(10)2009.11.7(踊る色)
一本線を引くと、その線が次の線を誘う。
そうして次々線が生まれる。その上から色が重なる。形を意識しないから、どんな絵が生まれるのか本人も知らない。それが母にとっての本物の絵の証しだと信じている。
今日は色にこだわった。12色のクレヨンを何度も持ち替え、採ったクレヨンは箱に戻さず左手に握っている。指と指の間に何本もクレヨンをはさんで、動きの鈍くなった手を動かしている。知らない間に手の運動も出来ているんだ。私はちょっと醒めたところから母を眺めた。
確実に母は進歩している。私はしばらく花火のように賑やかに踊る色の線に魅せられていた。
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母の左手は、何色ものクレヨンが針のように突き出て、クレヨンのハリネズミのように見えました。
その心をそっと眺めれば、
線を引き終えた色のクレヨンもまだ母の中で動き回っているんだということが見えてきたのです。
不自然でも、手に握っている何本ものクレヨンは、まだ母の心の中で自分の色を主張して生きていると言えばいいでしょうか。
今赤を塗っていても、その前に塗った緑色もしっかりと母の心にあるキャンバスには残っていて、協奏曲を奏でているんだと思えるのです。
そばで見ていて、ちょっと笑いそうになるクレヨンハリネズミの母の左手が、
とてもいとおしく思えたものでした。
母はその時、創作する命になり切っていたのですね。
そのものになり切っている人の姿は美しい。
現実の目にはしなびた母の姿が映っているのかも知れないけれど、
心の眼にはハリネズミになった手を器用に使いこなす創作者の無駄のない姿でした。年齢も車椅子も関係ないのです。
→ 画用紙にクレヨンを走らせながら、次の候補色を模索するんですよね ♪
オーケストラの指揮者が頭の中で、次の音をつまみ出すかのように。
しなびた母親に、彼女の英気を発見した一瞬だったんですね。
その時、
母が幼稚園児のように見えたので^す^
だっておかしいでしょう
指の間にクレヨンをいくつも挟んで、
あの手は、
どう見てもヤンチャ盛りの
まことちゃん でございまし^た^
まことちゃん 知らない世代が増えてきましたけど・・・
”母はその時、創作する命になり切っていた”
驚くほど、これ以上の説明がいらないほど端的な洗練された表現に驚きました。…得心の言葉の意味を知ったと言えるほど!
描きたい心がそのまま紙に写った絵。…言葉にはならないんです、…ただ「いいと想えるものと、納得がある。心がふわ~とする素晴らしい絵」
お母様に、拍手と感謝を。記事を書いてくださったのしてんてん様にも。
リハビリで線を引きはじめたのですね。絵のことなどまったく無関心だった母だけに、そんな人でも、こんなに没入出来るものがある。
しかも人生の終末、死の三年前、
まさに、夢も希望も果てた諦めきった母の心にともった光だったのです。
そんな時でも、まるで子供のような情熱が隠れている。それを教えてくれたのですね。
心がどんなに塞がって、救いようのない自分を感じても、その心を救う力が、苦悩する己のその心の中にある。
これは伝える価値のある真実だと思っているのです^よ^
共感していただいて、
心より感謝いたします。
クレヨンハリネズミさんの
カラフルなリズムとともに
描き出されている☆踊る色♪は、
今この瞬間も踊っていますよね☆♪
つまり超高速回転しているコマが、
一見静止して見えますように、
一見静止して見えている☆踊る色♪は、
実は超高速度、むしろ超光速度で
回転しているように、私には感じられます。
実際、原子で構成されている私たち万物は、原子を構成している素粒子、
常に超光速度で回転している素粒子で
構成されていますものね。
しかし私たちには、私たちが超光速度で
回転しているにもかかわらず、回転しているようには見えません。けれども、
私を構成している素粒子は、
超光速度で回転しています!
このような感動を、お与え下さいました
お母様☆踊る色☆に感謝申し上げます!
のしてんてんさん、今日は、
天王寺美術館に作品の搬入、
飾り付けに行かれているのですね✨
いよいよですね。良い汗を発散なさって
くださいね。❄️キーーーン❄️⛄️と
冷えたビール🍺🍗🍕が待ってます^よ^
命はどんなものでも常に等しく回転しているのですよね。
ところが人はそれどれ勝手に価値をつける。
世の中に注目されているものは価値があり、誰からも見られないものは無価値だと・・・
それを人がら言われるのはまだしも、一番悲しいのが自分自身でそんな評価をしてしまうことなのだと、私は自分の経験を通して痛切に思ってしまいます。
誰もが平等に価値がある。これが真実だと思うのですが、自分で自分の価値を見つけられない人がとても多いいと思うのですね。
でもそれは間違っている。
誰もがみな同じだけ価値を持っている。
そのことに気付いてもらえるエピソードがここにあるのですね。
誰もがみな母と同じように回転している。そのことに気付いたとき、その人は自分の回転(エネルギー)がなにものにも代えがたい価値があることを理解する。するとその独自の回転から生まれるどんな些細なことでも、神と同じ質と価値得を持っていると思えるのです。
人はみな、どんな境遇のどんな人生を歩んでいるものでも、等しくその喜びをつかむことが出来る。そのように仕組まれているのですね。
それが母のエピソードだと確信しているのです。
これからもよろしくお願いします^ね^