「戦争論」につづいて、本書を読みおえたので、感想をつづっておこう。
わたしはこれまで、マンガにはまったくといっていいほど、無関心を通してきた。
「マンガで日本の歴史を学ぶような昨今の風潮は、こまったものがある」
ごく最近まで、そういった発言をくり返していた。
まあ、その考えを180°転換するつもりはないけれど、小林よしのりは例外と、とりあえず、いっておきたい。
人間の身体は、細胞の分子レベルでは、たえず更新がすすみ、ある意味で、1年前とは、まったく違う身体になっている、と養老孟先生がいっている。たしかに、そうだと思う。
ウェブ用語でいえば、身体は、分子レベルで、たえず更新をくり返していることになる。
頭脳のなかも、同じことが起こっている。
ある人物や、一冊の本と巡り合うことによって、思いがけず、はげしく更新がすすむ場合がある。それが、今回は「戦争論」であり、本書であったということができる。
四コママンガでギャグを得意とするのもマンガだし、劇画で濃密な物語世界を組み立てるのもマンガ。私小説的なマンガがあるかとおもうと、ファンタジックな少女マンガがあり、スポ根マンガ、正統派の恋愛マンガ、経済マンガ、料理マンガなど、ありとあらゆるカテゴリーが存在している。
BOOK OFFへいくと、書籍のコーナーに較べ、マンガコーナーの盛況ぶりが目立っている。長時間立ち読みしている「暇人」グループも、ずいぶんと多い。
しかし、正直いって、「戦争論」のようなマンガが存在し、大きな反響を巻き起こしているとは、知らなかった(^^;)
「戦争論」のインパクトがあまりに強く、いささか混乱をきたしたので「これではいかんな」と気を取り直し、小林さんの本をいくつか買ってきた。
本書はその中の一冊。
寝そべって気軽に読めるエンタメ本かと想像していたが、作家の本気度が、むんむんするような熱気でうず巻いており、圧倒されてしまった。
『日本にA級戦犯などいない! 連合国になすりつけられた「戦犯」の観念を払拭しない限り、日本民族の自立はないのである!』
これが本書の結論。単純明快なのだが、この単純明快さが、すばらしい破壊力をもっている。
一部肯定、一部否定ではなく、小林さんは、可能なかぎり、「戦犯」の側に寄り添い、
彼らの側からあの大東亜戦争を見直そうとしている。その徹底ぶり! これを過激といわざるして、何という?
「戦争論」のレビューにも書いた通り、わたしはあの戦争にかんする議論を避けてきたし、昭和史そのものにも近づかなかったので、定見というようなものをもっているわけではない。
読みすすむににしたがって、わたしは自分が、素朴な一読者として、はげしく心ゆさぶられるのを感じた。なぜ、もっとはやく、昭和史に関心をもたなかったのか?
よく読んでいくとわかるが、むろん、小林さんは戦争賛美をしているわけではない。
しかし、ここで展開されている小林さんの認識は、市民運動家レベルの「反戦平和」主義者よりも、はるかに深く、「歴史的真実」の向こう側へと、突き抜けていると思われた。どんな意見であれ、社会的な存在としての自身の立場を賭けての発言には、迫力がある。本書は、そのような迫力に満ちている。
わたしはいわゆる「ゴーマニズム」の徒ではないし、ライフワークのひとつとして、こういった、重たい昭和の歴史に向き合おうというのではない。しかし、そうではないけれども、本書の主張は、ある種の衝撃とともに、わたしの心の奥底のような場所に、とどいてきた。
とくに、小林さんが掴みだして見せてくれた重光葵と、日本の「A級戦犯」を裁く側にいたインドのパール博士のプロフールは、多くの読者に感動のあらしを見舞うだろう。
『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』
これは広島の原爆慰霊碑に刻まれたことば。それに対して、パール博士がしめしたリアクションこそ、本書を輝かせている核心部で、小林さんは、こういった立場から、ぬるま湯左翼や右翼批判を展開しているのである。
http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
賛成するにせよ、反対を唱えるにせよ、小林さんは、マンガの土壌を驚くほど拡げた。
「マンガを使って、こんなこともできるのだ!」
<参考>
激動し 変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って われは進む
1952年11月5日 ラダビノード・パール
こちらから引用させていただきました<(_ _)>
評価:★★★★★
わたしはこれまで、マンガにはまったくといっていいほど、無関心を通してきた。
「マンガで日本の歴史を学ぶような昨今の風潮は、こまったものがある」
ごく最近まで、そういった発言をくり返していた。
まあ、その考えを180°転換するつもりはないけれど、小林よしのりは例外と、とりあえず、いっておきたい。
人間の身体は、細胞の分子レベルでは、たえず更新がすすみ、ある意味で、1年前とは、まったく違う身体になっている、と養老孟先生がいっている。たしかに、そうだと思う。
ウェブ用語でいえば、身体は、分子レベルで、たえず更新をくり返していることになる。
頭脳のなかも、同じことが起こっている。
ある人物や、一冊の本と巡り合うことによって、思いがけず、はげしく更新がすすむ場合がある。それが、今回は「戦争論」であり、本書であったということができる。
四コママンガでギャグを得意とするのもマンガだし、劇画で濃密な物語世界を組み立てるのもマンガ。私小説的なマンガがあるかとおもうと、ファンタジックな少女マンガがあり、スポ根マンガ、正統派の恋愛マンガ、経済マンガ、料理マンガなど、ありとあらゆるカテゴリーが存在している。
BOOK OFFへいくと、書籍のコーナーに較べ、マンガコーナーの盛況ぶりが目立っている。長時間立ち読みしている「暇人」グループも、ずいぶんと多い。
しかし、正直いって、「戦争論」のようなマンガが存在し、大きな反響を巻き起こしているとは、知らなかった(^^;)
「戦争論」のインパクトがあまりに強く、いささか混乱をきたしたので「これではいかんな」と気を取り直し、小林さんの本をいくつか買ってきた。
本書はその中の一冊。
寝そべって気軽に読めるエンタメ本かと想像していたが、作家の本気度が、むんむんするような熱気でうず巻いており、圧倒されてしまった。
『日本にA級戦犯などいない! 連合国になすりつけられた「戦犯」の観念を払拭しない限り、日本民族の自立はないのである!』
これが本書の結論。単純明快なのだが、この単純明快さが、すばらしい破壊力をもっている。
一部肯定、一部否定ではなく、小林さんは、可能なかぎり、「戦犯」の側に寄り添い、
彼らの側からあの大東亜戦争を見直そうとしている。その徹底ぶり! これを過激といわざるして、何という?
「戦争論」のレビューにも書いた通り、わたしはあの戦争にかんする議論を避けてきたし、昭和史そのものにも近づかなかったので、定見というようなものをもっているわけではない。
読みすすむににしたがって、わたしは自分が、素朴な一読者として、はげしく心ゆさぶられるのを感じた。なぜ、もっとはやく、昭和史に関心をもたなかったのか?
よく読んでいくとわかるが、むろん、小林さんは戦争賛美をしているわけではない。
しかし、ここで展開されている小林さんの認識は、市民運動家レベルの「反戦平和」主義者よりも、はるかに深く、「歴史的真実」の向こう側へと、突き抜けていると思われた。どんな意見であれ、社会的な存在としての自身の立場を賭けての発言には、迫力がある。本書は、そのような迫力に満ちている。
わたしはいわゆる「ゴーマニズム」の徒ではないし、ライフワークのひとつとして、こういった、重たい昭和の歴史に向き合おうというのではない。しかし、そうではないけれども、本書の主張は、ある種の衝撃とともに、わたしの心の奥底のような場所に、とどいてきた。
とくに、小林さんが掴みだして見せてくれた重光葵と、日本の「A級戦犯」を裁く側にいたインドのパール博士のプロフールは、多くの読者に感動のあらしを見舞うだろう。
『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』
これは広島の原爆慰霊碑に刻まれたことば。それに対して、パール博士がしめしたリアクションこそ、本書を輝かせている核心部で、小林さんは、こういった立場から、ぬるま湯左翼や右翼批判を展開しているのである。
http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
賛成するにせよ、反対を唱えるにせよ、小林さんは、マンガの土壌を驚くほど拡げた。
「マンガを使って、こんなこともできるのだ!」
<参考>
激動し 変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って われは進む
1952年11月5日 ラダビノード・パール
こちらから引用させていただきました<(_ _)>
評価:★★★★★
【0特性】
・絶対性
拡がりが無い,
・不可分性
分けられない,
・識物性
存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,
・変化性
物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。
【0特性】を普遍化すると, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。
【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 広がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。
思想に対しては反思想・反宗教(この反は結果的に支配と利他の押付けである思想に対して、生きるために如何なる方法も講じなければならないという考え方の最終段階である)として、個人は打ち勝たなくてはならない。
戦争の目的は思想による世界支配の手段であるか、はたまた思想を粉砕し、中庸を全世界に普遍化せしめようとする手段である。