西洋哲学的な考えは根をおろさなかったし、これからもそうだろう。キリスト教もしかりだが、日本文化に対する影響は、ごくごく例外的なものをのぞき、ほとんどないに等しい。
しかし、依然としてヨーロッパと、ヨーロッパ文化から学ばねばならないものは多い。
そこが悩ましいのである。
だから・・・だから木田さんのようなプロフェッサーが登場したのだし、こういった本が意外にも多数の人たちに読まれるのである(mixiのレビューに32件のコメントがある)。
かくいうわたしも、、むろんその中の一人( ´。`)
評価:☆☆☆☆
サルトルやカミュなど、実存主義と呼ばれる思想家・文学者がまだ、一部の学生のあいだでよく読まれていた時代。
わたしの場合、カミュは高校のとき、親しくしていた友人Tさんが「シーシュポスの神話」の熱烈な信奉者だった関係で、はじめて手にした“哲学書”(本当は文学論とすべきかもしれないが)。
カミュの「異邦人」、「ペスト」をつづけて読み、サルトルの「存在と無」や「想像力の問題」等も、神田の古書店で買って読もうとした記憶がある。
したがって、木田元さんのお名前は、フッサール、メルロ=ポンティのわが国における権威として存じ上げていた。
サルトルやカミュを理解するためには、フッサールや、メルロ=ポンティを、そしてハイデッガーを知らなければならないと、そのころはかんがえていた。そういった「青春の一時期」があったということだ。
現在つきあいのある友人にも、哲学科出身者がいる。たいへんなおしゃべりなので、ときにいささか辟易しながら、彼の「長広舌」(・・・失礼!)に半分くらいは耳をすませている。
木田元さんは先日「哲学散歩」(文春文庫)をなかなかおもしろく読みおえたばかり。
で、本屋で少し立ち読みしたあと、本書を買って帰り、一昨夜遅く、読みおえることができた。
つまらなければ途中でやめてしまおうと思っていた。ほかにたくさん書籍がスタンバイしているから、ムリして読了する必要はない。時間が惜しいのである。
ところがそういったためらいを見事に拭い去ってくれた。
解説の三浦雅士さんが「名演奏家・木田元」と書いているけど、まさに名演奏家である。
ガンで胃の手術をうけたあと、その病後に編集者に向かって「反哲学」の話をし、その内容をまとめたものが本書であるという。まったく予備知識のないような人を相手にして、療養中の自宅で、ご自身が半生を捧げた哲学、反哲学について語る。
そして、恥ずかしながら、西洋哲学の通史を、わたしははじめて読むことになった。
ソクラテス=プラトン、そしてアリストテレス。哲学とは、煎じつめるとギリシア哲学のことである・・・と、木田さんは喝破している。そこに、ヨーロッパ思想の核心がある。
キリスト教は、はじめローカルな民間信仰として出発しながら、ギリシア哲学にもとづいていわば理論武装し、古代末期、世界宗教へと歩みはじめる。
キリスト教の“神学”とは、そういうものであって、哲学とは、ある時期まで、同じ貨幣のいわば表と裏の関係にあった。
プラトンのイデアが、神にかわったのである。
われわれ日本人から見ると、そう見えるということであろう。
この本で興味深いのは、哲学を歴史的な視座から読み込んでいること。
発生はもちろんのこと、時代による変遷、国家・民族による変移の軌跡を、ごく大雑把にではあるが、トレースしている。そもそもギリシア哲学を知らないと、その後のヨーロッパで展開されることとなった哲学の潮流がつかめないのだから。
《当然そこでは、<存在するもの>の全体が<作られたもの>あるいは<作られうるもの>、いわば制作の無機的な材料と見られます。自然を死せる物質(質量・材料としての)と見る<物質的自然観>と言っていいかもいいかもしれません。<西洋>と呼ばれる文化圏での文化形成はそうした存在観念、そうした自然観の上に立って行われてきたにちがいありません。》(本書274ページ)
ところが、ニーチェの出現以降、この哲学の流れが、がらりと変わると、木田さんはいう。
以前も知らず、以後も知らないながら、そう指摘されてみると、何となく「ははあ・・・」と思いあたるふしがある。一般の初心者向けに書かれた「通俗解説書」のたぐいは何冊か読んでいる(ノ_・。)
木田さんによれば、デカルトあたりに象徴されるようなヨーロッパ的な合理主義に支えたられた諸価値の転換を目指し、壮大な体系を築こうとして倒れたニーチェ。そこから「反哲学」の時代がはじまったのである。ハイデッガーの「存在と時間」が、そういった反哲学の潮流を決定づけた。
本書は編集者に対する「語り下ろし」に加筆したものなので、肩の力を抜いてリラックスした雰囲気があり、初心者にもまことにわかりやすく語られている。
死に直面したことが、この老哲学者をある心境にみちびいたのだろうか。文庫版で290ページの小著だが、その内容はきわめて濃いといわねばならない。わたしももっと若いころ、こういう本と出会っていたら、いまよりははるかに哲学に親しむことができたろう。
最近は新訳のおかげでずいぶん読みやすくはなってはいる。しかし、ドイツ観念論、カントやヘーゲルなど、逆立ちしたって、わたしには理解できない世界である。
なぜソクラテスは、あのとき、あそこで毒杯を仰いで死ななければならなかったのか?
これはわたしが、中学生のころからぼんやり抱き、抱きつづけてきた疑問である。この世界においてヨーロッパの優位性は疑いのないものと思ってきた。明治以降、学問も技術も、ヨーロッパに追いつくことが、国家的な《至上命題》であった。太平洋戦争で敗れてからは、ヨーロッパにかわって、アメリカとアメリカ文化がその地位をしめる。
木田さんはハッキリといっているが、大半の日本人にとって、哲学は「無用のもの」なのである。だから、日本の社会に、西洋哲学的な考えは根をおろさなかったし、これからもそうだろう。キリスト教もしかりだが、日本文化に対する影響は、ごくごく例外的なものをのぞき、ほとんどないに等しい。
しかし、依然としてヨーロッパと、ヨーロッパ文化から学ばねばならないものは多い。
そこが悩ましいのである。
だから・・・だから木田さんのようなプロフェッサーが登場したのだし、こういった本が意外にも多数の人たちに読まれるのである(mixiのレビューに32件のコメントがある)。
かくいうわたしも、、むろんその中の一人( ´。`)
評価:☆☆☆☆