長崎県長崎市大浦町にある孔子廟中国歴代博物館です。
明治26年(1893)清朝政府が建てた海外唯一の廟です。中国文化の香り漂う大成殿などオリエンタルな空間が広がっています。
色鮮やかな建物は中国の華南と華北の建築様式が融合した美しさです。廟全体に広がる朱色は魔除けと慶びを表しているのだそうです。
孔子像や前庭にずらりと並んだ72体の賢人像など石製のものはすべて中国から取り寄せたものだそうです。 論語をはめ込んだ壁面も見どころです。
併設されている中国歴代博物館には中国歴史博物館提供の出土文化財や北京故宮博物院提供の宮廷文化財が展示されています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
明治26年(1893)清朝政府が建てた海外唯一の廟です。中国文化の香り漂う大成殿などオリエンタルな空間が広がっています。
色鮮やかな建物は中国の華南と華北の建築様式が融合した美しさです。廟全体に広がる朱色は魔除けと慶びを表しているのだそうです。
孔子像や前庭にずらりと並んだ72体の賢人像など石製のものはすべて中国から取り寄せたものだそうです。 論語をはめ込んだ壁面も見どころです。
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長崎県長崎市本尾町にある浦上天主堂です、
浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上地区の信徒達によって行われました。
しかし、なかなか資金が集まらず明治28年(1895)にフランス人宣教師フレノ神父の設計による教会の建設が開始されました。
そして大正3年(1914)東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂としてまだ未完成でしたが献堂式があげられたのでした。
しかしそれも原爆により全壊してしまいました。現在の建物は昭和34年(1959)に再建されたものです。また原爆の爆風に耐えた唯一のアンジェラスの鐘が今も1日に3回鳴り響いています。
昭和55年(1980)レンガタイルで改装され往時の姿に復元されました。昭和56年(1981)2月26日、当時のローマ法王・ヨハネパウロⅡ世がここ浦上天主堂での司祭叙階ミサを行ないました。
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浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上地区の信徒達によって行われました。
しかし、なかなか資金が集まらず明治28年(1895)にフランス人宣教師フレノ神父の設計による教会の建設が開始されました。
そして大正3年(1914)東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂としてまだ未完成でしたが献堂式があげられたのでした。
しかしそれも原爆により全壊してしまいました。現在の建物は昭和34年(1959)に再建されたものです。また原爆の爆風に耐えた唯一のアンジェラスの鐘が今も1日に3回鳴り響いています。
昭和55年(1980)レンガタイルで改装され往時の姿に復元されました。昭和56年(1981)2月26日、当時のローマ法王・ヨハネパウロⅡ世がここ浦上天主堂での司祭叙階ミサを行ないました。
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長崎県長崎市平野町にある長崎市平和会館です。
長崎市平和会館は平和公園の学びのゾーンの中にあります。またこの建物の中に長崎市歴史民俗資料館と野口彌太郎記念美術館が併設されています。
長崎市歴史民俗資料館には長崎市内で出土した旧石器時代から江戸期の考古資料を展示しています。昭和53年(1978)本館が旧上海銀行長崎支店に、分館が旧長崎税関下り松派出所に開設されました。平成18年4月に平和会館に移転しました。
野口彌太郎記念美術館は近代日本の代表的洋画家である野口彌太郎の作品を展示しています。平成5年(1993)に旧長崎英国領事館の場所に開館し、平成19年(2007)4月に、平和会館に移転しました。
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長崎市平和会館は平和公園の学びのゾーンの中にあります。またこの建物の中に長崎市歴史民俗資料館と野口彌太郎記念美術館が併設されています。
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野口彌太郎記念美術館は近代日本の代表的洋画家である野口彌太郎の作品を展示しています。平成5年(1993)に旧長崎英国領事館の場所に開館し、平成19年(2007)4月に、平和会館に移転しました。
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長崎県長崎市平野町にある長崎原爆資料館です。
長崎原爆資料館は平成8年(1996)に被爆50周年を記念し平和都市長崎のシンボルとして開館されました。地上2階・地下2階で爆心地に臨む高台に建てられました。
熱線で溶けたビンや皿、そして多くの写真からみる長崎市内の被爆の惨状が、決して忘れてはいけない貴重な資料としてここに展示されています。
原爆前の長崎の風景と原爆投下後の風景などを展示し原爆の恐ろしさを訴えています。原爆・平和関係の本が閲覧できる図書室、ビデオルーム、平和学習室、いこいの広場などもあります。
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長崎原爆資料館は平成8年(1996)に被爆50周年を記念し平和都市長崎のシンボルとして開館されました。地上2階・地下2階で爆心地に臨む高台に建てられました。
熱線で溶けたビンや皿、そして多くの写真からみる長崎市内の被爆の惨状が、決して忘れてはいけない貴重な資料としてここに展示されています。
原爆前の長崎の風景と原爆投下後の風景などを展示し原爆の恐ろしさを訴えています。原爆・平和関係の本が閲覧できる図書室、ビデオルーム、平和学習室、いこいの広場などもあります。
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長崎県長崎市松山町にある平和記念像です。
平和祈念像は平和公園のシンボルです。郷土出身の北村西望(きたむらせいほう)氏による青銅製で高さ9.7m、重さ30トン平和のシンボルとして造られました。平成12年(2000)2月には全面修復されました。
天を指す右手は原爆の脅威を表わしています。水平に伸ばした左手は平和を示し、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈る姿だそうです。
毎年8月9日には、平和祈念像の前で原爆で亡くなった約7万5000人の人々の慰霊祭と平和記念式典が行われています。世界恒久平和を願う長崎市のシンボル的存在になっています。
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天を指す右手は原爆の脅威を表わしています。水平に伸ばした左手は平和を示し、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈る姿だそうです。
毎年8月9日には、平和祈念像の前で原爆で亡くなった約7万5000人の人々の慰霊祭と平和記念式典が行われています。世界恒久平和を願う長崎市のシンボル的存在になっています。
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長崎県長崎市松山町にある平和公園です。
北村西望作の平和祈念像が中央に位置する公園です。人類史上2番目の原子爆弾が投下されたのは昭和20年(1945)8月9日午前11時2分でした。多くの尊い命を奪った原爆、その悲劇を二度と繰り返さないために、長崎市民が永遠の平和を願って築いたのがこの平和公園なのです。
市北部の緑広がる園内には原爆落下中心地があり、平和を願うモニュメントなどが点在しています。
平和の泉は原爆の被爆者たちのめい福と世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて建設されたもので、石碑に被爆した少女の手記が刻まれています。
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市北部の緑広がる園内には原爆落下中心地があり、平和を願うモニュメントなどが点在しています。
平和の泉は原爆の被爆者たちのめい福と世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて建設されたもので、石碑に被爆した少女の手記が刻まれています。
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長崎県長崎市大浦町にある旧長崎英国領事館です。
旧長崎英国領事館は上海英国政府建築課技師ウィリアム・コーワンの設計に基づき、後藤亀太郎が施工し明治41年(1908)に完成しました。
レンガ造り2階建の本館は周囲にベランダをめぐらし、正面2階にはイオニア式の柱があります。1階は事務室、2階が領事の住宅でした。敷地はレンガの塀や石塀で囲まれています。
第二次世界大戦中にこの領事館は閉鎖されました。昭和30年(1955)長崎市がこの建物を買い取り、児童科学館として活用したのち、野口彌太郎記念美術館になりました。
施行から100年以上経ち、老朽化が進んだことから、保存改修工事を行うことになりました。現在、野口彌太郎記念美術館は平和公園の中の平和会館に移転しています。
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旧長崎英国領事館は上海英国政府建築課技師ウィリアム・コーワンの設計に基づき、後藤亀太郎が施工し明治41年(1908)に完成しました。
レンガ造り2階建の本館は周囲にベランダをめぐらし、正面2階にはイオニア式の柱があります。1階は事務室、2階が領事の住宅でした。敷地はレンガの塀や石塀で囲まれています。
第二次世界大戦中にこの領事館は閉鎖されました。昭和30年(1955)長崎市がこの建物を買い取り、児童科学館として活用したのち、野口彌太郎記念美術館になりました。
施行から100年以上経ち、老朽化が進んだことから、保存改修工事を行うことになりました。現在、野口彌太郎記念美術館は平和公園の中の平和会館に移転しています。
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長崎県長崎市松が枝町にある旧香港上海銀行長崎支店記念館です。
イギリスの銀行である香港上海銀行は明治25年(1892)に長崎に支店を開設し、ギリシア古典建築様式のこの建物は明治37年(1904)に建てられました。建築界の異才・下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構でレンガと石造りの3階建てです。
この支店は当時神戸以西では唯一の外国銀行だったそうです。外国為替やロンドン、上海、香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。
その後、長崎県がこの建物を買収し梅香崎や大浦警察庁舎として使用しました。そして長崎市が買収し、昭和53年(1978)長崎市立歴史民俗資料館の本館となりました。資料館はその後平和会館に移転しました。
平成8年(1996)長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館としてオープンしました。1階は資料館のほか、銀行業務を行っていたカウンターなどが残され多目的ホールになっています。2階は明治期の居留地での生活、3階は諸外国との貿易の歴史の資料を展示しています。平成元年(1989)国の重要文化財に指定されました。
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この支店は当時神戸以西では唯一の外国銀行だったそうです。外国為替やロンドン、上海、香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。
その後、長崎県がこの建物を買収し梅香崎や大浦警察庁舎として使用しました。そして長崎市が買収し、昭和53年(1978)長崎市立歴史民俗資料館の本館となりました。資料館はその後平和会館に移転しました。
平成8年(1996)長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館としてオープンしました。1階は資料館のほか、銀行業務を行っていたカウンターなどが残され多目的ホールになっています。2階は明治期の居留地での生活、3階は諸外国との貿易の歴史の資料を展示しています。平成元年(1989)国の重要文化財に指定されました。
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長崎県長崎市松が枝町にある長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所)です。
長崎市べっ甲工芸館は、4年間の保存修理工事を終えた旧長崎税関下り松派出所に、平成14年(2002)4月に開館しました。長崎の伝統工芸品、べっ甲細工の技術と技能を保存するために設けられました。館内にはべっ甲細工の貴重な作品が300点近く展示されています。
長崎税関下り松派出所は、明治31年(1898)に建設されました。庁舎は、正面を海に向かって立つ煉瓦造りです。平屋建の小規模な建物で、正面両端に三角破風を見せた端正な意匠になっています。
敷地は煉瓦塀で囲まれていて、内部は検査場、倉庫、事務所などになっていました。明治時代の税関施設の状況をよく伝えていて、平成2年3月に国の重要文化財に指定されました。
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長崎税関下り松派出所は、明治31年(1898)に建設されました。庁舎は、正面を海に向かって立つ煉瓦造りです。平屋建の小規模な建物で、正面両端に三角破風を見せた端正な意匠になっています。
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長崎県長崎市魚の町にある眼鏡橋です。
中島川にある眼鏡橋は寛永11年(1634)唐僧で興福寺の2代目住職であった黙子如定(もくすにょじょう)禅師によって架けられたそうです。
日本初の石造りアーチ橋で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名で呼ばれていました。明治15年(1882)正式に眼鏡橋と命名されたそうです。
中島川には、14のアーチ石橋がありました。昭和57年(1982)の長崎大水害により、眼鏡橋ほか2つの橋が一部崩壊し6つの橋が流失しました。眼鏡橋は昭和58年(1983)に復元されました。国の重要文化財に指定されています。
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日本初の石造りアーチ橋で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名で呼ばれていました。明治15年(1882)正式に眼鏡橋と命名されたそうです。
中島川には、14のアーチ石橋がありました。昭和57年(1982)の長崎大水害により、眼鏡橋ほか2つの橋が一部崩壊し6つの橋が流失しました。眼鏡橋は昭和58年(1983)に復元されました。国の重要文化財に指定されています。
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長崎県長崎市西坂町にある日本二十六聖人記念聖堂の聖フィリッポ教会です。
日本二十六聖人の列聖百年を記念して昭和37年(1962)6月に記念館とともに建てられた聖堂です。スペインの建築家アントニオ・ガウディを日本に紹介した今井兼次による設計で、ガウディの影響を受けたモザイクの双塔が特徴です。
大浦天主堂が日本二十六聖殉教者聖堂という正式な名称を持っていたため、26聖人殉教者の一人、聖フィリッポ・デ・ヘススの名をとって日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会という長い名前になったということです。
24歳のメキシコ人聖フィリッポは、フィリピンで司祭になるための勉強を終え、司祭叙階を受ける帰路、日本に立ち寄りました。豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらとともに、京都、大阪で引き回され、ここ長崎西坂の丘で慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されてしまったのです。
教会の二本の塔には、庶民生活を表す、置物や、食器のかけらなどが一面にモザイクのように張り巡らされています。教会の壁や塔に埋め込まれている焼き物は、京都から長崎までの道沿いで作られた焼物が使われているそうです。26聖人が歩かされた苦しい道のりを表現したものです。
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大浦天主堂が日本二十六聖殉教者聖堂という正式な名称を持っていたため、26聖人殉教者の一人、聖フィリッポ・デ・ヘススの名をとって日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会という長い名前になったということです。
24歳のメキシコ人聖フィリッポは、フィリピンで司祭になるための勉強を終え、司祭叙階を受ける帰路、日本に立ち寄りました。豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらとともに、京都、大阪で引き回され、ここ長崎西坂の丘で慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されてしまったのです。
教会の二本の塔には、庶民生活を表す、置物や、食器のかけらなどが一面にモザイクのように張り巡らされています。教会の壁や塔に埋め込まれている焼き物は、京都から長崎までの道沿いで作られた焼物が使われているそうです。26聖人が歩かされた苦しい道のりを表現したものです。
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長崎県長崎市西坂町にある日本二十六聖人記念館です。
長崎市街を見下ろす西坂公園の「日本二十六聖人殉教地」にある記念館です。昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、日本二十六聖人の記念碑とともに建てられました。 昭和56年(1981)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も来館されています。
鉄筋コンクリート3階建の記念館および隣接する聖堂の設計を手がけたのはアントニ・ガウディの研究者でもあった今井兼次です。
ここでは毎年、処刑された2月5日に二十六聖人の殉教記念祭が行われています。
豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
記念館では26人の殉教者を称えると共に、聖フランシスコ・ザビエルの渡来から明治政府下の宗教弾圧に至るまで、330年間のキリスト教の歴史を紹介しています。 長谷川路可のフレスコ画「長崎への道」、フランシスコ・ザビエルの書簡などキリシタン関連の貴重な品々が収蔵されています。
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長崎市街を見下ろす西坂公園の「日本二十六聖人殉教地」にある記念館です。昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、日本二十六聖人の記念碑とともに建てられました。 昭和56年(1981)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も来館されています。
鉄筋コンクリート3階建の記念館および隣接する聖堂の設計を手がけたのはアントニ・ガウディの研究者でもあった今井兼次です。
ここでは毎年、処刑された2月5日に二十六聖人の殉教記念祭が行われています。
豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
記念館では26人の殉教者を称えると共に、聖フランシスコ・ザビエルの渡来から明治政府下の宗教弾圧に至るまで、330年間のキリスト教の歴史を紹介しています。 長谷川路可のフレスコ画「長崎への道」、フランシスコ・ザビエルの書簡などキリシタン関連の貴重な品々が収蔵されています。
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長崎県長崎市西坂町の西坂公園にある日本二十六聖人の殉教地です。
長崎市街を見下ろす西坂の丘は昭和31年(1956)公園となり、長崎県指定史跡となりました。この場所でペトロ・バプチスタ神父以下6人の宣教師と日本人信者20人が処刑されました。
昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、ここに舟越保武の日本二十六聖人の記念碑と今井兼次設計による鉄筋コンクリート3階建の二十六聖人記念館が建てられました。
豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
日本二十六聖人の記念碑は高さ5.6メートル、幅17メートルの記念碑です。御影石の台座の上に、26聖人の等身大のブロンズ像が彫られています。
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昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、ここに舟越保武の日本二十六聖人の記念碑と今井兼次設計による鉄筋コンクリート3階建の二十六聖人記念館が建てられました。
豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
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