旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

塩山市にある慈雲寺です。

2007年02月28日 | 旅 歴史
 天龍山(てんりゅうざん)・慈雲寺は暦応年間(1338~1341)に夢窓国師によって開かれた禅寺です。「天龍山慈雲寺の糸ざくら」と樋口一葉の文学碑で有名です。
 イトザクラの樹形の美しさは県内屈指とされ、県内外から多くの人々が訪れるようになりました。樹齢300年の名木で塩山市指定の天然記念物です。
 寺内には樋口一葉文学碑があります。樋口一葉は明治の女流作家で「たけくらべ」や「にごりえ」などが有名です。一葉の両親は、塩山市中萩原地区の出身で、江戸に出てから父は徳川幕府に仕え、明治になってからは東京府庁に勤めました。短い24年の生涯の間、一葉は一度もここを訪れたことがありませんでしたが、彼女の作品には、しばしば塩山の地名や風情が出てきています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府市古府中町にある武田神社です。

2007年02月25日 | 旅 歴史
 武田神社は元武田氏の館跡で、当時は「躑躅(つつじ)が崎館」と呼ばれていました。「躑躅が崎館」は武田信玄公の父、武田信虎が永正16年(1519)に石和から移り築いたもので、武田信玄公の時代を経て、武田勝頼が新府城を築くまでの間、武田氏の拠点でありました。境内には館の土塁・堀・石垣が残っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府市東光寺町にある東光寺です。

2007年02月21日 | 旅 歴史
 法蓋山(ほうがいざん)・東光寺は、新羅三郎義光が保安2年(1121)に、諸堂を建立した興国寺にはじまるといわれています。その後、わが国にはじめて、本格的な宋朝禅を伝えた蘭渓道隆(大覚禅師)が、弘長3年(1263)に入山して、荒廃した諸堂を修復し、禅刹として再興しました。
 東光寺は、鎌倉幕府の執権北条高時(法名崇鑑)から、幕府の官寺として「五山」「十刹」につぐ「諸山」に列せられていました。戦国時代には、武田信玄が定めた外護、府中五山の一つに列せられた名刹になっています。天正10年(1582)、織田信長に焼かれ、住持藍田和尚は恵林寺に避難しましたが、のち快川和尚らと火定に入りました。
 本堂裏山の墓地には武田義信と諏訪頼重の墓がある。長男でありながら父信玄と対立、この東光寺に幽閉され終焉を遂げさせられた義信、名族諏訪氏の当主で、信玄の妹を夫人に迎えていたが武田軍の攻撃を受けて敗れ、この寺に幽閉され切腹させられた頼重、いずれも戦国時代の悲しく厳しい歴史です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲斐善光寺

2007年02月15日 | 旅 歴史
 甲斐善光寺は定額山浄智院善光寺といいます。この山号は長野の善光寺と同じです。信玄、謙信との川中島合戦で天文21年(1552)信州善光寺が炎上しました。永禄元年(1558)に、御本尊善光寺如来像(秘仏)や諸仏、経典、寺宝、大梵鐘や僧侶などを甲斐に移転し、今の善光寺を建立しました。
 甲斐善光寺のご本尊の阿弥陀三尊像は長野善光寺の前立仏で建久6年(1195)に尾張の僧である定尊が造ったものだそうです。7年に一度の御開帳の時に見ることができます。長野善光寺の御本尊は甲斐善光寺から信長の岐阜などに移されたりもしましたが最終的に長野に戻されました。前立仏は甲斐善光寺の御本尊となったのです。
 信玄が建立した甲斐善光寺は江戸時代(1754)に門前の農家の家事によって焼失してしまい、金堂と山門が1796年に再建されました。これが現在の甲斐善光寺で、金堂は日本でも十指に入る巨大な木造建築物です。
長野善光寺は日本で三番目の大きさだそうです。建物の高さでは甲斐善光寺の方が5mほど高いそうです。豪壮な構えの甲斐善光寺は東日本最大の木造建築物なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清白寺

2007年02月09日 | 旅 歴史
 山梨市三ヶ所にある海涌山清白寺です。足利尊氏が夢窓疎石(国師)を開山とし、正慶2年(1333)に創立したと伝えられる臨済宗の寺院です。
 仏殿の建立は、組物に墨書が発見され、応永22年(1415)と判明しました。天和2年(1682)の寺院火災にあい、伽藍、塔頭を焼失しています。仏殿(観音堂)だけが幸いにして焼け残りました。昭和30年、国宝に指定されました。
西側にある井戸は諏訪湖に通じているといわれ、そこから「海涌山」と号したといわれています。この井戸は日照りのときにも涸れることがなく、水位が諏訪湖と常に同じだと言い伝えられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山梨県塩山市小屋敷にある恵林寺です。

2007年02月07日 | 旅 歴史
 恵林寺の三門は、1582年4月3日に近江の豪族佐々木義治をかくまったことから、織田信長の怒りを買い、快川国師が100余人の僧と共に火に包まれた場所です。その際に「安禅不必須山水、減却心頭「自涼」の言葉を残したそうですが、これは「安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という意味だそうです。
 乾徳山恵林寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、鎌倉期の1330年に名僧、夢窓国師を招いて開基した甲州随一の名刹です。武田信玄公が自らの菩提寺として、仏教と共に様々な香り高い文化を甲斐の国に伝えました。
 武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元(1521)年の出生です。天文10(1541)年、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となりました。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する武将であったようです。
 元亀4(1573)年4月12日、病のため信州、駒場の陣中で53歳で没しました。その10年前に恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていました。3年間の秘喪の後、天正4(1576)年4月に勝頼が施主となって本葬が執行されました。
「風林火山」とは孫子からの引用文であり「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」を意味するそうです。

 これは「早きこと風のごとし、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という意味で武田軍の軍旗などにも書かれていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする