北海道函館市住吉町にある石川啄木一族の墓です。
石川啄木は明治40年(1907)5月から9月までの短い期間、函館公園の北側にある青柳町で暮らしました。離散していた家族を呼び寄せ、文芸結社の苜蓿社の同人らの温かい友情に支えられ啄木にとって想い出の場所でした。
明治45年(1912)4月に27歳という短い生涯を東京で終えた啄木の遺骨は、節子夫人の希望で大正2年(1913)、函館に移されました。大正5年に啄木の愛した立待岬に義弟・宮崎郁雨の手で墓碑が建てられたのでした。
東海の 小島の磯の 白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたわむる
啄木が散策した大森海岸を見渡すことができる墓には一握の砂の一首が彫り込まれていました。
啄木の墓の隣には、啄木を物心両面で支えた義弟の宮崎郁雨の墓があります。
蹣跚まんさんと 夜道をたどる淋しさよ
酒はひとりし 飲むものならず
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
石川啄木は明治40年(1907)5月から9月までの短い期間、函館公園の北側にある青柳町で暮らしました。離散していた家族を呼び寄せ、文芸結社の苜蓿社の同人らの温かい友情に支えられ啄木にとって想い出の場所でした。
明治45年(1912)4月に27歳という短い生涯を東京で終えた啄木の遺骨は、節子夫人の希望で大正2年(1913)、函館に移されました。大正5年に啄木の愛した立待岬に義弟・宮崎郁雨の手で墓碑が建てられたのでした。
東海の 小島の磯の 白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたわむる
啄木が散策した大森海岸を見渡すことができる墓には一握の砂の一首が彫り込まれていました。
啄木の墓の隣には、啄木を物心両面で支えた義弟の宮崎郁雨の墓があります。
蹣跚まんさんと 夜道をたどる淋しさよ
酒はひとりし 飲むものならず
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北海道函館市元町にあるハリスト正教会です。
日本にできた最初のギリシャ正教の教会です。鐘の音からガンガン寺と親しみをこめて呼ばれています。
荘厳なロシア風ビザンチン様式の教会で、安政年間の教会は大火などで焼失してしまいました。現在の建物は大正5年(1916)に再建されたものです。
文久元年(1861)にこの地に来たハリストス正教会の司祭ニコライは、キリスト教徒が国禁下におかれていたにもかかわらず、日本で初めてロシア正教を伝導したのでした。
白壁と緑の尖った屋根を持つビザンチン様式の美しい姿は、外国との貿易港であった函館の象徴になっています。白い外壁と、青緑の屋根とのコントラストがエキゾチックな印象をあたえます。
ハリストスとは、ギリシャ正教でキリストのことだそうです。東京・神田ニコライ堂の鐘は、昭和3年(1928)にここから移されたものだそうです。
同志社大学の創始者新島襄は、21歳の時、箱館に来て、この教会にいました。そして、ここで知合った福士宇之吉(成豊)の手助けによって、元治元年(1864)函館港からアメリカ船ベルリン号に乗り込みアメリカに向ったのです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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日本にできた最初のギリシャ正教の教会です。鐘の音からガンガン寺と親しみをこめて呼ばれています。
荘厳なロシア風ビザンチン様式の教会で、安政年間の教会は大火などで焼失してしまいました。現在の建物は大正5年(1916)に再建されたものです。
文久元年(1861)にこの地に来たハリストス正教会の司祭ニコライは、キリスト教徒が国禁下におかれていたにもかかわらず、日本で初めてロシア正教を伝導したのでした。
白壁と緑の尖った屋根を持つビザンチン様式の美しい姿は、外国との貿易港であった函館の象徴になっています。白い外壁と、青緑の屋根とのコントラストがエキゾチックな印象をあたえます。
ハリストスとは、ギリシャ正教でキリストのことだそうです。東京・神田ニコライ堂の鐘は、昭和3年(1928)にここから移されたものだそうです。
同志社大学の創始者新島襄は、21歳の時、箱館に来て、この教会にいました。そして、ここで知合った福士宇之吉(成豊)の手助けによって、元治元年(1864)函館港からアメリカ船ベルリン号に乗り込みアメリカに向ったのです。
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北海道函館市元町にある旧函館区公会堂です。
明治43年(1910)に建てられた函館を代表する木造洋風建築物です。函館山を背にかかえ、ブルーグレーと黄色の彩色がひときわ目立つ建物です。
函館区民の集会所として、また政財界人の社交場として建てられたものだそうです。館内の装飾は、ルネッサンス風の華麗さの中に和風建築の様式を織り交ぜています。
元町公園のすぐの高台にあり、国の重要文化財に指定されています。玄関と左右入口、そして2階には柱頭飾りのある特徴的な建物です。内部の調度など由緒ある重厚な雰囲気を保っています。
2階のバルコニーから函館の町や港がよく見えます。これらの函館らしい歴史的な町並みや建物は、元町や末広町周辺に多く、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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明治43年(1910)に建てられた函館を代表する木造洋風建築物です。函館山を背にかかえ、ブルーグレーと黄色の彩色がひときわ目立つ建物です。
函館区民の集会所として、また政財界人の社交場として建てられたものだそうです。館内の装飾は、ルネッサンス風の華麗さの中に和風建築の様式を織り交ぜています。
元町公園のすぐの高台にあり、国の重要文化財に指定されています。玄関と左右入口、そして2階には柱頭飾りのある特徴的な建物です。内部の調度など由緒ある重厚な雰囲気を保っています。
2階のバルコニーから函館の町や港がよく見えます。これらの函館らしい歴史的な町並みや建物は、元町や末広町周辺に多く、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。
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北海道函館市元町にある元町公園からの景色です。
元町公園は昭和57年(1982)10月に洋風公園として開園しました。元町は明治6年(1873)に正式町名となりました。横浜の港の見える丘公園によく似ています。
ここは函館発祥の地です。江戸時代中期からここに役所がありました。松前藩時代には亀田番所、幕府直轄時代には箱館奉行でした。
明治以後は開拓史の支庁、函館県の県庁、北海道庁函館支庁となり、大正11年(1922)市政施行により、渡島支庁と改称されました。昭和25年(1950)まで古くは北海道、近年は道南の行政の中心となっていたのです。
園内には明治42年(1909)建築のルネサンス風の「旧北海道庁函館支庁庁舎」があり、現在観光案内所として使用されています。その他にも観光スポットが集まっています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
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元町公園は昭和57年(1982)10月に洋風公園として開園しました。元町は明治6年(1873)に正式町名となりました。横浜の港の見える丘公園によく似ています。
ここは函館発祥の地です。江戸時代中期からここに役所がありました。松前藩時代には亀田番所、幕府直轄時代には箱館奉行でした。
明治以後は開拓史の支庁、函館県の県庁、北海道庁函館支庁となり、大正11年(1922)市政施行により、渡島支庁と改称されました。昭和25年(1950)まで古くは北海道、近年は道南の行政の中心となっていたのです。
園内には明治42年(1909)建築のルネサンス風の「旧北海道庁函館支庁庁舎」があり、現在観光案内所として使用されています。その他にも観光スポットが集まっています。
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