「雪に糸となし、雪中に織り、雪中に洒ぎ、雪上に曝す、
雪ありて縮あり、雪と人と気力相半して名産の名あり、
魚沼郡の雪は縮の親といふべし」
何度読んでも名文だと感心するのは、江戸時代中期のベストセラー「北越雪譜」(ホクエツセップ)である。
著者は現在の新潟県南魚沼市塩沢の縮問屋の隠居だった鈴木牧之(スズキボクシ)。
「鈴木牧之記念館」の牧之坐像。
当時の商人の旦那衆といえば算盤勘定だけではなく、花鳥風月に通じる風流人であり、書画や詩歌に長けた文化人が多かった。
芭蕉や一茶などの俳人が、旅に出られたのも彼らを庇護した牧之のような旦那衆が各地にいたればこそ。
そんな旦那衆の中でも牧之は画才と文才が跳びぬけた上に好奇心旺盛だったようで、主に中越地方の雪国の暮らしや伝聞を書き残して出版されたのが北越雪譜である。
牧之が北越雪譜に描き残した雪の結晶。虫眼鏡で観察したらしいが、知的好奇心が旺盛で幾何学にも通じて抜群に絵が上手かった事が解る。
鈴木牧之記念館を訪れた十二月の南魚沼は、一晩で70㎝の雪が降った。
北越雪譜は現在人が読んでも面白い・・・まるでお伽話のようだ。
例えば得体の知れない雪男?に焼き飯をあげたお礼に荷物を運んで貰った話や、雪山で沢に落ちた男が冬眠中の熊に助けられた話等々。
今時のテレビ番組ならお笑いタレントに茶化されて終わってしまうような内容でも、著者の牧之や当時の読者達は、そんな馬鹿な話があるもんか!と一笑しないどころか、それら伝聞や逸話を「世の中には不思議な事もあるもんだ」と素直に受け入れている態度が素晴らしい。
こういった態度こそ文化的だろう。
ましてや牧之の温かい眼差しに加えて、踊るような名文であるから何度読んでも面白い。
さて、水戸黄門問題である。
諸国漫遊する「越後の縮緬問屋の隠居」は水戸黄門の世を忍ぶ仮の姿で、本当は先の副将軍、水戸光圀公であらされる。
しかし、果たして越後のどこに縮緬問屋があるのだ?と子供の頃から疑問に思っていたのだ。
縮緬といえば京都の丹後縮緬が有名なんだが・・・。
調べてみたら、現在は上越市となった越後高田は江戸時代の縮緬産地だったようなので、水戸黄門の身分詐称(笑)はあながち間違いではないようだ。
しかしわざわざ「越後の・・・」と偽っているのだから、高田縮緬よりもっとメジャーな越後上布と小千谷縮のほうが通りはいいように思うのである。
越後上布は上杉謙信の重要な貿易品で、佐渡の金山と並ぶ軍資金の財源だったくらいだから、室町時代からの高級ブランド品。
老婆心ながら、縮緬問屋より縮問屋か上布問屋のほうがリアリティがあるのではないだろうか????
高田と言えば初代藩主は、徳川家康の六男にして伊達正宗の娘婿の松平忠輝だ。
松平忠輝は家康から冷遇されて、若くして改易されて幽閉の身となった不遇の大名。
忠輝と水戸光圀は同時代に生きていたので、「越後の縮緬問屋」というのは忠輝関連の深い意味が隠されているのだろうか?
牧之は縮問屋の旦那だから、商いで江戸に出向く度に江戸の文化人たちと交流を深めていったようだが、隠居した後には商売抜きで長野県と新潟県の境にある秋山郷を探訪しており、後に「秋山紀行」を書き残している。
諸国漫遊の縮問屋の隠居が実在しているので、こっちのほうがリアリティーがあるのでは?というのが俺の水戸黄門問題である。
鈴木牧之記念館の近くに「塩沢つむぎ記念館」に寄った時に、長年の胸の閊えに溜飲が降りた・・・大袈裟な(笑)
塩沢つむぎ記念館の二階では、イザり機の実演もしている。越後上布は国指定民俗無形文化財なので、昔ながらのイザリ機で織る事の他に芋麻(チョマ・イラクサ科の麻の一種・ラミー)を手うみした糸を使用するなど様々な決め事を守らなければならないのである。ただし、実演用はデリケートで高価な国産手うみの芋麻ではなく、工業製品の輸入ラミーを使用しているとの事。
塩沢つむぎ記念館の館長に水戸黄門問題を尋ねたら、「水戸黄門は、脚本家が縮問屋を間違えて縮緬問屋っていってるんですよう!」と笑っていた。
ただ本当に脚本家が間違えたのか?
それともチヂミよりチリメンのほうがゴロがいいので間違いを承知で縮緬問屋としたのか?
もしくは訳ありの高田縮緬の問屋という設定であったのか?
以上三つの内のどれが真実なのかは不明なままだ。
ネット検索したら、江戸市中には「越後屋」・・・三越の前身ですな・・・という屋号が多く、耳馴染が良い事や、実際に水戸光圀は越後縮緬を愛用していたからという説もあった。
どうする水戸黄門問題・・・誰か教えて!
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