満州の「生き地獄」から辛くも帰国できた稲毛幸子さんが、遺言のつもりで91歳の時に出版した「1945わたしの満州脱出記」は、小さなお子さんのいるお母さんがたに読んで欲しい本。
稲毛さんはウクライナで同じことが繰り返されていることに心を痛め、戦争を知らない世代に悲惨さを語り継ぎたいと願っておられるようだ。
1945年9月2日はポツダム宣言受諾の調印式の日で、欧米の認識ではこの日が太平洋戦争の終戦である。しかし「戦争」は続いていた。
8月9日、不可侵条約を破棄したソ連が満州に侵攻、官僚や高級軍人は子弟だけを極秘裏に逃がした。また8月16日に武装解除の大命が下り、ソ連軍にも武士の情けはあり居留民に手を出さないであろうと、甘い見通しで降伏したため、数十万の居留民はソ連軍から乱暴狼藉を受けることになった。
・ロシア兵に拉致された娘たちは二度と戻ってこなかった。
・お隣りでは泣き叫ぶ幼児が射殺され、奥さんが凌辱されて自殺した。
・まいにち、どこかで女の悲鳴がきこえ、餓死者がでた。
・暇つぶしなのか、意味もなくロシア兵が隣家の子供を狙撃した。
当時20歳そこそこの稲毛さんも、なんどもロシア兵から強姦されそうになっている。しかし窮余のあまり、顔に味噌をぬって難を逃れた。異様な面相に情けなく、かゆくて仕方なかったそうだが、見た目以上にロシア兵は味噌の匂いが苦手だったようだ。
そんな暮らしを1年もつづけるうちに、稲毛さんの二人の乳飲み子も相次いで餓死したし、ご自身も片目を失明した。邦人の遺体は広場に放置され野犬のエサになっていたので、稲毛さんのご主人はロシア兵に隠れて真夜中に埋葬した。
幸か不幸か、二人目の子供が餓死した帰国直前に埋葬した遺体を掘り返して一緒に火葬できたので、遺骨をリュックに入れて一緒に帰国できた。リュックを背負うと遺骨がカタカタと音をたて、二人の子供が帰国を喜んでいるように感じたそうだ。
戦争とは戦闘のみに非ず。
生き残った者も、生涯その傷を負うことになる。
政治決着の終戦はあっても、「戦争」は終わらないのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます