曼殊院はまんしゅいんと読むそうです。延暦年間(782年~806年)最澄が比叡山上に一宇を設け、天慶年間(938年~947年)に是算が西塔北谷に移し、東尾坊と号したのが始まりです。天暦元年(945)に門跡寺院となりました。 平安後期の天仁年間(1108年~1110年)忠尋のとき曼殊院と名を改めました。後に北山へ移り、その後足利義満が御所のそばに移し、文明年間(1469年~1487年)のとき伏見宮貞常親王の子慈雲法親王が入寺し門跡寺院となり、以後竹内門跡と称されるようになりました。
現在地に移ったのは江戸初期の明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が住持となったときだそうです。そのため桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築です。
豊臣、徳川の援助を受けつつも、桃山文化の華やかさを皇族流に洗練させた芸術がこの時代に花開いたようです。また良尚法親王は正保3年(1646)天台座主となったなかなかの人物だったそうです。
虎の間、大書院、小書院、庫裡は重要文化財に指定されています。建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っています。
現在地に移ったのは江戸初期の明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が住持となったときだそうです。そのため桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築です。
豊臣、徳川の援助を受けつつも、桃山文化の華やかさを皇族流に洗練させた芸術がこの時代に花開いたようです。また良尚法親王は正保3年(1646)天台座主となったなかなかの人物だったそうです。
虎の間、大書院、小書院、庫裡は重要文化財に指定されています。建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っています。

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