「芹里奈、お前なんだな」
言葉に出して叫んだのか、心の中だけの叫びなのか私には分からなかった。
私は手に持った写真を取り落として目の前の靴を凝視し、そしてそこから虚空に目を移した。
靴を履いた見えない芹里奈が私を見つめていた。
<シャ!ラーン・・・>
私の全身の恐怖が、芹里奈への思いに切り替わる音を心の中で聞いたような気がした。
「ありがとう来てくれて」
心の底のそこから搾り出すような声がうめき . . . 本文を読む
地下道の奥からぬめっとした霊気が漂ってくるように思われた。
私は迷わずその恐怖の中に入っていった。それはこれまでにない勇気だったと今も思う。
私は肝をつぶす思いでその中心に進んだ。
一足の靴が薄汚れ、滴る地下水に濡れながら私を出迎えた。
私の背後に得体の知れないものが立っている・・・ぞっとする思いに囚われたが振り返ることも出来ない。
私はあらためて芹里奈の写真とその靴を見比べた。
つま先にある花 . . . 本文を読む
私は芹里奈の写真を握ったまま国道の地下道に向って行った。
そんなバカな・・・
こんなことがどうして・・・
驚きと不安と恐れが胃の辺りでかき回され、血液が凍りついたように全身鳥肌立っている。
体がこわばり冷や汗にまみれたが、足だけは前に進んでいく。事実を確かめなければ納まらない気持ちが私を地下道に導かずにはおかなかったのだ。
深夜の国道は通過する自動車もまばらだった。地下道を歩く人などさらにいる . . . 本文を読む
紛れもなくそれは芹里奈の靴だと思った。
アルバムを見直した。その頃の芹里奈の写真はどれも同じ靴を履いていた。しかもどこか誇らしげに・・・そう考えをたどっているうちに私は思い出した。
芹里奈が珍しくショーウィンドーの前で立ち止まった。マネキンの履いている靴に魅せられたというのだ。そんな芹里奈を見て私はとっさに店に入り、交渉してその靴を手に入れた。確か展示品だけで在庫はないと言うことだったのか、嫌 . . . 本文を読む
白亜の砂浜はとても清楚な印象を私達に与えた。
「もったいないわ」
芹里奈はそういって靴を脱ぎ素足になった。
私も同じようなことをした。足の裏でサラサラと白い砂が流れ、言いがたい開放感が私達を包んでいた。
突然芹里奈は私の名を呼び、カモメのポーズを取ったのだ。私はカメラを向け、芹里奈は何度もカモメの姿を演じた。
私の背筋に冷や汗を感じるほど驚いた写真はその時の1枚だったのだ。
カモメになった芹里奈 . . . 本文を読む
幸せだった日々の一瞬が切り取られて、芹里奈の笑顔がどの項にも踊っている。
未練だなと友人は笑ったが、私はどうしてもこれを処分することが出来なかった。
A子にこれを見せたら何というだろうか。
そう思うと心に暗い霧が広がってくる。
もうやめよう。芹里奈への思いに整理をつけようとアルバムを開いたが、心は複雑にゆれるばかりだ。私はアルバムを閉じるつもりで、もう一項だけめくってみた。
芹里奈が奇妙な格好で . . . 本文を読む
私はずっと芹里奈を愛し続けてきたと思っていた。
芹里奈が一番幸せになること、それを願い続けるのが私の愛の形なのだと信じてきたのは、失うことで傷つくことを恐れた私の無垢な心が作り出した鎧だったのかも知れない。
私は結局、この10年を虚構の中で無為に過ごしてきたのだろうか。
事実はどうあれ、地下道の靴の前で体験する恐怖には、私の全身の細胞を一斉に目覚めさせ激しく生きようとして泡立つような実感がある。 . . . 本文を読む
私は出口を見据えたまま、ほとんど息もしないで自転車を走らせ一瞬で靴の前を通り抜けた。
無視しようとすればするほど意識が鮮明になり、いまやその靴が動き出すのではないかというバカバカしい思いに取り付かれて心の芯から怯えているというのが正直なところだった。
しかしそれを自分で認めることが出来ず、他の人に靴のことを尋ねることもしなかった。もし誰もそんなものは見えていないと分かったら、私は完全に悪霊の前に . . . 本文を読む
どうするか・・・
私は会社を退けてからも思い迷って家路についた。
習慣で電車に乗り、意識しないまま駅を出た。
夢遊病のように自転車に乗り、いつの間にか国道を横切る地下道に差し掛かった。
地下道に開く暗い入り口を見たとたん、私は雷に打たれたようなしびれを覚えた。
女物の靴が、まるでそこに人が立っているように置かれたままもう一月以上経っているのだ。
そんなバカなと思いながら、あれは自分にしか見えてい . . . 本文を読む
それから三月もしないうちに私達は法的にも離婚した。
妻はMのもとに帰った。
私はそう思うことで心の痛手から身を守ろうとしたのかもしれない。
妻の本当の幸せを願う。それが私の愛の形だと思い続けてきたのだ。
何度か再婚の話もあったが、私の心は動かなかった。いつの間にか10年という歳月が流れていた。妻と過ごした年月の何倍もの月日を無為の中で過ごしてきたともいえるだろう。
この重石がかすかにでも動いた . . . 本文を読む