(小春日和のこの日はキチョウがとても多かった。この子たちはキタテハなどとならんで、越冬するチョウとして知られる)
茨木のり子さんに「わたしが一番きれいだったとき」という詩があるのは、ほとんどの方が知っているだろう。
教科書によく取り上げられる彼女の代表作のひとつだが、ご存知ないという人のため、全編を引用してみよう。
《わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね》
彼女は15歳で日米開戦を、19歳で終戦を迎えているから、
この作品には、女性としての苦いため息のようなものがこもっている。歌詞にでもしたいようなリフレインが、すばらしく効果的に使われている。
さて、なんでこんな詩を思い出したかというと、
昨日、少林山という高崎のお寺さんで、成人式記念の撮影会に、
偶然出っくわし、わたしも横から数枚撮影させていただいたからだ。
二十歳をはさむ前後数年が、女性にとっては美しさの絶頂年齢。
スマホやコンデジでいつでも写真が撮れる時代とはいえ、
こうして、プロの写真家にロケまでしてもらって、
アルバムを作成しておくのは、悪いことではない。
機材はキヤノンのEOS-1D系、5D系、それに白鏡胴の高性能レンズが装着してある。そして、ヘアメイクさん、レフ板を手にした撮影助手などの総勢4人のスタッフがモデルさんを囲んでいらした。
ちょっとめずらしい半襟をつけているのが印象的だった。
いわゆる「型もの」写真だから、どんな写真を撮ろうとしているのか、わたしくらいのベテランになると、すぐにわかる。「撮りたいカット」というのが、あらかじめ決まっている。とはいえ、スタジオ撮りほど、型にははまっていない。
結婚しない女性、あるいは結婚しても「できちゃった婚」が多数派、結婚式はパスしてしまうカップルが多いから、こういう記念のアルバムを残したくなる気持ちはよくわかる。
さて、この日も天候にめぐまれ、約3時間の散策で、たくさん写真を撮ることができた。
紅葉そのものより、ここには小さな生き物たちにスポットをあてた写真を主にアップしておこう。
これはなんだろう、この赤い実は? 逆光でストロボを発光させてみた。
こちらはツチイナゴだと思うけれど、こんなに白い(というより、むしろ銀色にみえた)個体に遭遇したのははじめて(゚∀゚*)
咲きだしたツバキに、ハチがやってきてお食事中。
つぶやきでも取り上げたツチグリ。
郷土のフィールドに、こういう生命体が存在しているなんて´д`。しかも、汁物、煮物、炒め物にして食せるそうである。まあ、笠を開く前、もっとはやく採取しないといけないのだろうが・・・。
夏のなごり。はいぼう(セミの抜け殻)は、いつまでこうしてしがみついているのだろう。
「おおい、もうすぐ冬だぞ!!」
夜更けから暁方にかけ、小雨が降った。
日陰の菊に、まだ雨滴がびっしり(^^♪
わたしが本の世界に浸りこんでいるあいだにも、世界は時々刻々と変化してやまない。
茨木のり子さんに「わたしが一番きれいだったとき」という詩があるのは、ほとんどの方が知っているだろう。
教科書によく取り上げられる彼女の代表作のひとつだが、ご存知ないという人のため、全編を引用してみよう。
《わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね》
彼女は15歳で日米開戦を、19歳で終戦を迎えているから、
この作品には、女性としての苦いため息のようなものがこもっている。歌詞にでもしたいようなリフレインが、すばらしく効果的に使われている。
さて、なんでこんな詩を思い出したかというと、
昨日、少林山という高崎のお寺さんで、成人式記念の撮影会に、
偶然出っくわし、わたしも横から数枚撮影させていただいたからだ。
二十歳をはさむ前後数年が、女性にとっては美しさの絶頂年齢。
スマホやコンデジでいつでも写真が撮れる時代とはいえ、
こうして、プロの写真家にロケまでしてもらって、
アルバムを作成しておくのは、悪いことではない。
機材はキヤノンのEOS-1D系、5D系、それに白鏡胴の高性能レンズが装着してある。そして、ヘアメイクさん、レフ板を手にした撮影助手などの総勢4人のスタッフがモデルさんを囲んでいらした。
ちょっとめずらしい半襟をつけているのが印象的だった。
いわゆる「型もの」写真だから、どんな写真を撮ろうとしているのか、わたしくらいのベテランになると、すぐにわかる。「撮りたいカット」というのが、あらかじめ決まっている。とはいえ、スタジオ撮りほど、型にははまっていない。
結婚しない女性、あるいは結婚しても「できちゃった婚」が多数派、結婚式はパスしてしまうカップルが多いから、こういう記念のアルバムを残したくなる気持ちはよくわかる。
さて、この日も天候にめぐまれ、約3時間の散策で、たくさん写真を撮ることができた。
紅葉そのものより、ここには小さな生き物たちにスポットをあてた写真を主にアップしておこう。
これはなんだろう、この赤い実は? 逆光でストロボを発光させてみた。
こちらはツチイナゴだと思うけれど、こんなに白い(というより、むしろ銀色にみえた)個体に遭遇したのははじめて(゚∀゚*)
咲きだしたツバキに、ハチがやってきてお食事中。
つぶやきでも取り上げたツチグリ。
郷土のフィールドに、こういう生命体が存在しているなんて´д`。しかも、汁物、煮物、炒め物にして食せるそうである。まあ、笠を開く前、もっとはやく採取しないといけないのだろうが・・・。
夏のなごり。はいぼう(セミの抜け殻)は、いつまでこうしてしがみついているのだろう。
「おおい、もうすぐ冬だぞ!!」
夜更けから暁方にかけ、小雨が降った。
日陰の菊に、まだ雨滴がびっしり(^^♪
わたしが本の世界に浸りこんでいるあいだにも、世界は時々刻々と変化してやまない。