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戦争で輸送に従事した男たちの悲愁と悲劇・・・堀川恵子著「暁の宇品」

2024年12月08日 08時46分55秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
BSスペシャル「暁の宇品」で帝国陸軍の船舶輸送を担う広島の宇品港に司令部がある暁部隊のことを知った。
こちらが番組の元になった著作。ブックスサカイさんに注文せねば。
世界の戦争をかえた上陸舟艇は、暁部隊が独自開発して上海事変からつかわれた「大発」(ダイハツ)が最初だった。写真はウキペディアさんから借用
 
しかし日中戦争の初期から兵員輸送が限界で、民間の輸送船を船員ごと徴用していたが、連合軍の好餌となり終戦までに6万人を超え、海軍軍人の倍以上が海没(戦死ではない)したが、犠牲になっても恩給のつかない軍属扱いだった。
 
これらを危惧した司令官が大本営に意見具申しても黙殺され、退役させられてしまう。エリート集団が立案した作戦に馬車馬屋ふぜいがなにを生意気な!という意思表示で、当時の日本軍がいかに輸送を軽視していたかわかるエピソード。
 
ちなみに馬車馬屋とは輸送部隊をバカにする時の旧軍の常套句。
 
お国のためと「大発」を開発した天才技術者は、中国での日本軍の蛮行を目の当たりにして軍をはなれ、戦後も戦争犠牲者の慰霊のために造船の世界から距離をおく隠遁生活を送った。
 
広島に原爆が投下されて3時間後、暁部隊司令官は独断で市民の救援を決意。宇品から「大発」で川を俎上させて救援に向かわせた。この時の兵士は、本土決戦に温存されていた10代の特攻要員たちだった。
 
「戦果」を挙げることもなく、黙々と地味な裏方に徹した暁部隊の功績が正史で語られることのないのは、日本軍が輸送を軽視していたこともある。しかしその功績と、将兵の苦悩を調べると太平洋戦争の実態が浮かび上がってくる。
 
わたしの祖父は3度軍役についたが、中国にも南方にも宇品港から出港して、運よく入港できたことが県庁から取り寄せた「兵籍簿」と「部隊略歴」に記載されている。その祖父にしてもビルマ・インパール戦の独立輜重隊(どくりつしちょうたい)という陸上輸送の部隊の曹長で、馬車馬屋とバカにされてもインパール戦では歩兵より犠牲者が多かったと聞く。
 
戦死した陸軍陸軍将兵、軍属の船員たちが人生最後に踏んだ国土が宇品港だった。これはもっと知ってほしいもの。