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修羅場 5

2017-01-30 | 私の絵画論

北斎の波 


修羅場の話しの最後に、葛飾北斎のことを取り上げてみましょう。

資料はすべてWikipediaからお借りしました。


伝記はよく知りませんが、私には、稀有の偉人であり、孤高の修羅の人であった。そう思えてなりません。

有名な赤富士。

無駄のない清らかさを感じさせてくれる富士の姿。赤色が心に沁み込んできますね。

日本が生んだ巨匠です。ゴッホなどにも大きな影響を与えました。

 

この人の人生は、私には想像もつかない才能と、それ以上に考えられないぐうたら生活を貫いた人だったようです。(詳細を知りたい方はWikipediaでご覧ください。

 

晩年の自画像。 画狂老人 修羅の人

 

私の心が引かれたのは、北斎のこんな一説です。

 

「北斎が亡くなったのは、最初にも述べたとおり、嘉永2(1849)年4月18日のこと。89歳で、死因は老衰だったとされます。言うまでもなく大変な長寿でしたが、北斎自身は全く満足していなかったようです。老いても常に絵画を研究しており、80代にして「猫一匹満足に描けない」と涙を流して悔しがったとも伝わりますし、死に際しては「もう10年長生きさせてくれれば…もう5年長生きさせてくれれば、そうすれば真の画家になれるのに違いない」と言い残したといいます。まさに絵に生き、絵に死んだ偉大なる絵師でした。」


それだけ偉大な人だったということですが、着目すべきは、得た名声にこれだけ無頓着な人は類を見ないということです。

影響を受けたと言われるゴッホなどは、まさにその名声を得られないまま自死に追い込まれたことを考えますと、ここになんという落差があるのでしょうか。

 

名声をほしいままにした北斎ですが、彼にとって、そんなものは露ほども価値がなかった。それゆえに、80を超えても、猫一匹満足に描けない。自分は死ぬまでに絵かきになれるのかと嘆くのですね。

度を越えた不幸と言えば不幸でしょう。

名声に胡坐をかいていれば、計り知れない富と幸せが手に入ったでしょうに、北斎が選んだ道は、今。

今、この実在が、満足できる絵を描く。それが修羅の道だったのかもしれません。

しかしそれが北斎の生き方だったのでしょう。

絵を通して、実在を生きた人だったのです。

まさにナウイズムそのものですね。

 

ナウイズムは、斬新な発明でもなんでもありません。

すでに備わっている人間の真実。それを思い起こそうという運動なのです。

そしてそれが私の究極の絵画論なのです。

 

 

 

 

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