栃木県日光市山内に日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)があります。
元和2年(1616)江戸幕府初代将軍徳川家康が駿河城(静岡県)に於いて死去しました。家康は生前、病床で「我亡からん後は、先づ駿河の久能山に葬り、一周忌を経て後大織冠の例を追うて日光山に移せ、神霊ここに留って永く国家を擁護し、子孫を守るべし」と遺言を残していました。
遺言通り一旦、家康の遺体は久能山に埋葬されました。翌年元和3年(1617),、家康の息子で2代将軍徳川秀忠は、日光に廟を造営し、改葬しました。朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられ東照社と称しました。
日光山5世貫主であった慈眼大法師天海の尽力もあって、正保2年(1645)、後水尾天皇から東照宮という宮号が下され、日光東照宮と改称し、翌年、東照大権現という神号が宣下されました。
3代将軍徳川家光は家康に対し特別に畏敬の念を抱いていました。日光東照宮への参拝は19回にも達し、寛永13年(1636)には莫大な費用と労力をかけ今までの社殿をより大規模なものに再建造営したのです。今日の絢爛豪華な社殿群を造り上げたのでした。
日光東照宮の総奉行は秋元泰朝、棟梁は甲良宗広一派が手掛け、将軍家の威光をかけた壮大華麗な社殿建築を造り出しました。例祭には朝廷から奉幣使が派遣されたり、朝鮮通信使が参拝に訪れたりして幕府、将軍家の権威を高めました。
東照宮では天海僧上の主張もあり山王一実神道による神仏混合を採用し、薬師如来と本地仏を祀り他の日光山内の社寺と渾然一体となっていました。
2代将軍秀忠が建立した拝殿・唐門・多宝塔は徳川家発祥の地とされる世良田東照宮へ移築され分霊を遷座しています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の「二社一寺」に集約され日光東照宮は改めて正式の神社となりました。家光の霊廟大猷院廟などは仏式の造りだったため輪王寺に帰属させられました。
東照宮では年中行事として春秋2回、東照宮例大祭が行われます。千人武者行列といい、馬に乗った神官や神輿、鎧兜に身を固めた武者たちの行列が参道を練り歩き、流鏑馬神事も奉納されます。
日光東照宮は現在でも多くの社殿や寺宝を所持し、特に本殿、石の間、拝殿、唐門、陽明門、東西廻廊、東西透塀は国宝に指定されています。石鳥居、五重塔、表門、三神庫、神厩舎、御水屋、輪蔵、鐘楼、鼓楼、本地堂、神楽殿、祈祷殿、神輿舎、坂下門などは国指定重要文化財です。
奥社では銅鳥居、銅神庫、拝殿、銅宝塔、鋳抜門、石玉垣、石柵が国指定重要文化財です。輪王寺本坊、大猷院廟、二荒山神社などと共に「日光山内」として国指定史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。
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