旧陸軍高田第13師団の師団長官舎が、カフェレストランに利用されるようになったそうだが、上越市商工会主催の食事会に参加した友人に聞いたら、建物が持つ歴史の説明はなかったそう。
上越妙高タウン情報さんからの転載した師団長官舎の写真。フランス料理店ができたそうだが、店舗のホームページにも建物の由来が書かれていなかった。
中国大陸やインパール戦で勇名を馳せた歩兵第58連隊の兵士たちは、高田師団隷下の主に新潟や仙台や福島で召集された人々、つまりは我々の祖父たちであったことを伝えないと、なんの歴史的建物の活用といえるのか?明治期に建てられたレトロでお洒落な建物で食事できますというだけでいいのか?
インパール戦の戦死者の7割前後は、餓死と栄養失調からアメーバ赤痢やデング熱、コレラに罹患して病没と分析されている。あるいは自力歩行できなくなって自決を強要されたり、銃殺された兵隊であったことを語り継がないと、戦死した兵士は浮かばれないし、生還できた人も穏やかではないのではないだろうか。
「兵隊無頼コヒマをいく」の著者と表紙絵を描いた人ともに58連隊の元兵士だった新潟県人。
もしや輜重隊の曹長としてインパール戦に従軍した私の爺さんのことが出てくるかと期待して取り寄せたが、出てこなかったにしても、こんな状況でよく生きて還ってきたと涙なしには読めなかった。
将校たちが酒を飲んで宴会をするすぐ横で、自立歩行できなくなった兵隊たちが泣いて命乞いしながら銃殺されていった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓もあるが、捕虜になると軍事機密が漏れるというのがその理由だ。だから通訳のインド人や使役のビルマ人軍属も銃殺された。
ところが自ら投降した兵士たちも少なからずいて、著者は戦後に元捕虜たちを探し出して聞取り調査をしている。
弾薬も糧秣(食料)も与えられず、雨季で水浸しになった塹壕の中に身を潜め、銃剣と手榴弾だけで肉弾攻撃を強要された兵士の中には、人間扱いしない「アジア解放の皇軍」の実態に幻滅し、どうせ死ぬなら腹いっぱい食ってから死にたいと投降して、戦後に無事に帰還できた人もいたのだ。インドの捕虜収容所では、食事を満足に与えられて虐待もなかったそうだ。
前線ではイギリス軍傭兵のグルカ兵は敵意に満ちていたが、主にシーク教徒やイスラム教徒で構成されていたインド兵は比較的に穏健で、夜になると血だらけの日本兵の亡霊が突撃してくるが恐ろしいと投降してきたこともあったようだ。死してもなお兵士の魂魄は戦場を漂い戦っていた。今はどうなのだろうか?
著者自身も、「皇軍」の理不尽さに持ち前の反骨神を発揮した。勝新太郎の当たり役「兵隊やくざ」を地でいくかのように、階級章が破れてなくなってから大尉になりすまし、兵隊を酷使し、私的制裁を加える無慈悲な中尉以下にベランメイ口調で制止せさる場面が何度も出てくる。
また著者は、退却時に牟田口中将に怒鳴られている。
白骨街道とも靖国街道とも呼ばれた退却路には屍が累々と続き、ボロボロに破れた軍服の兵隊たちが半死半生で横たわっていた。そこをピカピカの軍装のままの牟田口中将一行が退却してきた。
「皇軍兵士がなんたる様か!立って敬礼せんかっ!貴様らの根性がないからこうなったのだ!馬鹿者!」と怒鳴り散らし、一緒に連れていって下さいと足元にすがる将校を「臭い!近寄るな!」とムチ打ち、悪びれもせず堂々と「逃げてきた」そうだ。
行政や商工会が歴史遺産を地域活性化で活用するのはいいこと。しかしその歴史をきちんと勉強して、利用者に説明しないと片手落ちではないだろうか。