二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「モンテーニュ」保苅瑞穂(講談社学術文庫)

2017年06月22日 | エッセイ(国内)
保苅瑞穂さんの「モンテーニュ」を読みはじめたばかりだが、途中で寝てしまうのが惜しいようなすぐれた一冊。副題は「よく生き、よく死ぬために」である。
《モンテーニュが、やがてくる文明の時代を準備した人間たちの一人だったことは確かなことだ。そしてその彼が本当の理解者を見出すには十八世紀を待たなければならなかった》(本書86ページ)。

なぜわたしが、いまモンテーニュなのかというと、彼の向こうに、父の影を見ている・・・その真の姿、生活の在りようを透かし見ているからであろうか? 
自己弁護するわけではないけれど、すぐ隣りにいる人をキチンと理解するのは、案外とむずかしいことなのだ、とくに自分より先を歩いている人を理解するのは。
経験しなければわからないことが、世の中にはいくらだってある。そういう“真実”があることに、謙虚にならなければ・・・もっと謙虚に。
年下から学ぶことは少ないが、年配者、あるいは人生の先輩から学ぶとことは驚くほど多い・・・というのが、昔からのわたしの持論である。

わたしは実店舗派なので、昨日は近隣にある、古書店や在庫数では県内一番の大型書店を歩きまわり、モンテーニュの本をさがしたが、見つけることができなかった。モンテーニュに関心をしめす「知的冒険者」は、又吉直樹さんのベストセラーの数百分の一もいないということだろう。「エセー」を読むには取り寄せを頼むしかないようだ。

不易ばかりを追いかけているわけではない。しかし、わたしは流行にはとんと疎い人間。人の行列のあとには、並ばない・・・並びたくないという、ある意味の「へそ曲がり」である。
モンテーニュのような「曇りなき眼」を持つにはどうしたらいいのだろう、と考える。 二百年も時代にさきがけていたとは、途方もないことだ。
とはいえ、もっと若い時代に「エセー」を読んでいたとしても、十分な理解がおよばなかったろう。

モンテーニュが体現した叡智というものが、たしかに存在する。さきに書いたように、原二郎さんの「モンテーニュ」はすぐれた仕事だが、本書もまた、十年がかりの身を削るような仕事である。
古典だとか、名著といわれる書物は、現代に生きて、呼吸しているからそう呼ばれるのである。
《真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ》
(マルセル・プルースト)
写真の場合も、本を読むことと同じ。
そのことをキモに銘じておこう。

・・・航海はこれからもつづく。

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