わたしには大勢のマイミクさんがいて、いろいろな写真がアップされてくるのを愉しみに拝見している。
しかし、自身の作品を棚にあげて、生意気なことをいわせてもらうなら、「パーソナルなまなざし」を感じさせてくれるひとは、ごくわずか。なぜそうなるのか、わたしはよく考える。
写真はおそらく、クリエイティヴなものである。
お花や茶道や歌舞伎のように「型をまねる」ことによって生まれてくるものではない。
いや、ごく初心者のころは、学習することが必要になる。被写界深度とは何かは、知らないよりは知っていたほうがいいから。あるいは、適正露出はどんなことをいうのか、・・・自分なりの“基準”は、もっていたほうがいいから。
そうして、ある水準にたどりつく。
「そこが、あなたの限界なのです」というところまで。
わたしが「パーソナルなまなざし」と呼んでいるのは、そこからさきの問題である。
いまでは「シャッターボタンを押せば、カメラがすべてをやってくれる時代」である。
うまい写真など、簡単に撮れる。
しかし、ほんとうにクリエイティヴな仕事というのは、その先に存在する。
「うん、これはうまくいったぞ。大成功」
「あー、また失敗。だめだ! これを捨てよう」
写真を意識して撮ってアルバムなどにアップしている人なら、だれしも経験している、ありふれた日常の一こまである。
だが・・・だが、待てよ(~o~)
もしかしたらわたしが失敗だとおもっている写真がよくて、成功したとおもっている写真はつまらない写真なのかもしれないではないか!?
こんなことを考えたヒントは、先日買った市橋織江さんの「「PARIS」(ピエ・ブックス刊2400円+税)をめぐるわたしの評価の変遷の中にひそんでいた。
本書の刊行は2011年4月。
その直後から、わたしはこの写真集を、折りにふれて何度も見ている。
・・・書店の本棚のまえで。
そうして、そのつど、買わずに「PARIS」を、元あった棚に返す・・・ということをくり返してきた。
なぜか?
わたしには、この写真集におさめられている写真の大半が「失敗作」としか、見えなかったからである。
はじめはそうだった。
しかし、手にとってパラパラと眺め、また数週間後に書店に出かけて、気になって手に取り、パラパラと眺める。そんなことをくり返しているうち、少しずつ「いいな、いいじゃないか!」とおもえる作品がふえてきた。そうして、昨日、わたしは「PARIS」を買ってきた。
いまでも「PARIS」の半分、いや1/3はつまらない・・・あるいは失敗作だろうというおもいが、胸のどこかにある。しかし、その数は、日をおうごとに、徐々に減ってきている。
人と同じ写真がとりたい、あるいは、いつかどこかで見たような写真が撮りたいとだけおもっているなら、こういう悩みにはとりつかれないだろう。だけれど、写真は「お稽古事」なんかじゃない。いくら初心者でも「もっとうまくなりたい」という願望の隣りに、「人とは違った写真が撮りたい」という願望をひそめていなければならない。
うまい写真家は、プロにも、マイミクさんにも、大勢いる。
最近わたしがよく眼にするプロでいえば、田中長徳さんや藤田一咲さんなどの写真は、たしかに「うまい」。年季が入っているし、写真の知識も豊富。“見せ方”のコツを、じつによく心得ている。しかし、あえていえば、写真家としては二流なのである。
彼らの場合でいえば、『いつかどこかで見たような写真』の、何と多いことだろう。
失敗を恐れるな。
むしろ、一見失敗かな・・・とおもえるような写真の中に、オリジナリティーや新しさがかくれている。
わたしは、いままた、そういうカーヴにさしかかっているようである(^^)/