町歩きの醍醐味はどこにあるのだろう?
じつのところ、わたしはそれをうまく説明できない。
それを確かめたくて、町歩きをしているようなものである。
散歩写真ということばがある。いつ、だれがいいだしたか知らないけれど、ほかにいい表現が思いつかない。しかし「散歩写真」というこの表現に、わたし自身が納得しているわけではない。
「そうかなあ。おれが撮っているのは、散歩写真なんだろうか?」
そこで出会ったのが、ベンヤミンのいうフラヌール。
このキーワードを鹿島茂さん経由で知ったとき、なるほどと思った。
日本語に訳すと「遊歩者」になる。ちくま学芸文庫からW・ベンヤミン・コレクション「パサージュ論」が出ているので、買ってきて、少し拾い読みしている。
ベンヤミンは、パリにつどう小説家や詩人、画家のある集団を指して、そのライフスタイルを「彼らはフラヌールである」と規定している。
たとえば、ボードレールやバルザック、エミール・ゾラ。わたしなら、ここにウジェーヌ・アジェを加えたい。
藤原書店からゾラの選集が刊行されていて、わたしは彼の「パリの胃袋」と、本屋の棚のまえで出会った。数ページ立ち読みしただけで、それがいま、わたしが必要としている小説であることがわかったので、買ってかえり、その翌日から読みはじめた。
ここには、確認のため、わたしが書いた「ゴリオ爺さん」と「パリの胃袋」「馬車が買いたい」のレビューをピックアップしておこう。(mixi三毛ネコのレビュー)
「ゴリオ爺さん」バルザック
http://mixi.jp/view_item.pl?id=128985&reviewer_id=4279073
「パリの胃袋」ゾラ
http://mixi.jp/view_item.pl?id=372164&reviewer_id=4279073
「馬車が買いたい」鹿島茂
http://mixi.jp/view_item.pl?id=1325001&reviewer_id=4279073
ちなみにバルザックには金貸しを描いた「ゴプセック」というとんでもない傑作中編があるので、小説をお読みになる方には、おすすめしておこう。
・・・というわけで、こういった諸作にインスパイアされた結果、わたしの「町歩き」は、はじまっている。
残念ながらここは19世紀のパリでも、現代の東京でもない。
とてもローカルな北関東の地方都市ばかりを、わたしはめぐっている。
それで満足しているわけではないが、身過ぎ・世過ぎの手段として不動産屋をしており、この土地にいわば「縛りつけられて」いるという、やむをえない事情がある。
不自由だが、その不自由を、愉しみに転換するために、わたしは休日ともなると、フラヌールよろしく、カメラを手にして、小さな地方都市へ散歩に出かける。
「昭和ロマン」とわたしがいうのは、ベンヤミンのいう「集団的記憶」を触発するトポスのことである。単なる懐古趣味ではない。これを発見するためには「成熟したまなざし」が、ぜひとも必要である・・・と、わたしは考えている。
若い世代にはこの「成熟したまなざし」など望むべくもないから、わたしがなにをしようとしているのか、理解に苦しむだろう。
成熟したまなざしをもたらすのは、生きたあかしとしての「経験の蓄積」以外のものではない。
それらが、集団的記憶としての“トポス”を形成する。
一見すると、それらはゴミかとおもえるような破片であったり、うらぶれた街角の看板であったり、木々のシルエットであったりする。それ自体は、金銭に換算できるような価値をもたない。つまり「反資本主義的」あるいは「非資本主義的」なものたちの吹き溜まりである。しかし、そのイメージをうまくつかまえてみると、そのイメージの積み重なりの中に、いわば魂の浄化作用があるのがわかるだろう。
悠久の時の流れに心遊ばす。
ブルックナーの何に感動したかを一語で表現するとしたら、わたしはこういうだろう。
だから――だから、ブルックナーの音楽に心ふるわせているわたしと、カメラがとらえたイメージに吸い込まれるように見入っているわたしは、別な人格なのではない。
わたしが愛するそのイメージは、時空を滑空して、はるか彼方から出現し、わたしの心に着地する。カメラやレンズは、それをとらえるための「装置」にほかならない。