のしてんてん絵画(野外展示) 愁いのポーズ
私は愁いが好きだ。甘い郷愁も魅力だが、何よりたち止まっているのが好きなのだ。
般若心経に関しての重要な追補。
前回記事のコメントで「泉」と言う言葉を頂きました。その言葉が妙に心に引っ掛かったのです。
泉が枯れないためには
汲みすぎないことです。
「泉」という言葉は命の根源を感じます。この言葉に触れてなぜか私は、曇り空に光を覚えたのです。人の言葉のありがたさが身に沁みます。
以下は私の心の動きを細密描写したものです。回りくどいというお叱りは覚悟の上ですので、押して読んでいただければ幸いです。なにより愚かな一個の人間にとっては、このように思考を辿ることでしか達し得なかったのだと、ご理解下さい。
私の心を曇らせていたもの、それは般若心経に一貫して語られる「般若波羅蜜多」とはいったい何なのかという疑問でした。
宗教学の類は私の頭ではほぼ理解できないし、理解する努力よりも絵を描いていたいというタイプなので、知識はもっぱらネットで手軽に探す入門書が頼り。しかしそれではいつまでたっても納得のいく答えが出ないのです。
そこで般若心経の経文から「般若波羅蜜多」に焦点を当てて、意味の流れを観ることにしました。それが下の経文に加えた番号と色分けです。
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① 仏説摩訶般若波羅蜜多心経
② 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦 無無明尽
乃至 無老死 亦 無老死尽 無苦集滅道 無智 亦 無得
③ 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
④ 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
⑤ 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
⑥ 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
⑦ 般若心経
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般若心経をこうして眺めてみると、「般若波羅蜜多」を主題にして、実に無駄なく論理的に展開されているのがわかる。
それは①~⑥に書かれた「般若波羅蜜多」の前後の文字の推移にはっきり表れている。その骨組みだけを取り出して見てみよう。
① 大変すばらしい「般若波羅蜜多」の真髄を説いたお経 (お題目)
② 「般若波羅蜜多」を深く行じていた時、五蘊皆空を知った。(本文)
③ 菩薩は「般若波羅蜜多」に依った故にこだわりを捨て、仏の道を進む。
④ 涅槃に入った仏は「般若波羅蜜多」に依る故に悟りの至福を得る。
⑤ 故に「般若波羅蜜多」は是大神呪であり・・・是無等等呪である。
⑥ 苦を除く真実の故に「般若波羅蜜多」を呪(真言)として説く。
そして呪す。 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
⑦ これが「般若」の真髄を説いたお経だ (結句)
こうして見ると、般若心経は、「般若波羅蜜多」によって真理を知り、その結果、苦を遠ざけ、覚りを開いて行く過程を描いている。やがて最高の境地に覚醒した仏は阿耨多羅三藐三菩を得る。故に「般若波羅蜜多」は比類ない呪(真言)だと続く。そして最後に「般若波羅蜜多」の呪を実際にとなえて見せるのである。その道筋に余計なものは一切ない。まさに心経(真髄)であり、これが般若心経なのだ。
するとこの「般若波羅蜜多」とはいったい何なのだろうか。
入門書によれば、般若波羅蜜多とは、
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智慧を表す「パンニャー」と言うサンスクリットを音写した「般若」
彼岸を意味する「パーラム」というサンスクリットの音写で「波羅」
到るという意味の「イター」の音写「蜜多」で、
彼岸に至るという意味の「波羅蜜多」は「パーラム・イタ―」が「パーラミータ」となった。
{参照}『……なんだそうだ、般若心経』(密蔵院住職 名取芳彦)
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という事だそうで、
「般若波羅蜜多」とは彼岸に至るための智慧と言うことになる。
しかし、上に見た①~⑥に至る流れの中で核となっている「般若波羅蜜多」を理解するためには、その説明だけでは足りない何かがある気がするのである。
これはきっと、言葉通りの知識として受け取ってはならない何かがあると考えてしまう自分がいる。そこでもっと単純化してみようと思いついたのです。
「般若波羅蜜多」から来る余計なイメージを排除するために、仮に「般若波羅蜜多」を「x」とすると、
①素晴らしい「x」の教え→②「x」を行じて真理を知る→③「x」に依って苦を遠ざける→④「x」に依って悟りの至福を得る→⑤「x」を比類なき呪と知る→⑥「x」を真言として唱える
と言う流れになるのだが、要するに私はこの一連の流れのすべてに共通する「x」を知りたいのだ。私はまだ「x」を具体的なイメージで描けないでいるのである。
なぜなら、「x」は意味的にいえば①=静、②=動、③=動、④=動、⑤=静、⑥=動というイメージに受け取れる。取り方はいろいろだが、少なくとも「x」のイメージは動いているのだ。
これが「x」、すなわち「般若波羅蜜多」であるなら、一体これは何を意味しているのかが私の晴れない疑問だったのである。
ところがある日、智慧と言う言葉にふと意味が見えたのです。
「X=智慧」と言う理解が突然生まれたと言っていい。よく考えれば、名取和尚の解説にはすでに書かれているのに、気付かなかっただけの話ですが、腑に落ちるというのはそんな頓馬なことがよくあります。(私の場合)
そこで上の「般若波羅蜜多」を「智慧」に置き換えてみると不思議なことに違和感が消えたのです。
① 大変すばらしい「智慧」の真髄を説いたお経
② 「智慧」を深く行じていた時、五蘊皆空を知った。
③ 菩薩は「智慧」に依った故に心のこだわりが無くなった。(菩薩→仏)
④ 涅槃に入った仏は「智慧」に依った故に悟りの至福を得た。
⑤ 故に「智慧」は是大神呪であり・・・是無等等呪である。
⑥ 苦を除く真実の故に「智慧」を説く。これは呪(真言)である。
⑦ これこそ「智慧」の真髄を説いたお経である
こうすると最後の⑦まで意味が通る。
そればかりか、⑦の経文結句の重大なメッセージにようやく気付くのだ。すなわち結句が「般若波羅蜜多心経」ではなく「般若心経」であるという事の重大な意味に触れることが出来たのである。
理解の薄い私は、これをただ「般若波羅蜜多心経」を略していると思い込んでいた。しかしそうではなかった。その理解は真逆だったのだ。これは単なる省略ではなく、これこそが、無駄なく真理を伝えようとして工夫のこらされた結句「般若心経」だったのである。その心に触れて感動さえ覚えるのだ。
お題目から本文そして結句。これが完全一体のくさびとなって真実の本体に深く突き刺さっている。そのくさびの最先端が「心経」の心そのもの、すなわちこの結句だったのである。
そこで私は自分の行き詰っていた原因に気付いたのです。
それは「般若波羅蜜多」を言葉としてとらえていたという事です。言葉としてとらえるというのは、「般若波羅蜜多」を知識だと考えることで、知りさえすれば効用は発動すると、ごく自然に思い込んでいたのです。
般若心経の教えと何かそぐわない感覚が、そこから生まれていたのだとようやく分かりました。以下それを書いてみます。
「般若波羅蜜多」を言葉(知識)としてとらえたら、般若心経が分からなくなる。「般若波羅蜜多」を智慧ととらえたらスッキリ了解できる。
ここで知識と智慧の重大な違いに改めて心が開く。
すなわち知識は定位置から動かないのに対して智慧は動くのだ。
なんとなく考えると、知るという概念が知識と智慧を同じくくりに入れてしまう。それが落とし穴だったのだ。
智慧(般若)はある意味、知識とは真逆の意味合いを持つ。それを腹の底から知らなければならないという事なのだ。
知識は死んでいるが、智慧は生きている。これが本当の意味だ。
覚りとは何か。それは生きていることを知ることだ。
そして生きていることを知るのが智慧なのである。
大事なことは「智慧」は名詞ではなく動詞だという事だ。
生きていることを知るとは、生きていることに気付き、今それを眺めているという意味なのである。
故に智慧に目覚めると、人は自然に①~⑦の流れに乗る。
知識は必要だが、それは生きている己とは違う。という目覚めが必要なのだ。
行深 般若波羅蜜多 は智慧が動き出して初めて可能になる。
つまり般若心経は、発心(智慧を知る)に至るまでの迷いの行程がバッサリ切り捨てられている。言葉に迷う心には見向きもしていないのだ。
だがそれも計算の上だと分かる。
発心はその人そのものだからだ。教えたらその人を言葉で殺すことになる。だから語れないのだ。
この肉体もまたそうだ。母親の胎内で原始から進化してきた体験をわざわざ繰り返して生まれてくる。精神もまた同じことなのだ。私達は大きなものに育まれている。大事なことは育まれながらそれでも一人で育つしかないのである。感謝だけが大きなものと繋がる手段であり、それを知るのが智慧という訳なのである。
このように理解が進むと、さらに新しい発見がある。
それは経文の①~⑦の流れを再び智慧の眼で見れば分かる。
発心(智慧の目覚め)した菩薩が仏に成る。その行程にあるのはただ一つ「般若波羅蜜多」だけなのだ。
私達が菩薩となるためには「般若波羅蜜多」を理解しなければならない。
菩薩が仏に成るためには「般若波羅蜜多」を深く行じなければならない。信じるのではない。自ら行じるのだ。
故に仏は「般若波羅蜜多」そのものである。
つまり仏は極楽浄土にいて至福の中に左うちわで横たわっているというような存在ではないということだ。仏とは智慧そのもの。その智慧は私達の中に命としてあるものなのだ。つまり何を言っているのかと言えば、仏に完成はないということだ。故にこれを般若心経と呼ぶのである。
「般若波羅蜜多」とは彼岸に至るための智慧だと最初に紹介しましたが、この彼岸こそ無尽蔵の泉なのではないだろうかと私は思う。それは五次元思考で思い描ける空間のイメージでもある。
此岸に棲む私達はそこから水脈をとって清水を汲む。
その泉を枯らすのは汲み過ぎるからではない。
それは言葉を使いすぎるからだ。
言葉を丸呑みにしたら、言葉の殻が水脈の壁に蓄積して動脈硬化を起こす。やがて泉は枯れる。
だが智慧はその水脈をきれいにしてくれるのだ。
般若心経は抗脂質藥のようなものだ。
なぜなら、それは呪。
唱えるだけで、そのとなえようと思う意志が智慧を発動する。
するとその智慧が心にはびこった言葉の抜け殻を溶かしてくれるのだ。
智慧によって泉の枯れる心配はないのである。
人は本来、泉そのものだった。そして今もそうだ。未来もそうだろう。
般若心経の三世諸仏はこの泉のことなのだ。
そして五次元思考は、その泉、すなわち三世諸仏の波動を実際空間として思い描き理解することが出来るのである。
これ、私が疑問に思ってたことへの解答でした。
心が中心に向かうと、意味がどうしても言葉をはみ出して行くんですね。
するとどこかで道を踏み間違えたのか、いやそんなはずはない・・・なんて気持ちが往ったり来たりして不安定でした。
これは般若心経のおかげです。
恋に落ちることができる、これは打算的な人や自分にうぬぼれている人はできないことです。
(私もその中の一人 (T_T) 😥
人を大切に思う姿勢が文から溢れていると感じたから
そう思ったからかな、
とにかく、一つのことに
自分が答えを得るまで諦めないタイプですよね!?
人への思いやりがすごく強い方なんだなと
返答を読む度に思えてきます。
今回の記事を読んで、
森の中を旅しているのしてんてんさんの姿を想像しました。
一人旅のようだけど、寂しくは見えないような、
いつか、見渡せるいただきに辿ることを願いつつ
遠くで見守ります。
若いころの恋は全身が波動そのものでしたね、今思えば。
桂蓮様、私は二番目の人生を選びました。
一輪の花に例えますと、一番目は自分に気付かないくらい無心に咲き誇る花ですよね。
残念ながら私は、なぜこんなところに生えている?と思ってしまった。その瞬間から一番目の生き方は出来ないのですね。
何のことはない、私の努力は結局、成功してようやく一番目の生き方に戻るだけという、大変な無駄道、迷い道と言う訳です。
行き倒れに成るかも知れないけれど、進むしかない。私のできることは森の中を進むこと。踏み間違えた一番目の道に戻る道筋を探すことなんですね。
もしそんな私に唯一価値があるなら、それは、成功しようが失敗しようが、森の草むらに踏み跡を残すということでしょう。
行き倒れている道には行ってはいけないというのも、一つの大きな貢献ですから^ね^
ただそのおかげで、私は一番目の生き方の尊さをいつも意識させられるのです。
鎧を脱ぐ安息が、桂蓮様にも訪れますように願っております。
お寺の坐禅を転々したことがあります。
あるお寺で(その時は私一人でした)
般若心経を読めと言われて、
リズムに乗れず、片語的に読んだら
指導してくださったお坊さんに
すごく叱られました。
あの時は、硬い畳の上に正座させられて
痛みで足がちぎれそうなのに、
私の読み方を確認していたから
もう逃げたかったです。
般若心経を読むと、またその時の痛みがじわーっと蘇ります。
その時にもしも、のしてんてんさんの解釈を分かっていたとしても
その正座の痛みをどうかできなかったのかなと思ったり。。。
でも、痛みはどうかできなかったとしても
イメージが持てた分、リズムには乗れたかもしれませんね。
学ぼうとする意志は人を強くする。そう思います。
ちょっと違いますが、私は基本を無視するタイプで、水泳教室やスキー教室に通った経験があります。まず基本を教えられますが、必ずそこから自分の思う動きに変えてしまい、まったく上達しないダメ生徒で終わりました。
だからもし座禅を教わりに行ったら、私は一日で音を上げていたでしょうね。
正座してその上、経を唱える・・考えただけで落ちこぼれま^す^
それに足の痛みは空ではなく、身体の反応ですものね。私などは我慢する前にその禅師には近づきませんね。(笑)
弱いのです。
ところで桂蓮様、読み方は無視して意味を追いながら自分の思うまま声を出していくと、般若心経が自分の心と解け合うような感覚になります。これは体験しました。
人の言うことをきかない、私の般若心経も案外いいものです。
最近般若心経を唱えながら絵を描いております。すると迷いが消えます。無茶苦茶な絵になってもかまわないと思えるのです。大きなものに任せていいという気になるのですね。
(英語は聞き取りだけですが)
何かの特定な言葉だけが常に心に浮かぶーということが消えましたね。
韓国語、日本語、英語どちらの言語も
何かを発音することで
何かが起こるーこれも無くなりました。
恐らく比重が変わったからでしょうね。
だから、私の心は
言語と関わる現象が全く無いのです。
完全に無かな。
このようにコメントを残す時は
のしてんてんさんのイメージ
その瞬間瞬間浮かんだことを
思うつくまま書くだけです。
ブログ記事も
その日に浮かんだことを
指がいくまま、そのままを書いてるだけで
あまり、引っかかることも無くなりましたね。
まず多国語が理解できる。これは一つの意味をいくつもの音で観るということですから、その相乗効果は想像出来るように思います。
私のような一国語しか理解できないものがこの記事で言おうとしていたのは、知識の言葉に対して、同じことを智慧の言葉で理解する大切さなのです。言い方を変えれば、智識語と智慧語の二つの言葉で真実を見るということですから、
おそらく桂蓮様の体験は同じ理解に至る契機だったに違いありません。
もちろん、
だから、「私の心は言語と関わる現象が全く無いのです。完全に無かな。」
という桂蓮様の言葉はとても真実味があります。
今回の記事に即して言えば、それこそが「般若波羅蜜多」の働きでしょうね。
私の心のことで、桂蓮様にお伝えしたいことがあります。
こうして会話して頂いて、私は得がたいものを沢山いただきました。
それは桂蓮様の言葉が私の心の中に思わぬ翻訳語として現れるということです。
最近うれしかったことは、「私は二番目の道を選んだ」と言う言葉が生まれて、本道と脇道のイメージで自分をみるという視点を与えてくれたことです。
その場その場の思いも、一本の花。
その時、その時のイメージも一本の花。こだわりが無くなれば、一本の咲き誇る花。
花の香りを楽しみましょう。
芸術家ですね。
生まれ変わっても同じ道を選んだでしょう。
私の一番目の道は
心理療法士、臨床心理士でした。
塾長になるとはゼロのゼロでした。
ですが、与えられた状況から
ベストを選んだら塾を経営するようになったのです。
行けなかったその道も
きっと、2番めの道に繋がっていたと私は思います。
10年の経験を捨てて
絵の具を捨てた。
これは誰も真似できない決断でしょうね。
まあ、私も塾長としての15年間を完璧に捨てましたね。
全く未練はないです。
過去の栄光への自負心も無くしました。
捨ててみたら
それも大した業績でも無かったと苦思いは残りましたけどね。
花を咲く、
私は花より、雑草になりたいです。
人様に邪魔になれば
そっくり除かれる雑草
潔い生き方だと思いますけどね。
あまり歌とか聞かないのですが、
この歌手の声が好きで
訴えてくるものあるように感じます。
聞いていて、この歌手どんな人かなと知りたくなったので
調べたら、若い人でした。
歌詞も悪くないので、
(希望の唄)暇があったら聞いてみてください。